一章:さかなのゆめ③
「お初にお目に掛かります。無礼を承知の上で、お名前をお伺いしても?」
無理矢理に笑みを繕って、男は本に語り掛ける。
しかし本は当然のように沈黙している。
代わりとばかりに、透瑠の手は慣れ親しんだ、しかし決して本を持っている際には感じ得ない異物感を拾った。
革のつるりとした感触の奥、ごそごそと何かが蠢いている。
それは籠の中でエビやカニが這い回るものだった。
「……⁉」
反射的に放り出しそうになったのを透瑠は咄嗟に堪える。何が起っているのか、視線を向けた男は耳に着けていたらしい通信機器で何者かと言葉を交わしていた。
「警戒レベルを2へ――出てきます」
不穏な言葉に耳を疑う暇もなく、手記は透瑠の手の中で内側から押し広げられた。
激流がアスファルトをつよく叩き、水溜まりが凄まじい勢いで拡大していく。
「――っ!」
仄かに香る潮の匂い。海水に足首までを沈められ、透瑠は息を詰まらせる。
驚嘆。それは半分にも満たない。トラウマこそが、彼女を苦しめる正体。
「……っ!」
「動かないで!」
或いは遊びのつもりだったのだろう。
しかしそれまで
心臓が潰れる錯覚。呼吸は儘ならなくなり、酸欠が再び、水底へ沈んでいくあの浮遊感を生み出す。
「落ち着いて!本物の水じゃない!」
男の呼び掛けも聞こえはすれども、意味を持った言葉としては入ってはこない。
『なんだ、あんた水が恐いのか?』
しかしその声は、透瑠の頭に確かに届いた。
近いせいもあるのかもしれない。
覗き込まれている。得体の知れない何かに。なんでもいい。ただ今すぐこの苦痛から逃れたい一心で、透瑠は人形のように首を振る。
足が重い。水面はもう膝より高い所まできている。誰か。どうか。
『おれもだ。おかしいな。こんなんじゃなかったんだが』
しかし救いの手は差し伸べられない。ただなにかが呆れたように首を振る。
『でも離れられないんだよなぁ』
自嘲気味な声。ぐるりと身を捩らせる気配。ふと透瑠の頭の中に紙片程度の余裕が生まれた。
「……」
それは防衛本能が生み出した幻か。痙攣する横隔膜になんとか呼吸を紡ぎながら、透瑠は足で体を支える。
水は胸の高さまで上がってきている。飛沫が時折頬を叩く。しかしもう先程ほどの恐怖は感じられなくなっていた。
なくなったわけではない。トラウマの克服には未だ至ってはいない。
馴れ、とも少し異なる名状し難いよって、彼女の緊張と不安は和らいでいた。
『因果なもんだ』
呆れて肩を竦めたような声に、ふと笑みが零れそうになる透瑠。その刹那、信じ難い光景がそれを阻んだ。
「――っ⁉」
刀を振りかぶる鬼が迫っていた。
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