一章:さかなのゆめ➁

 迫る夜闇に追われる透瑠の乗る自転車は、山を拓いた険しい坂道まで差し掛かる。ここを越えれば家までもうすぐ。彼女の頭の中はやはり、資料室で見た手記のことでいっぱいだった。

 あの頁の続きには何が描かれていたのだろうか。筆者は何を見たのか。そもどのような人物があれを書いたのか。思いを馳せることしか出来ない。

 透瑠に分かっているのは、筆者が抱えていたであろう孤独だけ。

 ひとりよがりに過ぎないかもしれないけれど、何かに触れられた気がした。繋がれた気がした。

 それ故に借りることができなかったことが惜しまれる。

 きっと明日も見に行こう。透瑠の口元は知らず笑みの形に小さく弧を描いていた。

「……?」

 頂上が近付いてくる。そんな中で彼女は言い知れぬ違和感を覚えた。

 車が通らない。それが透瑠が辿り着いた違和感の正体だった。

 深夜でもない限り車の通りはそれなりにはある程度ある筈の道だ。今は見える限り彼女だけ。

 そんなこともあるだろう。今に頂上の向こうから下ってくる車とすれ違う。違和感が不意に萌芽させた不安が、そう思い過ごさせることを阻んだ。

 透瑠に出来るのはさっさと坂を越えてしまうことだけ。しかしそれも、長く勾配もそこそこに急な道では急げる程度が知れている。

 視界の端に過ぎる影のような不安を抱える彼女は、早足で坂を上っていった。

 そして結局一台の車も、歩行者の姿も見ることもないまま、透瑠は坂を上り切った。いつもの数分がいやに長く感じられ、心なしか景色は暗く、頂上に一本だけぽつんと立っている街灯の光が対照的に明るく感じられた。しかしその光も今は彼女が抱いている不安を拭うには心許ない。寧ろ誘蛾灯じみた罠の様相さえ呈している。

「……」

 そんな思いも相まって、敢えて照明の真下から離れたところで、透瑠自転車に跨る。

「あー、ちょっといいですか?」

 静寂の中にあってその軽薄そうな声は異様なほどによく響き、透瑠は弾かれるように振り返る。

「鞄の中見せてもらっても?」

 よれたシャツに乱れた髪。絵にかいたようなくたびれた印書を受ける男は、しかし思いの外若かった。

 面識のない人間に声を掛けられ、透瑠は身を強張らせる。それを感じ取ったらしく男はへらりと困り顔で笑ってみせた。

「あー、いきなり困るよね。ボクに見せなくていいからさ、本が入ってない確認してもらっていいかな?」

「……本?」

「そう。革装丁でタイトルとか何も書かれてない、魚とかが書かれたやつ」

 男の言葉を受けた透瑠の頭に浮かんだのは、資料室で見たあの手記。しかし、彼女は眉を顰める。

「その本なら水族館に置いてきました。館長に聞いてもらえれば分かると思います」

 何故本のことを。そして自分が読んだことまで知っているのか。疑問をしかし透瑠のは今は伏せておく。

「その館長からの報せでね――ああ大丈夫。君を疑ってるわけじゃない。ちゃんと受け取ったことまで聞いてるから」

 では何故

「問題は本の方なんだよね」

「……?」

 意味ありげな男の言葉に透瑠は首を傾げる。

「まぁいいや、で本入ってないかな?」

 話が本題に戻され、彼女は訝りながらも鞄を探る。

「――え?」

 元々大した量も入っていない。異物の存在はすぐに分かる。

 確かに館長に渡した筈の手記が紛れ込んでいた。

「やっぱりか」

「あの、これは、違うんです……」

 男の得心した声。動揺から透瑠の声は震える。

「ああ分かってる。君は悪くない。君はただ、たまたま見付けちゃっただけだ」

 優しく言い聞かせるような男の声は近く、透瑠の胸には安堵と更なる動揺とが同時に去来する。

「だから君は、それをボクに渡してくれればいい」

 言われるままに手渡し掛けた本が、男の手に収まるその寸前で空中に止まる。

「この本、なんなんですか?明日返すとかじゃだめなんですか?」

 男の表情がほんの僅かにではあるが曇った。

「君は知らない方がいいことだよ。それに、明日まで待ってくれない奴らが居るからね」

「それって……」

「さぁもらっていいかな?大丈夫だよ。さっきも言った通り、館長はちゃんと分ってるから。君は明日からもこれまで通り過ごせる」

 下りかけていた本を男は迎え入れる。透瑠の指から力が抜ける。

「心配いらない。いわゆるお国のためってやつさ」

 男は顔の横で本を掲げへらりと笑ってみせた。

「――いっ⁉」

 瞬間、男の手から本が弾け飛ぶ。反射的に透瑠はそれを掴んだ。手を押さえる男はどこか鬱陶しそうに本を見詰める。

 その様はまるで生き物に予期せず刺されたり、噛まれたりしたようだった。

「あ、あの――」

 静電気でもあったのだろうかと訝る透瑠。しかしそうではないとすぐに知ることになる。

「それを言う奴は信用出来ねぇ」

「――⁉」

 本が唸るような声を発した。

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