紅の花

濡れ鼠

紅の花

―恋はまつろわぬ鳥 誰も飼いならせやしない

 呼び寄せようとも無駄なことさ 気に食わなければ拒まれるだけ―

(歌劇『カルメン』より)


「ねえね、今日は帰らなくていいの?」

彼女の指先がテーブルの上を滑り、マーブル模様をなぞる。ウイスキーのボトルが、彼女のネイルに影を落とす。グラスから垂れた水滴が、彼女の指先を濡らした。

「辞めたんだ、もう」

僕が言うと、栗色の髪がふわりと揺れる。重たい睫毛に縁取られた瞳が鳶色に滲んで、今にも吸い込まれそうだ。コーラルピンクをまとった唇が、ゆっくりと動く。

「辞めちゃったの、自衛隊」

「うん」

僕はグラスを持ち上げ、琥珀色の液体を喉の奥へと流し込む。グラスの中で氷が、カラッと音を立てて回転した。彼女がウイスキーのボトルに手を伸ばす。革張りのソファの上で、アイボリーのドレスが広がる。

「だから、今日はずっといられるよ」

僕はアイスペールを押しのけ、彼女の指の上からボトルをつかむ。彼女が一瞬、顔をしかめた。ボトルの中で小さな波が揺れる。蓋をひねると、甘い香りが溢れ出す。

「嬉しいでしょ」

「うん」

彼女はハンカチでグラスの汗を拭う。鮮やかなピンクのハンカチは、僕があげたものではない。

「ねえ、そのハンカチ……」

言いかけたとき、彼女が席を立つ。ドレスの裾のレースが、僕の目の前をかすめた。造り物の赤いバラの陰で、置き忘れられた彼女の携帯電話の画面が、ぱっときらめく。僕はその光に吸い寄せられていく。


―いつまでもいつまでも 閉じたまぶたの裏に

 花の香りに酔いしれながら お前のことを思い浮かべて―

(前同)


ゴミの散乱した薄暗い路地を通り抜ける。カラスがビニール袋を奪い合い、泣きわめく。足取りはふやけて、しかし視界は冴え渡っている。

コンビニでは欲しかった物が見つからなくて、ディスカウントストアに行った。パッケージを剥ぎ取り、鞄の奥に沈める。

あとは彼女に、サプライズをするだけだ。彼女は装備を解いた姿で、僕の前に現れる。彼女の甘えるような瞳が、僕の方を向くことはない。

僕は彼女への贈り物を手に、彼女へ手を伸ばす。彼女の声が僕の鼓膜に突き刺さり、紅の花びらがぱっと散った。

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紅の花 濡れ鼠 @brownrat

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