第十一話:『融合』
「……なんだ……? どうなってやがるんだ……?」
最初に沈黙を破ったのはアリシアだった。彼女は背中の大剣に手をかけたまま、信じられないといった様子で周囲を何度も見回している。その目はまだ目の前の現実を受け入れられていないようだった。
「さっきの森は……消えたのか? いや、そもそもあれは幻だったってのか……?」
「……分からない。でも、戻ってきた……みたいですね。最初の、この場所に」
俺は自分の足元を見た。濃い茶色の湿ったカーペット。この不快な感触は間違いなく、この『バックルーム』の最初の階層のものだ。
「……匂いも、空気も、同じ」
セレナが静かに呟いた。彼女の顔からは先ほどの穏やかな笑顔は消え、いつもの感情の読めない表情に戻っていた。だが、その翠色の瞳の奥には確かな戸惑いの色が浮かんでいる。彼女もまた、このあまりに唐突な場面転換に思考が追いついていないのだろう。
俺たちはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
電車での俺の悪夢。アリシアの過去との対峙。そして、セレナの憎しみが作り出した焼け落ちた森。それら一連の出来事があまりにも濃密で現実離れしていたせいで、この何の変化もない黄色い廊下に戻ってきたこと自体がひどく非現実的に感じられた。
「……とにかく、だ」
アリシアが無理やり思考を切り替えるように、大きく息を吐いた。
「あの気味の悪い場所から抜け出せたのは事実だ。今は、それでよしとしようぜ。なあ?」
彼女は俺とセレナの顔を交互に見て、努めて明るく言った。その気遣いが今はありがたかった。
「そうですね。ひとまず、安全になったと考えていいんでしょうか」
「ああ。少なくとも、あの亡霊どもや炭化した傭兵よりは、この何もない廊下の方が百万倍マシだ」
アリシアの言葉に俺も頷いた。確かにそうだ。あの精神を直接削ってくるような悪夢の世界に比べれば、この単調な空間はまだしも歩き慣れた場所だった。
だが、本当にそうだろうか。
この世界がそう簡単に俺たちを解放してくれるとは、到底思えなかった。
俺のそんな一抹の不安を裏付けるかのように、異変は唐突に、そして静かに始まった。
◇
「……ん?」
最初に気づいたのはアリシアだった。彼女はふと何かを訝しむように、目の前の壁の一点に視線を固定した。
「どうしたんですか?」
「いや……。なんだ、ありゃ。壁紙が剥がれてやがるのか?」
彼女が指さす方を見て、俺も首をかしげた。
これまで寸分の狂いもなく完璧に貼り付けられていたはずの黄色い壁紙。その一部分が、まるで湿気で浮き上がったかのように少しだけめくれている。そして、その隙間から壁紙とは全く異質な、ごつごつとした灰色の何かが覗いていた。
「石……?」
俺はためらいがちにその壁に近づき、指先で触れてみた。ひんやりとしていて、硬く、ざらついた感触。それは紙や石膏ボードのようなものではない。間違いなく、本物の岩石だった。
「……この石、どこかで……」
アリシアが顎に手を当てて、記憶を探るように唸る。そして、はっとしたように目を見開いた。
「……そうだ。わたしの記憶にあった、あの砦だ。あの砦で使われていた石畳と同じもんだ、これ」
「え……?」
アリシアの言葉に、俺の背中に冷たいものが走るのを感じた。
この黄色い壁紙の廊下に、なぜアリシアの記憶から生まれたはずの、砦の石材が?
俺たちがそんな疑問に答えを見つけられないでいる間に、異変はさらに広がっていく。
「……足元」
セレナが静かに、しかし鋭い声で言った。
俺たちは弾かれたように自分たちの足元に視線を落とす。
湿っていたはずの茶色いカーペット。その一部分が、まるで病巣に侵食されるかのように鮮やかな緑色にその色を変えていた。
それはただ色が変わっただけではなかった。
じゅっと水分を含んでいたはずの感触は、ふかふかとした柔らかな感触へと変わっている。そしてそこからは、雨上がりの森のような濃密な土と植物の匂いが立ち上っていた。
「苔……」
セレナがその場に膝をつき、緑色の地面にそっと指先で触れた。
「……故郷の森に生えていたものと同じ。……土の匂いがする」
彼女の声はひどく落ち着いていた。だが、その落ち着きこそがこの状況の異常さを何よりも際立たせていた。
アリシアの記憶の『砦』。
セレナの記憶の『森』。
それらが今、この現実の空間を少しずつ、しかし確実に侵食し始めている。
俺は理解した。
あの悪夢の世界は終わったのではなかったのだ。
終わるどころか、俺たちの精神世界とこの物理空間との境界が曖昧になり、一つの世界として再構築されようとしている。
その恐ろしい事実に気づいた、その時だった。
ミシミシッ……!
床下から何かが軋むような鈍い音が響き始めた。
俺たちは咄嗟に身構える。
「なんだ!? 今度は床から何か来るのか!?」
アリシアが大剣を構えながら叫んだ。
軋む音は徐々に大きくなっていく。そしてセレナが触れていた苔の生えた部分のカーペットが、まるで巨大な生き物が下から押し上げるかのようにゆっくりと盛り上がり始めたのだ。
メリメリメリッ!
カーペットが耐えきれずに引き裂かれる。その裂け目から茶色い土くれがぼろぼろとこぼれ落ちた。
そして、次の瞬間。
俺たちの目の前で信じられない光景が繰り広げられた。
ズズズズズズ……!
裂けた床下から巨大な何かがゆっくりと、しかし抗いがたい力で姿を現したのだ。
それは、木の幹だった。
まるで天を突くかのような巨大な樹木。その幹は、大人が三人で腕を回しても届かないのではないかというほどの太さがある。樹皮は深い緑色を帯びた苔に覆われ、そこには何百年、あるいは何千年という途方もない時間が刻み込まれているようだった。
その巨木がこの建物の床をいともたやすく突き破り、天井に向かってその身を伸ばしていく。
ゴゴゴゴゴ……!
天井に設置されていた蛍光灯が巨木の成長に耐えきれず、次々と粉々に砕け散る。ガラスの破片が雨のように降り注いだ。
やがて巨木はコンクリートの天井すらも突き破り、その先にあるであろうさらなる上層階へとその枝を伸ばしていった。
後に残されたのは、床にぽっかりと開いた大穴と、そこから天に向かって伸びる圧倒的な存在感を放つ巨大な樹木だけだった。
俺たちはただ呆然と、その光景を見上げることしかできなかった。
「……嘘だろ……」
アリシアの唇から乾いた声が漏れた。
この人工的な閉鎖空間に突如として現れた、あまりにも雄大で、あまりにも場違いな自然の象徴。そのアンバランスな光景は、もはや悪夢という言葉ですら生ぬるいように感じられた。
「……母なる大樹」
セレナがどこか恍惚としたような表情でその木を見上げていた。彼女にとっては、これは故郷の森の象徴なのだろう。だが俺にとっては、この世界の法則が完全に崩壊し始めていることを示す恐怖の象徴でしかなかった。
だが、世界の変貌はそれだけでは終わらなかった。
◇
「……おい、上もだ」
アリシアが天を指さしながら警戒の声を上げた。
俺は彼女の視線の先を追って天井を見上げた。
巨木が突き破った穴のその周囲。これまで何の変哲もなかったはずの白い天井が、まるで水面のように波紋を描いていた。そして、その表面が徐々に石畳の模様へと変化していく。
それは先ほど壁の一部で見た、あの砦の石畳だった。
だがその使われ方は常軌を逸していた。
石畳は天井から逆さまにぶら下がっていたのだ。
重力の法則を、完全に無視して。
まるで、この廊下の上にもう一つ天地が逆になった世界が存在し、その床だけが俺たちの世界に姿を現したかのようだった。
逆さまの石畳の隙間からは、ぽつり、ぽつりと冷たい水滴が滴り落ちてくる。それはアリシアの記憶にあった、あの砦を濡らしていた冷たい雨の雫なのだろうか。
床を突き破って生える巨大な樹木。
天井から逆さまにぶら下がる石畳の道。
そして、壁には悪趣味な黄色い壁紙。
三つの全く異なる世界の法則が、一つの空間の中で何の脈絡もなく同時に存在している。それはもはや混沌という言葉ですら陳腐に聞こえるほどの、狂った光景だった。
「わけがわからねえ……。どうなってやがるんだ、ここは……」
アリシアが頭を抱えるようにして呻いた。彼女ほどの経験豊富な冒険者でさえ、この理解不能な現象の前ではただ混乱するしかないようだった。
「……一つに、なっている」
セレナが静かに、しかし確信に満ちた口調で言った。
「わたしたちの記憶が、この場所に。……いいえ、この場所そのものが、わたしたちの記憶を元に新しく生まれ変わろうとしている」
「生まれ変わるだと? こんなちぐはぐな世界にか?」
アリシアが信じられないといった様子でセレナに問い返す。
「……そう。わたしたち三人の心が繋がったから。……互いの傷を庇い合い、受け入れたから。この世界はもう、誰か一人の記憶を忠実に再現するだけではいられなくなった」
セレナの言葉に、俺ははっとした。
彼女の言う通りなのかもしれない。
俺の孤独が生んだ無人の電車。
アリシアの罪悪感が生んだ、仲間たちの亡霊が彷徨う砦。
セレナの憎悪が生んだ、焼け落ちた森と傭兵たち。
それらは全て、俺たちがそれぞれ一人で抱え込んでいた心の傷が作り出した世界だった。
だが、俺たちはもう一人ではない。
俺はアリシアとセレナに自分の弱さを支えてもらった。
アリシアは俺とセレナの前で初めて自分の過去と向き合った。
そしてセレナは俺とアリシアの存在によって憎しみから解放された。
その過程で俺たちの心は、あの悪夢の世界を乗り越える中でこれまで以上に強く、深く結びついたのだ。
その結果が、これだというのか。
俺たちの精神的な繋がりがこの世界の法則そのものを書き換え、それぞれの記憶の世界を無理やり一つの空間に融合させているのかもしれない。
「じゃあなんだってんだ……。俺たちが仲良くなったせいで、この世界がこんなメチャクチャになっちまったってことかよ!?」
アリシアが納得できないといった様子で叫んだ。
「……そうかもしれない。……あるいは、これがこの世界の本来の姿なのかも」
セレナは天井からぶら下がる石畳を静かな瞳で見上げながら、そう呟いた。
本来の姿。
その言葉が俺の頭の中で奇妙な響きを持って反響した。
この世界は最初からこうなることを望んでいたのだろうか。俺たちを引き込み、それぞれの心の傷を暴き出し、そして俺たちが互いに寄り添い一つになるのを待っていたとでもいうのだろうか。
一体、何のために?
その答えはどこにもない。
俺は改めて周囲を見渡した。
世界の変貌はまだ止まってはいなかった。
壁の黄色い壁紙がまるで生き物のように脈動している。そしてその表面に、見慣れた模様がじわりと浮かび上がってきた。
それは俺がいたショッピングモールの床に使われていた、大理石風のタイルの模様だった。
壁の一部が完全にあのモールの壁面に変わっている。そこにはご丁寧にテナント募集のポスターまで貼られていた。
さらに廊下の隅、天井の逆さの石畳から滴り落ちる水滴が溜まってできた小さな水たまり。その水面が不意にきらりと光を放った。見ると、水たまりの中には古い木造校舎で使われているような長机と椅子がミニチュアのように浮かんでいた。
俺の記憶までもがこの狂った世界の新たな一部として取り込まれ始めている。
「……もう、何でもありだな」
アリシアが力なくそう言って笑った。それはもはや諦めの笑みに近かった。
俺もセレナも、何も言うことができなかった。
目の前に広がる、あまりにも非論理的でちぐはぐな光景。
それはまるで三人がそれぞれ見ていた悪夢を、誰かが何の悪意もなく、ただ無造作に切り貼りして繋ぎ合わせたかのようだった。
美しいセレナの森の巨木。
荒々しいアリシアの砦の石畳。
そして、俺の何の変哲もない日常の断片。
俺たちは言葉を失い、ただ立ち尽くす。
これから俺たちはどこへ向かえばいいのだろうか。
いや、そもそもこの場所に、もう『先』など存在するのだろうか。
答えは、この狂った世界のどこにもありはしないように思えた。
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