第十話:『解放』

 空気が、軋んだ。

 セレナの体から放たれた凄まじい魔力が、この死んだ森の淀んだ大気を飽和させ、空間そのものを圧迫しているかのようだった。彼女の足元から、灰に覆われた大地に翠色の亀裂が走り、そこから燐光のような光が立ち上っている。彼女の銀色の長髪は風もないのに大きく逆立ち、その一本一本が魔力の奔流と化していた。

 もはや俺が知っている、あの物静かなエルフの面影はどこにもなかった。そこに立っているのは、憎悪と復讐心にその身を焦がす、恐ろしくも美しい破壊の化身だった。


「……おい、ケイ。少し下がりやがれ。下手に巻き込まれたら、骨も残らねえぞ」


 アリシアが俺の前に片腕を広げて制しながら、低く警告した。彼女の声には目の前の傭兵たちに対する警戒心と、それ以上に今のセレナに対する畏怖のようなものが含まれていた。俺は言われるがままに数歩後ずさる。セレナから放たれる圧倒的な圧力は、肌をぴりぴりと刺すように痛かった。


「セレナさん……」


 俺は思わず彼女の名前を呼んだ。だがその声は、彼女の耳には届いていないようだった。彼女の翠色の瞳はただ一点、憎むべき敵である傭兵たちだけを捉えている。その瞳の奥で燃え盛る炎は、もはや彼女自身の意思で制御できるものではないのかもしれない。

 対する傭兵たちは、セレナのその異様な変化を前にしても全く動じる様子を見せなかった。ただ、その炭化した顔に浮かべた下卑た笑みをさらに深くするだけ。その笑いは声にはなっていなかったが、俺の脳には直接その嘲りの声が流れ込んでくるようだった。


『……ヒヒッ、なんだァ、嬢ちゃん。やっとやる気になったのか?』

『いいぜ、遊んでやるよ。お前の仲間たちにしてやったみたいに、念入りにな』

『あの時の悲鳴は、耳に残ってるぜ。もっと聞かせろよ、なあ?』


 汚らわしい言葉の礫が、セレナの心をさらに深く傷つけようとする。

 その挑発が、引き金になった。


「……黙れ」


 セレナの唇から、地を這うような低い声が漏れた。

 次の瞬間、彼女は杖を天に突き上げた。杖の先端の宝玉が禍々しいほどの光を放ち、周囲の闇を翠色に染め上げる。


「お前たちに……わたしの同胞の名を、口にする資格はない」


 彼女がそう言い放つと同時に、杖の先端から無数の光の矢が放たれた。それは以前のっぺらぼうの怪物を浄化した、あの聖なる光の矢ではなかった。一本一本が純粋な憎悪と殺意だけで練り上げられた呪いの矢。その軌跡は空間そのものを歪ませながら、傭兵たちへと殺到した。


 シュンッ! シュンッ! シュンッ!


 空気を切り裂く鋭い音と共に、光の矢は寸分の狂いもなく傭兵たちの体を貫いていく。


 だが。


「……なっ!?」


 アリシアが驚愕の声を上げた。

 光の矢は、確かに傭兵たちの体を貫通した。だが彼らは倒れない。それどころか、その炭化した体に開いた風穴からさらに強い、地獄の業火のような赤い光を噴き出させていた。

 セレナの憎しみを込めた攻撃が、彼らの存在をさらに強固なものへと変えてしまっている。


『……ハハハッ! 効かねえ、効かねえぞ! 雑魚が!』

『そうだ、もっと憎め! 絶望し、死ね!』


 傭兵たちは哄笑した。その声なき声が森全体に響き渡る。


「くそっ……! どうなってやがる!」


 アリシアは大剣を握りしめ、忌々しげに吐き捨てた。彼女もこの戦いの異常な本質に気づいているのだろう。

 セレナは自分の攻撃が逆効果になっていることにも気づかず、さらに魔力を高めていく。その瞳はもはや憎悪の色に完全に染まり、冷静な判断力を失っているようだった。


「消えろ……。消えなさい……!この世界から!」


 彼女は狂ったように叫びながら、次々と光の矢を放ち続ける。その姿は痛々しく、見ていられなかった。彼女は自分自身を傷つけるようにして、戦っているのだ。

 傭兵の一人がゆっくりと前に出た。片目に深い傷跡を持つ、ひときわ体格のいい男だった。おそらく、こいつが傭兵団の頭目なのだろう。


『……無駄だ、エルフ。お前は俺たちからは逃げられない。お前が俺たちを覚えている限り、俺たちはお前の心の中で永遠に生き続ける』


 男はまるでセレナに言い聞かせるように、ゆっくりと語りかけた。その言葉は甘い毒のように、彼女の精神を蝕んでいく。


『そうだろ? お前は忘れたくても忘れられない。俺たちが、お前の故郷を、仲間を、どうしたのか。その光景は、お前の瞼に焼き付いて離れないはずだ』


「……黙れ……黙れぇっ!」


 セレナが絶叫し、これまでで最大級の光の矢を放った。それはもはや矢というよりも巨大な光の槍と呼ぶべきものだった。光槍は頭目の男の胸を完全に消し飛ばした。

 だが男は、それでも倒れない。胸に巨大な穴を開けたまま、下卑た笑みを浮かべてそこに立ち尽くしている。


『……そうだ。その顔だ。その絶望に満ちた顔が、俺たちは見たかったんだよ』


 男は満足そうに言った。

 その言葉が、セレナの心にとどめを刺した。

 彼女の体からふっと力が抜けた。杖の先端の光が急速に弱まっていく。その瞳から憎悪の炎が消え、代わりに深い、深い絶望の色が浮かんでいた。


「あ……あ……」


 彼女は膝から、ゆっくりと崩れ落ちた。

 勝てない。

 どうやっても、この敵には勝てない。

 その事実が、彼女の心を完全に折ってしまったのだ。


「……セレナ!」


 アリシアが悲痛な声を上げて彼女に駆け寄ろうとした。

 だが他の傭兵たちがそれを許さない。彼らはアリシアの前に立ちはだかり、その行く手を阻んだ。


「どきやがれ、クズどもが!」


 アリシアは怒りに任せて大剣を振るった。その一撃は数体の傭兵をまとめて吹き飛ばす。だが彼らはまるで煙のように霧散し、すぐにまた元の場所で形を取り戻した。物理的な攻撃も、やはり意味をなさない。


「ちくしょう……!」


 アリシアの焦燥に満ちた声が、森に響く。

 俺は、その光景をただ見ていることしかできなかった。

 アリシアの時と同じだ。俺はまたしても何もできない。ただ仲間が苦しんでいるのを、指をくわえて見ているだけ。

 本当に、俺は無力だ。

 この世界に来て少しは変われたと思っていた。アリシアやセレナという信頼できる仲間ができて、一人じゃないと思えるようになった。だが結局、俺は何も変わっていなかったのかもしれない。

 いざという時に、何もできない。誰の役にも立てない。

 そんな自分に吐き気がした。



 傭兵たちの頭目が、膝をついたまま動かないセレナにゆっくりと近づいていく。その炭化した手が、彼女の銀色の髪に伸ばされようとしていた。


「やめろ……!」


 俺は思わず叫んでいた。

 その声に頭目の男は、ぴたりと動きを止めた。そしてその感情のない瞳で、初めて俺の方を見た。


『……なんだ、お前は。人間のガキか。こんなところに、まだ生き残りがいたとはな』


 男は心底つまらなそうに言った。


『まあ、いい。ちょうどいい。こいつを嬲り殺した後で、お前も同じようにしてやる。安心しろ、一瞬で楽にしてやるからよ』


 その言葉に、俺の中の何かがぷつりと切れた。

 恐怖はあった。足は鉛のように重く、動かない。

 だがそれ以上に、許せないという激しい感情が腹の底から湧き上がってきた。

 こいつらはセレナさんの故郷を奪い、仲間を殺し、そして今、彼女の心までをも弄ぼうとしている。

 そんなこと、絶対にさせてたまるか。

 たとえ俺に何の力がなかったとしても。

 たとえこれが無意味な自己満足だったとしても。

 俺はもう、黙って見ているだけなのはごめんだ。


「……ふざけるな」


 俺は自分でも驚くほど低い声で言った。


「お前たちなんかに、セレナさんを指一本触れさせるか」


 俺は一歩、前に出た。

 アリシアの時と同じように。

 何の勝算もなく、ただがむしゃらに。


「ケイ!? 馬鹿、やめろ! お前が出てきてもどうにもならねえ!」


 アリシアの制止の声が聞こえる。

 だが俺はもう止まらなかった。

 俺はゆっくりと、絶望に打ちひしがれるセレナの元へと歩いていった。

 傭兵たちは俺のその奇妙な行動を訝しげに見ているだけだった。おそらく、何の力も持たない俺のことなど全く脅威に感じていないのだろう。

 俺はセレナの隣に、静かに膝をついた。

 彼女はうつむいたまま、ぴくりとも動かない。その瞳は完全に光を失い、ただ灰に覆われた地面を虚ろに見つめているだけだった。


「セレナさん」


 俺は静かに彼女の名前を呼んだ。

 返事はない。

 俺は何を言えばいいのか分からなかった。慰めの言葉も励ましの言葉も、今の彼女にはきっと届かないだろう。

 だから、俺は何も言わなかった。

 ただ、そっと彼女の肩に手を置いた。

 びくっと、彼女の体が小さくこわばる。

 俺は何も言わずに、ただそこにいた。彼女の隣に。


 言葉はいらない。

 ただ伝えたかった。

 あなたは一人じゃない、と。


 あなたの痛みは俺には完全には分からないかもしれない。でも、その痛みを少しでも一緒に背負わせてほしい、と。

 俺のその拙い思いが、伝わったのだろうか。

 セレナの肩の力が、ほんの少しだけ抜けたような気がした。

 彼女はゆっくりと、顔を上げた。

 その翠色の瞳が、俺を捉える。その瞳はまだ絶望の色に染まっていたが、その奥にごくわずかに光が戻ったように見えた。


「……ケイ……?」


 彼女の唇から、か細い声が漏れた。

 その時だった。

 俺の背後に力強い足音が近づいてきた。

 振り返らなくても、誰だか分かった。


「……セレナ」


 アリシアの声だった。

 彼女は俺の隣に立つと、セレナの背中を守るようにその広い背中で傭兵たちとの間に立ちはだかった。


「……お前は、一人じゃねえ」


 彼女は大剣を地面に突き立てながら、静かに言った。


「わたしもケイもここにいる。お前がそいつらに心を食い尽くされそうになったら、わたしたちが何度でもお前を現実に引き戻してやる」


 アリシアの言葉はぶっきらぼうだった。だがその声には、何よりも強い仲間への信頼と愛情が込められていた。


「だから、思い出せ、セレナ。お前は復讐のためだけに生きているわけじゃねえだろ? お前にはわたしたちがいる。……わたしたちには、お前が必要なんだ」


 その言葉は、まるで魔法のようにセレナの心に染み渡っていった。


 彼女の翠色の瞳から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それは憎しみの涙ではなかった。

 悲しみの涙でも、絶望の涙でもない。


 温かい涙だった。

 失っていたものを取り戻したかのような、安堵の涙。


 彼女の全身から、あれだけ立ち上っていた凍てつくような憎悪の気配がすっと消えていくのが分かった。

 代わりにいつもの、静かで穏やかな彼女本来の気配が戻ってきた。


「……アリシア……。ケイ……」


 彼女は俺たちの名前をもう一度呼んだ。

 その声は、もう震えてはいなかった。


「……ありがとう」


 彼女はそう言うと、ふっと優しく微笑んだ。

 俺が初めて見る、彼女の心からの笑顔だった。



 その笑顔が、引き金になった。

 セレナが本当の自分を取り戻した、その瞬間。

 世界が切り替わった。


 何の予兆もなかった。

 目の前で断末魔を上げていたはずの傭兵たちが音もなく消えた。

 俺は瞬きをするかのような一瞬。

 ただ初めからそこにいなかったかのように、瞬時にその存在が消えていた。


 それと全く同時だった。


 俺たちを取り囲んでいたあの黒く焼けただれた森が、まるでテレビの電源が突然切れたかのようにぷつりと消え失せたのだ。

 鼻をついていた焦げ臭い匂いが、一瞬であの慣れ親しんだカビと湿ったカーペットの匂いへと変わる。足元で感じていた乾いた灰の感触は、じゅっと水分を吸った不快な感触へと置き換わった。視界を覆っていた陰鬱な薄闇は、目がチカチカするような蛍光灯の無機質な光に取って代わられた。


「……は?」


 誰かが漏らした間抜けな声。それは俺の声だったかもしれないし、アリシアの声だったかもしれない。


 俺たちは、立っていた。

 どこまでも続く、あの悪趣味な黄色い壁紙の廊下の、その真ん中に。

 さっきまでいたはずの、セレナの故郷の成れの果てはどこにもない。傭兵たちの姿も、どこにもない。

 まるで今まで起きていたこと全てが、三人で見たほんの数秒の悪夢だったかのように。

 後に残されたのは、ブーンという蛍光灯の単調なハム音と、俺たちの間の言葉にならない当惑だけだった。

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