第十二話:『異相』

 廊下を進んでいた、俺たちの当惑を嘲笑うかのように、世界はさらに加速していた。

 また、世界が切り替わったからだ。


「うわっ!?」


 瞬時に切り替わった世界に思わず、俺は後ずさった。

 気がついたとき、その後に現れた光景に俺たちは完全に言葉を失った。


 そこはもはや、黄色い壁紙の廊下ではなかった。

 床はワックスが掛けられたリノリウムに変わり、壁には緑色の黒板と色褪せた絵画が飾られている。そして、窓。俺たちがこの世界に迷い込んでから初めて目にする、外の光景が見える窓があった。


 その窓の外には茜色に染まった空と、遠くに見える家々の明かりが見えた。

 そこは校舎の廊下だった。

 俺がかつて通っていた、あの懐かしい学び舎の廊下と寸分違わぬ、光景。


「……なんだ、ここは……。また世界が変わったのか……?」


 アリシアが呆然と呟いた。


 俺の鼻腔をある匂いがふわりとくすぐった。

 かつての校舎の匂い。

 それは俺の日常の匂いだった。


 遠くからは微かに楽器の音が聞こえてくる。おそらく吹奏楽部が放課後の練習をしているのだろう。不揃いだが、どこか心地よいそのメロディ。


 全てが懐かしかった。

 この異常な世界に迷い込んでからずっと忘れていた、俺の当たり前の日常。その断片が今、目の前に完璧な形で再現されていた。


「……すごい」


 俺は思わず感嘆の声を漏らしていた。


「見てください、二人とも。夕焼けがすごく綺麗ですよ」


 俺は窓の外に広がる燃えるような茜色の空を指さした。そこにはゆっくりと沈んでいく太陽が美しいシルエットを描いている。

 この殺伐とした世界で、こんなにも穏やかで美しいものを見られるなんて。

 俺は、この感動を二人にも共有してほしかった。アリシアもセレナも、きっとこの光景を見れば少しは心が安らぐはずだ。


 俺は期待に満ちた気持ちで二人の方を振り返った。

 だが二人の反応は、俺が予想していたものとは全く違っていた。


「夕焼け? 何を言ってるんだ、ケイ」


 アリシアが心底不思議そうな顔で、俺が指さした窓を見ている。


「どこにそんなもんがある? 天井からひどい雨漏りがしてるだけじゃねえか。このままだと、鎧が錆びちまう」


 雨漏り?

 俺は彼女の言葉の意味が分からず、もう一度窓の方を見た。

 そこには美しい夕焼けが広がっているだけだ。雨など一滴も降っていない。天井から水が漏れている気配も全くない。


「……え? 雨漏りなんてしてませんよ。こんなに晴れてるじゃないですか」

「はあ? お前こそ何を言ってるんだ。びしょ濡れじゃねえか、この床も」


 アリシアはそう言って、廊下の床を鎧の足先でこすった。だが乾いた音がするだけで、水が跳ねる様子は全くない。

 どういうことだ?

 俺が混乱していると、それまで黙って窓の外を見ていたセレナが静かに一言だけ呟いた。


「……鉄と、血の匂い」

「……え?」


 俺はセレナの顔を見た。彼女は俺が「夕焼け」だと言った方向をじっと見つめている。その翠色の瞳には何の感情も浮かんでいない。ただ、その鼻がくんとわずかに動いているだけだった。


「血の匂い……? そんな匂い、どこからも……」


 俺は必死に周囲の匂いを嗅いでみた。チョークの匂い。校舎に満ちる、木の匂い。それだけだ。鉄錆の匂いも生臭い血の匂いも全くしない。


 どういうことだ?

 俺の頭は混乱していた。

 俺には美しい夕焼けが見える。懐かしい校舎の匂いがする。

 だがアリシアには雨漏りが見え、セレナは血の匂いを嗅ぎ取っているようだ。


「……どうした、ケイ。さっきから黙り込んで」


 アリシアの声が俺を思考の沼から引き戻した。

 俺ははっと我に返り、彼女の顔を見た。その顔には俺を心配するような、いつもの表情が浮かんでいる。


「……いえ、何でもないです。ちょっと考え事を……」

「そうか? まあ、いい。」

「よし、決まりだな。じゃあ行くぞ。何が飛び出してきてもおかしくねえからな。油断するなよ」


 アリシアはそう言うと大剣の柄を握りしめ、校舎の廊下の奥へと足を踏み出した。

 セレナも音もなくその後に続いてきた。



 校舎の廊下はどこまでも静かだった。

 俺の耳には遠くで聞こえる吹奏楽部の練習の音と、自分たちの足音だけが聞こえていた。


 廊下を歩く俺のスニーカーのキュッという音。

 アリシアの鎧が立てるカツン、カツンという硬い音。

 そしてほとんど音を立てずに歩くセレナのしなやかな気配。


 俺は、この静けさが心地よかった。

 放課後の誰もいなくなった校舎を歩いているような、特別な感覚。

 俺は隣の教室のドアに手をかけた。

 引き戸は、何の抵抗もなくガラガラと軽い音を立てて開いた。


「ここは……知っている場所です」


 中には見慣れた木製の机と椅子が整然と並べられている。黒板には誰かが書いた意味のない落書きがそのまま残っていた。チョークの匂いが一層濃くなる。

 俺は自分の席だった窓際の一番後ろの席にそっと触れてみた。ひんやりとした木の感触。ここからいつも、ぼんやりと外の景色を眺めていた。

 俺にとってここは安らげる場所だった。


「そうか、知っているのか……」


 独り言を言っていた俺の後ろから教室の中を覗き込んでいたアリシアが、訝しげな声を上げた。


「ずいぶんと血なまぐさい場所だな。床一面ゴブリンの死体が転がってやがる。一体ここでどんな激戦があったんだ?」

「……え?」


 俺は彼女の言葉に弾かれたように床を見た。

 そこにはきれいにが広がっているだけだ。ゴブリンの死体などどこにもない。


「死体……? どこにそんなものが……?」

「どこにって、お前の足元にも転がってるじゃねえか。緑色の醜い死体がよ。よく見ろ、まだ息があるやつもいるぞ」


 アリシアはそう言って大剣の切っ先で俺の足元の空間をつんと突いた。

 ただ、どうみても、彼女の持っている剣先が何もない空間を指していた。


 どういう意味だ?


 俺は首を傾げた。


「……違う」


 静かな声が俺たちの会話に割って入った。

 セレナだった。

 彼女は教室の入り口に立ったまま、その翠色の瞳でゆっくりと室内を見渡していた。


「……死体ではない。……枯れ木。そして折れた枝。……ここは、嵐が過ぎ去った後の森の中」

「森? どこがだよ、セレナ。どう見てもゴブリンの巣穴の食糧庫だろうが」

「……いいえ。風の匂いがする。湿った土と、朽ちた葉の匂い」


 二人の会話は全く噛み合っていなかった。

 俺は黒板に残された落書きに視線を向けた。それは傘のマークと誰かの名前が書かれた、ありふれた相合傘の落書きだった。

 俺は少しでもこの狂った状況から気を紛らわせたくて、二人に話しかけた。


「見てください。誰かがこんな落書きを……」

「落書き?ああ、壁の染みのことか」


 アリシアが顔をしかめて黒板を睨みつけた。


「血で書かれた呪詛の紋様だな。気味が悪い。ゴブリンのシャーマンでもいたのか?」

「……紋様ではない」


 セレナが静かに否定する。


「……古代樹の樹皮の模様。……精霊が宿っていた跡」


 それは直感だった。

 その三者三様の答えを聞いた瞬間、俺の頭の中でバラバラだったパズルのピースがカチリと音を立ててはまったような気がした。


 もしかして、俺たちが見ている世界が、それぞれ、全く違うものなんじゃないだろうか?


 夕焼けと、雨漏りと、血の匂い。

 教室と、ゴブリンの巣穴と、嵐の後の森。

 そして、ただの落書きと、呪詛の紋様と、精霊の宿る樹皮。


 つまり、物理的には同じ場所にいながら、それぞれの精神がそれぞれ全く別の景色を知覚しているのかもしれない。

 だとすれば、この会話の嚙み合わないことが説明できる。


 ただ、この考えに至った途端、俺は言いようのない途方もない孤独感に襲われた。


 それはこの世界にたった一人で迷い込んだ、あの時よりもずっと、ずっと深い孤独だった。


 仲間がいるのに、ここではどこまで行っても一人なのだ。

 その事実が、ナイフのように俺の心を静かに、しかし確実に傷つけていく。


 俺は無言で教室を出た。

 アリシアもセレナも、何も言わずにその後に続いた。

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