終わった後の約束の話――河原と奥さん

 青空の下よりベッドの中に居ることの方が多い妻が、珍しく調子が良いので散歩に出かけた。日傘の方がいいのだけれど、それよりも手をつなぎたいというものだから、代わりにつばの広い帽子をかぶせて、よくよく日陰の多い道を選びながら歩く。

 じわじわと鳴くセミと、首筋を撫でるぬるい風。地面から立ち上る少し湿った土の匂いと、どこかの軒先で鳴る風鈴の音。


「夏だねえ、色」

「そうだねえ、奥さん」


 ぶらりと揺らされた手が、汗で湿るのも構わずにしっかりとつなぎなおして、少し下で、帽子のつばをあげながら泣きぼくろのある目元が柔らかく笑った。普段はお人形の様に澄ましているのに、こうして笑うとどこか少年めいて見えるのだから、不思議だと思う。


「あ、また奥さんって言った。 いい加減、慣れてよ旦那さま」

「照れくさいんだよ。 今まで呼んでこなかったから」

「でも今は夫婦じゃない」

「そうなんだけどさあ」


 人生のほとんどを、妻に従う身として生きてきた。その気質をそう簡単に変えるには、自分は少しばかり若く、何より言葉通りに照れ臭かった。それを仕方ないなあなんて笑う妻に甘えて、結局なかなか名前で呼べていないのをからかわれる。

 けれどやられてばかりもいられないので、ついと口端をあげて言い返した。


「けど、そういって、僕に名前を呼ばれて真っ赤になるくせに」

「それとこれとは話が別です」

「そうかなあ」

「そうだよ」


 ふいに逸らされた顔が赤いのは、きっと日差しの所為では無いだろう。それを今度はからかわずに、そろそろ戻ろうかなんて言葉にして、そっと手をひく。


「帰りにアイスを買って帰ろっか」

「溶けちゃわない?」

「食べながら帰ればいいよ」

「お行儀が悪いわ」

「もう怒る人がいないんだから、いいんだよ。……蓬」

「……ふふ、そうだね、そうだったね、色」

 

 ぶらりと手が揺れる。呼べるようになった名が嬉しくて、照れ臭くて、噛みしめるように呼んでしまう。けれど口にすればするほど、結局家とは違う場所に閉じ込めただけなのではないかと思ってしまう。

 体が弱く、けれど良家の子女として、屋敷の奥に囲われて生きてきた妻を、無理やり連れだしたのは自分だ。一緒になる方法がこれしかなったとはいえ、妻の縁をすべて千切ったのは、他でもない自分だ。その上、日陰者の身の上になってしまったから、余計に表に出すわけにもいかない。

 思わず、自嘲の色は口端に乗ったのを自覚する。


「色」

「なあに?」


 それに気づいたのか、勘のいい妻は少し赤らんだ頬を膨らませていた。つないだ手の指が絡んで、ほどけない。


「私は、幸せ者よ」


 妻が、はっきりと口にする。思わず息を止めたのは、自分の方だった。


「色だって、いろんなものがあったし、いろんな道があったわ。 そのうえで、私を選んでくれた。 でもね、選んでもらえるようにしたのは、私よ」

「それを承知で選んだし、一緒になったよ」

「頭がいいくせに物好きよね、ほんと。 だから、今度は、選べるようにしておくわ」

「選べるように?」


 ふと、セミの声が止んだ気がした。静かな道の脇を、蒸し暑い排気ガスを吐き出しながらトラックが過ぎていく。


「私ね、覚えていることも大事だと思うけど、それと同じくらいに、忘れることって大切なことだと思ってる。 色は頭がいいから、多分人よりずっと長く覚えていられるんだと思うけど」

「色、私は、絶対に貴方を置いていく。だから、選んでいいの」


「私、貴方のことが大好きだし、愛してるわ」



「だから、傷つけたくないし、呪いたくもない。 けど、私が死んだら色は泣くだろうから、傷つけないのは無理な話。 だからせめて、呪いを残さないようにしたいのよ」




「だからね、色。 私のこと、覚えていてと言わないわ」





「忘れてとも言わない」






「選んでいいの。 私の死を、好きにしていい」







「私が貴方に最期にあげられるものって、きっとそれくらいだもの」








「だから、貴方が終わったとき、結局どうしたか教えてね」









 ぱさり


 紙が落ちた音で緩く瞼をあげる。


 どうやら書類を見ている途中で、転寝をしてしまったようだ。遠くでヒグラシが鳴いて、障子戸ごしの斜陽は足元を橙に染め、その夢の長さを知る。

 手の中にあったはずの書類のいくつかが足元に散らばっていて、差し込む光を映して燃えているようだった。拾おうと手を伸ばしかけて、体が酷く重かった。夢の中ではあんなに身軽だったのに。彼女の手を取るのも訳なくてだなんて思っていたが、少し霞む視界に思わず安楽椅子の背もたれへと体を戻す。

 ああ、と何ともなしに吐息が漏れた。


「もう、夢の中でくらいしか、まともに顔も思い出せないか……」


 記憶力には自信があったのだけれどと、思わず右手の掌に口を寄せた。ひんやりとして、汗の欠片も、彼女の温度も無い。狐だなんだと言われようと、所詮は自分は人なのだ。夢の最後の、彼女の言葉が耳に痛い。

 悪あがきのように、散らばる夢の残滓を瞼の裏に残せやしないだろうかと目を閉じる。


 同じ夢は、見なかった。

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