麟胆組書き散らし
宮社六野
いずれ尽くす身の上を拾う――筑紫君
喧噪もはるかに遠く、倒産してすでに持ち主すらも放棄した廃工場の一角。本来なら草木も眠る時間であるというのに、その場所はところどころ明滅する電球が工場内をわずかに照らして、ただ一人の影を割れたコンクリートの床に映していた。その人影の、荒れた息を整える肩が、電球の明かりに合わせて揺れる。
影は、少年は、怒っていた。誰に、ではなく。今この現状に、ここに至るまでのすべてに怒っていた。それは目の前のことでもあったし、少年自身は気付かなくてももしかしたら自分のことでもあったかもしれない。
けれどそれらは結局、怒り、というものの前にはどうだってよい事だった。ただ爆ぜたような怒りに身を任せて、すべてを無かったことにしたかっただけなのかもしれない。その結果、自らの所属していた組織を半壊状態へと差し向けた。それらを見届けて今、少年はひとり廃工場の中に潜んでいる。
此処に至るまでの仲間など居はしない。こんな場所にいるのだから、もちろん迎え入れてくれるような家族すらも。すべてひとりで考え、ひとりでやった。そんなものだから、いつもの溜まり場や隠れ家なんぞに行けるはずもなく。たまたま見つけたこの廃工場に、身を隠すに至ったのだ。本来なら明かりすらつけない方が身を隠せるのだが、木立に囲まれた目立たない場所だ。しばらくはいいだろうと、そのままにする。なんとなく、消す気にはなれなかった。
やってやったと、高笑いできればよかった。ざまあみろと、腹の底から。けれどこうしてひとりになって、ようやくどこか冷えた部分が追いついてくる。半壊させた古巣は、今はハチの巣をつついたような大騒ぎでしばらくはまともに動けないだろう。少年を追ってくることすら、ままならないはずだ。
でも、この後は。生きているもう半分は?
その事実に気付いたとき、背がぞわりと寒くなる。少年は、ひとりだった。
+ + +
「なんじゃと?」
麟胆組組長、二条院瑆がその報せを受けたのは夜も更けた頃だった。
先立っての大抗争で限界まで人員が減った所為もあるのだろう。今まで抑えていた敵対組織の反抗などで、麟胆組のシマは荒れていた。ここらでひとつ見せしめのためにも、薬を扱う敵対組織の末端、半グレのチームを派手に潰そうと構成員たちを差し向けた、その矢先のことである。
「はい。 例の組織が、先ほど半壊状態に追い込まれたと」
「そうか。……此処まではお前の読み通りか、<賢木>」
長く組をまとめ上げる男特有の低い声が、傍で控えていた一人の名を呼べば、パチリと、応えるように扇が鳴る。
「いやぁ、ここまでの規模になるのは予想外でしたよお、組長。本来なら、もっと小規模で、こちらの動きが派手になるように見せる予定だったでしょ」
「まったく、面倒な」
色の抜け落ちた白い髪が血色の悪い顔色をさらに白く見せるような、痩せた和装の男が顔をあげる。六条……麟胆組で与えられた源氏名は<賢木>。麟胆組内において、顧問に就く者に代々つけられる。
今代の<賢木>は大層な肩書に反して、口調は柔らかく見目も他の構成員や幹部と比べれば細く、軟弱だ。ともすれば風で飛ばされかねないとでも思われるほど。けれど、その白い頭の中で数多の策を練り、必要であれば組の道行を示すのが顧問の仕事だ。うそりと細く笑う黒い目に隙は無い。
元々の策では、件のチームをこちらの力で持ってすべて叩き潰し、敵戦力を削ぐとともに、麟胆組の権勢を示すというものだった。ついでに最近薬の取り締まりが厳しくなった警察の目くらましをするのもひとつ。
力が落ちたといって舐められるのなら、そんなことなどないと力で返さねばならないのが極道の世というもの。そのためにも、ある程度、派手な花火でなくてはいけないのだが、これでは火種が小さすぎる。ではこれを成したのはいったい誰か。
それで、と二条院の視線が<賢木>へと向く。
「場所は割れたんけ」
「そこはぬかりなく」
「今ここで下がれば、イモ引いたと舐められかねん。 儂らで出るぞ、ドス持って来ィ、<賢木>。 躾の時間や」
「承知しましたよ、組長」
そういって、組長自ら腰を上げる。本来であれば動くことなど無いのだが、如何せん今の麟胆組では割ける手が少ないのが現状だ。本邸の守りを薄くすることもできないのなら、少人数で動く他ない。
やれやれと六条も組長の後に続き腰をあげる。そうして襖をあけ頭を下げる大男、先の報告をしてきた夕霧にも声をかける。
「<野分>、表に車を回すように伝えてあるかい?」
「はい、すでに正門につけてあります」
「そう、ありがとう」
そういって当然の様に六条は組長の背を追い、夕霧もまた静かに後に続く。
何かが変わり、何かが動く夜はまだ終わらない。
+ + +
少年はがらんと寂しい廃工場で、廃材を背にまんじりと夜を過ごしていた。成したことへの興奮と追手への警戒が完全な眠りを妨げて、明かりが揺れるのに合わせて意識を滲ませている。
カラン、
それを破ったのは、コンクリートをこする甲高い音。は、と意識は一気に覚醒へと向かい、背を浮かす。抱えていた鉄パイプを持ち直し、素早く周囲を巡らせた視線は、その音の元凶を見つけ出した。
廃工場のたったひとつの出入り口。閉まり切らず、隙間の空いたそこの闇から、ゆっくりと姿を現した。
まるでゆらりと揺れる蝋燭の火のような、薄い灰色の着物を着た白髪の男で、その服装と足元であの甲高い音の正体が下駄であるのを知る。
「やあ、こんばんは」
場違いなほどに緩やかな声が、廃工場に落ちた。少し皺の浮かぶ口元が柔らかに笑みをつくる痩せた壮年の男だった。手には杖だろう白木を握っている。
その穏やかな口調と風体に、毒気を抜かれたように跳ねあがった警戒心がわずかに緩む。
「……なんか用かよ、おっさん。 ここは宿屋じゃねえぜ」
「いやあ、明かりがついてたからね。 居てくれてよかったよ」
「はあ? なにわけわからんことを……とっとと帰れよ」
「そんなこと言わずに、さあ。どうせひとりなんだろう?」
低くドスを利かせた声をあげるも何のその、目の前の男はどこ吹く風でからころと下駄を鳴らすばかりだ。何をどう言おうと暖簾に腕押し、出ていく気のない様子で、とうとう少年の方の堪忍袋の緒が切れる。
「だから、とっとと出てけ言うとるじゃろが! そげなこともわからんのか!」
気付けば近くに居た男を近づけさせないように、鉄パイプを横に薙ぐ。男の腕に当たるはずだったそれは、けれど空を切った。
「は?」
「お、いい反応だねえ」
羽織すら掠めず、着崩れも無い。半歩だけ距離の空いた先に居る、余裕の文字の浮かぶ男の顔。からかうような言葉も合わさって、腹がぐらりと湧き上がる様な心地がした。
「ふざけんなよ、クソじじい!」
狙うは顔。あの澄ました顔をどうにかしたくて、間合いを詰めるように鋭く足を振り上げる。誰に習ったわけではないが、人を蹴るのに躊躇などしたことは無いし、今までだって何人も沈めてきた。確実に当たる間合いは知っている。
けれど、本来ならしっかり足裏にあるはずの感覚は無い。汚れた靴の横に白い髪が揺れている。
「スピードは上々だねえ」
「ぬかせ!」
足を振り下ろして、続けざまに鉄パイプ、拳、また蹴り。路地裏の喧嘩であれば、すでに一人二人は転がっているはずなのに、目の前の男は杖でいなし、また避ける。その体に触れることすらできていない。足元は下駄な上に高そうな着物。動き回るには不利だというのに、どうしてかかすりもしないのが余計に焦りと怒りを煽る。
「この!」
さすがに上がる息の中で、再度放った蹴りはようやく男の頬を微かにかすめたような気がした。少しだけ、男の顔が意外そうに眉が跳ねるのを見る。
「うん、うん。 いいねえ。――ああ、はいはい」
けれどその顔もすぐに薄ら笑いの中に消えていく。そして男の何かの相槌に一瞬怪訝な顔をして、けれど今度はこちらの顔が歪んだ。
気付けば腹部にめり込む様に埋まる杖の柄。止まる呼吸と、急激にせり上がる嘔吐感に、降ろした足がふらつくのを自覚する。思わず抱えた腹と口元に、揺れる視界の端から真横に振られる白木の杖に、一歩、避けるのが遅れた。
かこん、と軽快な音で顎が跳ねる。
ぐるりとまわる視界が、錆びた天井と明滅する電球を映して、それが遠くなっていく。派手な音が背中と後頭部からして、余計にぐわりと視界が回り、強烈な痛みが追いかけてくる。
「ぐぇ、ぅ」
「筋はいいよ、お前さん」
咄嗟に受け身をとろうと広げていた右腕の上に、下駄の歯が乗る。回る視界の中で起こそうとした体の上に、ごつりと骨ばった膝がのり、地面に押し戻されてまた寂れた天井を見上げる羽目になった。
かすれた呼吸が、さらに吐き出されて息が詰まる。上にのられているだけではなく、喉元を抑えるような杖の所為もあるのだろう。男の見目からいって、そう重い体ではないはずなのに、びくともしない。
覗き込む顔は影がかかって見えにくいが、どこか楽しそうに笑っているようだった。
「じじい、きさん、本物やったらそげんツラしときぃや!」
「ふふ、ごめんねえ」
いい釣り餌になるんだよ、この見た目。なんてうそぶく言葉に目をまわしながら、けれどどうにか逃れようと足をあげたところで、首元で音がする。
ひやりとした感覚に、首元にあったのが杖ではなく刃であったのに気が付いた。いわゆる仕込み杖だった、というのと、刃物を持っていたのに使いすらしなかった事実に、まだ自由な片腕に力が入る。けれどそれを見越してなのか、わずかに刃が首元に食い込んで、手が止まる。
「暴れない暴れない。大人しくしてるなら、チャンスをあげよう。選んでいいよ」
「この状況で、選ぶもなにも、無いだろうがくそっ!」
苦し紛れの悪態と、けれど緩んだ拳に、やはり男は楽しそうに笑うだけだ。
「その辺で、遊ぶのは仕舞いだ。<賢木>」
暗がりから、また声がする。視線だけでそちらをむけば、男と同じ和装の顔に傷のある壮年と、大男が立っていた。顔に傷のある男はどこか呆れたような、大男は無表情ではあるが、視線は上に乗る男に向けられている気がする。
その視線に、肩をすくめる仕草をすれば、胸の上から重さが消えた。
「はい、組長さん」
――組長。その言葉に、消えたはずの怒りがまた熱を帯びた。
+ + +
「僕より二条院の親父さんの方が酷いと思うんだけど。 夕霧君、どう思う?」
「……拙には、なんとも」
見どころのある少年を組長にあずけての一夜から、半日。半壊したグループへの制裁と、その上の組織への足掛かりや状況の書かれた書類を前に、六条が笑いながら夕霧へ問いかける。
答えあぐねている様子にさらに愉快そうに笑いながら、六条はあの後の様子を思い出してまたおかしそうに喉をふるわせる。盛大に嚙みついたところを、強烈なビンタで吹き飛ばした様は、なかなかに見応えがあった。あの様子だと鼓膜まで逝った可能性があるが、まあ、骨を折られるよりはマシだっただろう。
うっかり咽こんで、大きな手で背中を撫でられるまでがご愛敬ではあるが、この癖はなかなか治りそうにない。
「ごほっ……ふふ、まあ、でも。見どころのある子だね。 動きは荒いけどセンスはあるし、計画を立てて実行する頭も悪くない。 育てば、坊のいい部下になるんじゃない?」
「歳もつり合いが取れましょうな」
でしょう?と六条の顔が柔く笑う。ほとんど一般人の子供を引き込むことになるのだが、いかんせん現状の麟胆組は人手不足だ。次世代もまだまだ幼い。その中間となる人材は、いくらあっても困らないものだ。良い拾い物をしたと思う。
「まあ、まずはあの子の気が済んだら、だろうけれど」
書類に火をつけ、灰皿の上に置く。チリチリと焦げた臭いと、赤い火が書類を焼いていく。そこにはあの少年の名前と略歴が書かれていた。
あの理不尽に噛みついた少年に何があったか。その上で、あれだけの気概があるのなら、今の二条院の組長の内であれば育つだろう。楽しみだねえ、と笑ったこの後で、まさか自分が育てることになるとは、流石に思いもしなかったけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます