いずれ常しえの夏の如くの子を撫でる――清和君

 数えで七つになったその年に、改めて紹介されたその人は、極道という荒事の世界の中にいて、ずっと穏やかな笑みを浮かべるような人だった。たまに神社に来ては父たちと話をしたり、二条院の組長さんのお屋敷で見かけたり。柔らかな言葉遣いに、細い体。白い髪が消えていく煙の様で、少しだけ浮世離れしているように見えていた。

 その人が、日の当たる座敷の奥、影になった場所にゆったりと座っている。


「穂乃原清和、です」

「うん、穂乃原のところの倅か。 僕は麟胆組で顧問をしてる六条だよ」


 初めて対面に座り、頭を下げるその上から、低くかすれた柔い声がふってくる。顔をあげれば、ゆるりと細められた目が、じい、とこちらを見ていた。その視線に、清和の小さな体がまた小さくなって、お憑きの狐が心配そうに様子を伺っている。

 優しい顔だというのに、肉食の獣が獲物を見定めるような、そんな気がしたのだ。


「剣術の師を、ということだけれど……。 こういうのは、本来なら御来迎君の方が得意ではあるんだけれどね」


 肘置きに体を預けながら嘆息するように、師となる男が麟胆組の中でも護衛を担当する男の名をあげる。剣術と聞いて真っ先に思い浮かべる者も多いだろう。実際、組の中には彼に師事している者もいる。

 一方で、目の前の六条はどことなく学校の先生のような雰囲気の人だった。口調もいっそう穏やかで、刀をふるよりも勉強を教える方が似合っているような。あるいは本に囲まれてじっと物思いにふけっているような。荒事など向かない人のように見えた。侮っている訳ではないが、とはいえ確かに、向き不向きなら不向きではないのだろうかと思えてくる。


「けれど、確かに。 お前さんに剣を教えるのなら僕の方が適任ではあるんだろう。 彼は、どうしたって黒不浄に近いから」

「くろ、ふじょう?」

「そうとも。 だって、お前さんは神社の子だろう? それに花宴に連なる。 それならある程度慣れるまでには、そういう穢れは避けた方がいいに越したことはないだろうからね」

「けがれ……」


 きょとん、とした様子に少しだけ眉をさげてから、六条は少しばかり体を起こす。どことなく聞き覚えのある言葉であるが、それがなんであるかはまだ知らない。その様子に、六条はなるほどなるほど、と数回頷いて言葉を続けた。


「黒不浄というのはね、人の死のことだよ」


 死、という言葉に思わずどきりとする。そんな清和を眺めながら、死忌み、黒火というところもあるねと、なんてことないように六条は言葉を続ける。


「別に特定の宗派の言葉ではないんだけれどね。 神職として神を祭るためにする斎……ほら、お祭りの前や大きな儀式の前に肉を避けたり、部屋にこもったり、水で体を洗ったりするだろう」


 そういわれれば清和には心は当たりはある。小さく頷けば、さらに言葉が続いた。


「あれは身を清め、自分の中の聖性を高めるためにすること。 つまり、お前さんの役職はそういうもを穢れと呼んで厭うし、近づけてはいけない、避けられるものは避ける……その最たるものが、人の死、つまりは黒不浄ということだよ。 とはいえ、僕らの世界でそれは許されないんだけどねえ」


 他にも赤不浄や白不浄もあるけれど、お前さんは男の子だからねと言われても、なにがなんだかわからずに、清和は目を白黒とするばかりだ。

 そんな清和の様子を慮ってかは分からないが、六条は一度、ふうと整えるように息を吐く。


「特に護衛を任されている人たちは、どうしたってそういったものに近い。 つまるところ、僕らの世界はそういったもので出来ている、ということでもあるのだけれど」


 ごくり、と幼い細い喉が変な唾を飲み込む。その様を見て、六条はゆるく目を細めた。ゆくゆくはそういったものを見て、触れることになる場所に身を置いているのを、少しずつ感じ始めたのだろうかと適当なことを考える。


「いずれお前さんにも近いものになるし、触れることになる。 が、今それをしたって、お前さんには難しかろうってことで、僕のところだ」


 前線に出ることがよほどない六条は、確かに人死に限って言えばその身の近くでおこることは少ないだろう。

 それにしても、七つまでは神の子なんてのはよく言ったものだと、視界の下で小さく揺れる幼い子供の頭を見た。自分の色素が抜けた白髪とは違う、白を多くふくむ髪は彼の家系に現れるもので、強い霊力を持つ子であるのを示す。だからこその花宴であり、あと数年もすれば、この子も様々を見ることになるだろう。

 特に彼の家柄は我慢強く、忠義に篤いと聞く。その上、とくれば、六条が確かに適任なのだろう。

 知らず、ふ、と微かに口端に笑みが乗る。ちらつく白い影を瞬きで隠した。人となりを知る者が見たなら、それが自嘲にも似たものだと気付くだろうが、幼い清和にはただ少し笑っているだけに見えた。


「まあひとまず、お前さんはまだ小さいからね。 体力づくりと同時に、いろいろと学んでもらう必要がある」

「学ぶ、ですか?」

「うん。 お前さんは、人よりも目がいいからね」

「あ、……えと、」

「隠さなくても、解るもんだよ。 僕もまあ、はっきり見えるわけじゃあないけど、解るから」


 言えば途端に目を輝かせる様子に、思わず苦笑がこぼれた。まあるい目から、素直な尊敬を感じたものだから、どうにもくすぐったく思えるのだ。もう一人の弟子は最近とんと口も表情も取り繕うのがうまくなったものだから、余計に。


「というわけで、お前さんの剣のお師匠は不肖ながら僕というわけさ。 よろしくねえ」

「はい! よろしくお願いします!」

「うん、元気があってよろしい。後で、お前さんの兄弟子にあたる子も紹介しようかね。 今は仕事で出てるから、戻ってきたらだけれど。 それで、早速なんだけれど」

「はい!」


 六条が、ふと清和から視線を外す。それにつられるように清和もそちらを向いた。    

 その視線に気づいたのか、「にゃあん」と甲高い鳴き声と共に灰色の猫が一匹、南向きの庭に続く縁側に姿を現す。この二条院の屋敷で飼われている“げんのすけ”と名をつけられた、雌猫である。


「ああ、げんのすけのお姫さん、丁度よかった」


 そういって、六条は手招きをする。それに仕方が無いわねとでもいうように優雅に尾を振りながら、音もなく清和の脇を抜けて六条の膝の上に収まる。骨ばった手がそっと柔らかな毛を分けて喉をかけば、聞こえるほどの喉鈴がなり、青い目が心地よさそうに細められた。


「さて、」

「は、はい!」


 猫を撫でるのに、思わずいいなあと眺めていた意識を、六条の声で戻される。


「ちょっと聞きたいのだけれど、お前さんは猫に勝てると思うかい?」

「へ?」


 師匠となった人の膝の上でゆったりと丸くなり、喉を鳴らす猫を見る。体躯は普通の猫よりも少し、ほんの少し、丸いだろうか。それでも清和の両手で抱えるくらいの大きさで、立てば膝よりも少し小さいくらいだろう。

 可哀そうだが、抱き上げて抑え込んでしまえば勝てる、そんな気がした。けれど側にいる狐はなんだか少し警戒しているようで、落ち着かないのかちらちらと猫と六条と見ている。


「ええと、勝てると、思います」

「そうかい」


 うん、と六条はひとつ頷くと、そうっと猫の耳に顔を寄せる。


「げんのすけのお姫さん、お願いできますか?」


 囁くようにそういえば、一度、青い目が瞬いて、細くなる。長い尾が一度揺れて、柔らかな足が畳を踏んだ。次の瞬間――


「うわあ!」


 清和の目の前に淡い灰色の毛玉が飛び掛かってきていた。そのまま驚いて、勢いに押されるように後ろに倒れこめば、かしりと爪のたてられた猫の足が胸に乗り、のけぞった喉に獣臭い息がかかる。

 驚いたのは狐も同じで、揺れる毛が数倍に膨れ、清和の周りを取り巻いた。けれど、飛び掛かった猫の方はさして気にした様子もなく、おちょくるように鼻先を尾が撫でて、つん、とした顔で清和の顔面を踏んづけてから飛びのいた。柔らかな肉球が鼻を押しつぶして、変なうめき声が口から洩れる。

 そんな様子を眺めながら師匠はからからと愉快そうに笑って猫をひと撫でしていて、思わず恨めしそうに見てしまったのは言うまでもないかもしれない。


「ありがとう、げんのすけのお姫さん。 夕食の時に、僕のところにおいでくださいな、刺身一切れはお礼に足りますかねえ」

「にゃあん」


 それで十分とばかりのげんのすけの返事に、ではそのように、と転がる清和を後目に六条は話を終わらせる。

 柔らかな尾が清和の目の前を悠然と横切っていくのを、ただ茫然と見送るしかなかった。


「さて、勝てると思うといったわけだけどね。 猫でも、本気を出せば人ひとり、特に子供なんかは殺すことはできるだろうね」

「……はい」


 身を起こし、座りなおす。思わずというように触れた牙を立てられた喉元は、傷の欠片も無い。けれどあれが本気であったなら、今頃どうなっていたのだろう。そう思えば、少しだけ背筋が寒くなる。あんな小さな獣でも、人を殺せる爪も牙も持ち合わせているのだ。対して自分は、油断していたとはいえあっけなく転がされた。

 少し恐ろしくなったのを気遣うように、狐がそばにまとわりつく。温度はないが、けれど早鐘をうつようだった心臓は少し落ち着いた。

 

「お前さんは、人よりずっと目がいいから、ついそれに頼りがちになってしまうだろうけどね」


 ぱちりと、いつの間に取り出していたのか、六条の手の中にあった扇が鳴る。その音にはっとしたように清和が顔をあげれば、六条の黒い瞳と視線が合った。思わずドキリと心臓が跳ねる。


「まずは、正しく知り、正しく畏れなさい」


 知らないとは、侮ることと知りなさい。そういう六条の言葉に、小さく頷く。


「そして正しく己を知ることだ。 そのために知識がいるし、自己がなんたるかを測らなくてはいけないよ」


 ゆったりと、六条が顔をあげて清和へとほほ笑む。その顔は先ほどさほど変わらない。


「さあ、の上で聞こうか」


だというのに、何かがずしりとのしかかる様な、あるいはこの周囲だけ空気が薄くなった様な、そんな気がして、思わず膝の上に置いた小さな手が袴に皺を作る。



「お前さん、



 息が詰まる。歯の根が合わない。知らない大きな獣が目の前にいるようだった。


「こ、わい……です……」


 いっそ逃げたいとすら思う。じわりと手の中で汗がにじんで、吐いた息が妙に薄い気がした。けれどこれで逃げてはいけない気がして、ただ一言を口にして、じっとその場でただひたすらに耐える。

 目をそらし、背を向けた瞬間に、きっと自分の首は離れているのだろうと、容易に想像できてしまったから。

 だからじいっと目の前の男を見ていた。こちらに伸ばされた手を、今はまだ、見ていることしかできなかった。


「うん、それでいい。 それでいいよ、清和」


 ぽん、と気付けば柔らかく頭が撫でられた。あげた視線の先で、ふと気を抜けた笑みが見える。押しつぶさんばかりの空気は霧散し、外の小鳥の鳴き声すら聞こえてきた。


「僕が怖いのは当然だ。 なんせ、僕の方がうんと長生きしているからね」

「……はい」

「そのうえで、よく逃げなかった。 清和は辛抱強い子だねえ」


 よしよしと撫でる手が、緩く離れていく。それに安堵して、そうして学ぶと繰り返された言葉の意味を理解した。

 ツンとした消毒液と、どこか苦い薬の様な、病院の残り香を追うように、自然と清和は頭を下げた。


「これから、ご指導、よろしくお願いします。六条先生」

「うん、よろしく頼むよ、清和」


 

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麟胆組書き散らし 宮社六野 @Miyasiro3846

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