第2話 齢十七の義弟

大殿・波瀬典敏が座敷の末席に控えていた家来に告げた。

幸之進ゆきのしんをここへ」

「はっ」

家来は素早く立ち上がると、綾女姫の横をすり抜けて廊下の奥へと消えていく。

彼にも彼女に対し「領主の妻」である敬意は見られない。

だが綾女姫にとっては、そんな事を気にしている余裕はなかった。

(殿と離縁して、殿の弟である幸之進様の妻になる? これはいったい、どういう事なの?)

綾女姫は幸之進については、ほとんどと言っていいほど何も知らない。

知っているのは、典敏には長男である現領主の典勝と、次男である幸之進の二人しか男子はいない事。

そして幸之進は側室の子であると言う事。

まだ年齢は十七歳である、というこの三点だけだ。

(祝言の時には居たはずだけど……あの時は恐怖と不安で、何も考えられなかったから……)

実際、綾女姫は幸之進の姿は、二度ほど遠目に見かけただけだ。

兄の典勝と違い、細身の影の薄い存在だった記憶しかない。


やがて廊下の奥から二人の男性が現れた。

一人は先ほど呼びに行った家来。

もう一人はスラリとした体つきの、武士というよりは役者を思わせるような立ち居振る舞いの若い男だ。

幸之進は綾女姫と少し距離を置いて膝を着くと、頭を下げた。

綾女姫はそんな彼に場所を譲るように、少し斜め横に位置をずらす。

「父上、お呼びでしょうか?」

まだ十代という若さにも関わらず、落ち着いた涼やかな声だ。

「うむ、そうかしこまるな。まずは頭を上げよ」

そう言われて幸之進は頭を上げた。

綾女姫はなんとはなしに、彼に視線を向けていた。

そして息を飲んだ。

(なんて……きれいな人)

二重ながらも切れ長で涼やかな目、すっと上品に通った鼻筋、キリリと引き締まりながら十代の甘さを残した口元。

そして女にも珍しいような白い綺麗な肌をしている。

綾女姫は少女時代に神社の社で見た、天人の絵を思い出していた。

思わず見惚れかけていた綾女姫の心を、大殿の言葉が現実に引き戻した。

「幸之進。かねてより言ってあった通り、儂と典勝は銅間様に付き従い、陸奥遠征に行かねばならん」

「はい」

「だが儂と典勝がこの国を留守にするとなると、周囲の国がどう動くかわからん。結衣の国は山神の巫女である綾女殿を取り返したいだろうしな」

「…………」

「儂らが留守の間、幸之進、おまえにこの国と家を守ってもらいたい。いや、守る義務がある、わかるな?」

「はい」

「そこでだ。典勝が遠征の間、おまえはこの国の領主となり、綾女殿を妻とするのだ」

「はっ?」

あまりに意外な父の言葉に、幸之進も驚いたのだろう?

それまで伏せ気味にしていた顔を上げ、驚いた様子で典敏を見つめる。

幸之進はしばらく驚きのあまり声も出ないようだったが、やっと言葉を発した。

「しかし、綾女様は兄上の正室。その方をいきなり私の妻になど……」

彼は明らかに戸惑っていた。

状況が理解できないだけではなく、きっと不満もあるのだろう。

その幸之進の様子を見て、綾女姫も当然だと感じる。

(幸之進様は私より十一も歳下のお方。十七歳の若い男子が、年増で子持ちの二十八歳の女など、誰が妻に欲しいと思うだろうか)

「その点は問題ない。この場で典勝は綾女殿を離縁する。その後でおまえが綾女殿を妻とすればよい」

「しかし、それではあまりに綾女様のお気持ちを蔑ろにしているのではないでしょうか? 夫婦とはそのような簡単な関係ではないはず……それを」

「幸之進!」

それまで黙っていた典勝が弟の名を呼んだ。

それだけでその場に居た者が、大殿を除いて、身体を強張らせる。

「別におまえに綾女をくれてやるのではない。これはあくまで形だけ、儂が遠征から戻って来るまでの形式だけの夫婦なのだ。おまえが気にするような事ではない」

その後を大殿が引き継ぐ。

「典勝の言う通りじゃ。おまえと綾女殿の結婚はあくまで形だけのもの。周囲に山神の巫女は波瀬家に有り、そしてこの国の領主は波瀬家であると、それを世間に周知するためなのじゃ。例え長男である典勝が不在でも、この国には次男のおまえが居て、典勝の子である千徳丸がいる。波瀬家の嫡流は揺るがないとな!」

幸之進は再び顔を伏せた。

綾女姫には、それが「父と兄の理不尽な命令に耐える若い青年の顔」に思えた。

(無理もない。十七歳と言えば、心の中では思いを寄せる女性もいたかのかもしれないのに……いきなり私のような、元・敵国で何の価値もない年上女に妻にしろなどと言われれば……)

綾女姫は少なからず、幸之進に同情した。

だが大殿である典敏の命令に逆らえないのは、彼も同じだった。

「……承知いたしました」

幸之進は静かに、そう答えた。

典敏が部下の前で宣言する。

「よし、これで典勝と綾女姫の離縁は決まった。幸之進との祝言は三日後とする。皆の者、それまでに準備を整えておくように!」

「「「ハハッ」」」

典勝を除く、その場に居た全員が深く頭を下げる。

綾女姫も、その少し間を置いた幸之進も同様だ。

綾女姫は不安が沸き上がるのを感じる。

(幸之進様と夫婦になる……いったい、これからどうなるんだろう。この方はどんな方なんだろう……)

綾女姫にしてみれば「典敏の息子で、典勝の弟」という事から、その性格は冷淡で強欲なのかと思われた。

実際に城の女の間では、そういう噂もある。

一見、役者にもいないような美男子だが、そのぶん冷たい印象を受ける。

そしてこの場の様子からしても、彼は綾女姫との結婚は不服に思える。

(千徳丸に辛い態度を取らなければいいのだけれど……)

それが彼女の一番の心配事だった。



家来が去った所で、典敏と典勝だけがその場に残った。

典勝が典敏に向き直る。

「親父殿、ここまではする必要がないんじゃないか?」

典敏が薄く笑いを含みながら典勝を見た。

「なんじゃ、今になって綾女姫が惜しくなったのか? おまえには四人の側室と15人の妾がおるであろう」

「そんなんじゃない」

典勝は不服そうな顔をした。

「わざわざ偽装結婚のためだけに、祝言を挙げたり、国中に触れを出したり、その手間をかける価値があるとも思えんだけだ。そんな事をせずとも、この周辺でこの早勢の国を攻める力を持った奴はいないだろう」

「おまえは何も見えとらん」

典敏の細めた目が鋭い光を放つ。

「敵が国外だけとは限らん。一番注意せねばならぬ相手は、分家の波瀬敏守・敏行の親子じゃ。きゃつらはこの国の領主の地位を狙っておる。そのために一番手っ取り早いのは千徳丸を手に入れる事、すなわり綾女姫を籠絡する事じゃ」

「あの女にそこまで価値があるとは思えんがな。大人しいだけが取り柄のつまらぬ女だ」

「だからおまえは物が見えとらんと言うのだ。ここら一体の民は国は違えども豊穀神社を信仰しておる。そしてその巫女である綾女姫は山神の加護があると信じられているのだ。彼女は鳥や獣の声を聞き、田畑に豊作をもたらす力があると言われている」

「あの女に、そんな力があるものか。あるのはせいぜい千徳丸の身の回りの世話をするくらいよ。まさか親父殿は、そんな迷信を信じているのか?」

「実際に綾女姫に山神の力があるかどうかなど、どうでもよい。重要なのは民衆がその事を信じているという点じゃ」

不満そうに口をへの字型に曲げた典勝に、典敏が諭すように言った。

「兵を持って制するは下策なり。言を持って制するは上策なり。女一人で兵を失わずに領地が手に入るなら、それに越したことはなかろう」

それでもまだ不満そうな典勝に、典敏は「ヤレヤレ」と言いながら言葉を続けた。

「それに綾女姫を幸之進と娶せたのは、オマエのためでもあるのだぞ、典勝」

典勝は怪訝な顔をする。

「儂のため?」

「そうじゃ。綾女姫がオマエの妻のままなら、オマエが死んでしまったらどうなる? すかさず分家の敏行あたりが彼女の身柄を押えに来るだろう。そこで婚姻の証を立てられてしまえば、こちらとしても迂闊に手は出せん。そうして敏行が千徳丸の後見人として実権を握るという筋書じゃ。それを実現するためには遠征先で典勝、オマエを殺してしまうのが一番いい」

「ぐむぅ」

典勝が納得したのか不満なのか、わからないような声を漏らす。

「それを防ぐためにも、幸之進を綾女姫の夫としておくのじゃ。この場合ならオマエが死んでも、幸之進が千徳丸の父親のままだからな。領主の座はこの家に残る。典勝、オヌシを殺しても意味がない事となる」

「わかったよ、親父殿。もっともこの儂が、そんなに簡単にくたばるとは思って欲しくないな」

そう言うと典勝は立ち上がり、荒々しい足音と共に座敷を出て行った。

そんな息子の姿を、典敏はタメ息をつきながら見ていた。

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