子連れ人質姫の若い義弟との形式結婚
震電みひろ
第1話 人質として嫁いだ巫女姫
城の中でも本丸から遠い、馬出に近い場所にある粗末な家。
そこで一人の女が洗濯物を干していた。
まるで農婦のようなその装い。
洗濯物を干す手も、家事仕事で荒れていた。
どこから見ても、彼女は城の雑用をこなす下女にしか見えないだろう。
しかし横顔に隠しきれない気品がある。
見る者が見れば、彼女が下女などではない事は分かるはずだ。
そう、見る者が見れば……
近くでは数えで五歳になる少年が一人遊びをしている。
少年の方は、新しくはないと言え、それなりに高価と思われる着物を身に着けていた。
だがその裾は擦り切れ、あちこちに落としきれない汚れ痕や、ほつれかけた刺繍があった。
「
そう呼びかけられて、洗濯物を干していた女性はハッと振り向く。
そこには初老に近い女性が厳しい顔つきで立っていた。
「なんでしょうか、貞さん」
呼びかけられた女性・
一方、初老の女性・貞の方は彼女を見下すような目をしていた。
「大殿と殿がお呼びです。至急、本丸の御殿まで来てください」
綾女姫の表情がさらに不安に曇る。
「少々お時間を頂けるでしょうか? いま身支度を整えますので」
貞は露骨にしかめっ面をした。
「お早くなさって下さい。殿は大変気が短いお方です」
そう言うと彼女に背を向けて、聞こえるように呟いた。
「まったく……要領の悪い女。なんでこんな女が……」
綾女姫は貞の言葉が聞こえないフリをして、家の中に急いだ。
庭に居た少年・
「母上、父上に呼び出されたのですか?」
彼は、母親が父親に呼び出された時にどんな仕打ちを受けるのか知っているのだ。
だが綾女姫は優しい笑顔を息子に向けた。
「大丈夫ですよ、千徳丸。父上はきっと大切なお話があるのです。いい子にして、お家で待っていて下さいね」
そう言って彼女は、まるで農家と見間違うような粗末な家に入って行った。
戦が続く戦乱の世。
強き者は他国を侵略し、弱者から全てを奪い去る弱肉強食の世界。
そんな世の中で、かっては隆盛を誇っていた
結衣国は古くからこの周辺の人々の信仰を集める
そして綾女姫の生まれ故郷でもある。
だが急激に勢力を拡大してきた早勢国の波瀬一族と、ここ百年ほど戦争が続いていた。
しかし勢いのある波瀬一族に結衣国は次第に押され、六年ほど前に敗北に近い条件で和平に至ったのだ。
その条件とは結衣国の領地半分を早勢国に譲渡する事。
そして結衣家当主の娘であり、豊穀神社の巫女である綾女姫を
こうして綾女姫は人質の身として、かっての敵国である波瀬家に嫁ぐことになったのだ。
綾女姫は貞と一緒に、本丸の御殿に向かった。
彼女は持っている着物の内、一番上等のものを身に着けていたが、それでも下女頭の貞と大差はない。
二人が歩いていると、むしろ下女頭の貞が、新人の下女である綾女姫を連れているかのようだ。
そして城の者たちの彼女を見る目は冷たい。
三の丸、二の丸を通って本丸近くまで来た。
綾女姫は天守閣と御殿のある本丸の石垣を見上げた。
(殿のおられる本丸に来るのも、ずいぶんと久しぶりだわ……)
本丸はそびえ立つような立派な石垣の上にある。
彼女の家(屋敷とは呼べない)がある三の丸の土塁とは大違いだ。
いくつもの入り組んだ門を通り抜け、大殿と殿が待つ御殿へと入った。
貞がよく通る声で呼びかける。
「綾女様をお連れいたしました」
「入れ」
廊下奥から野太い声が聞こえる。
貞について御殿に上がった綾女姫は、そのまま玄関一之間の前に通された。
廊下で両手をつき、床に頭をつける。
貞が襖を開けた。
「綾女でございます。大殿と殿がお呼びと伺い、急ぎ参りました」
「急ぎ参りました、か? 急いでやって来て、ここまで待たせたか? 相変わらず愚鈍な女だ」
そう言った野太い声が聞こえる。
綾女姫の夫、そしてこの早勢国の領主である
綾女姫は廊下に額を擦り付けたまま、顔を上げない。
そんな彼女に大殿、先代領主である
「そこまでかしこまらずともよい。顔を上げなされ」
落ち着いたながらもよく通る声が響いた。
綾女姫は一瞬、顔を上げるべきか、それとも伏せたままでいるべきか、判断に迷った。
だが結局は言われた通り顔を上げた。
正面には既に隠居の身である先代領主・波瀬典敏が、そしてその左側に座っているのが現領主・夫の典勝だ。
夫の典勝は身の丈六尺に至る大男だ。
腹は太めだが身体全体を包む筋肉から、まるで太っている印象を与えない。
顔もモミアゲから繋がった顎鬚が、さらに勇猛果敢な印象を与えている。
そのギョロリと向いた目は、射貫くように綾女姫を見ている。
綾女姫は、典勝が夫でありながら「恐ろしい」としか感じた事がなかった。
そして事実、典勝は彼女を一度も妻として優しく接した事はなかった。
まるで手慰みに抱いた端女、とでもいったような……。
一方、先代領主である典敏は一見すると白髪で中肉中背の普通の初老男性に見える。
だがその性格は残忍で狡猾、その勘気に触れると馬でも切る事があるらしい。
事実、綾女姫の生まれた国・結衣の国を攻め、略奪同然に彼女をこの国に連れて来たのは典敏だ。
典敏は表向きは隠居して領主の座を長男の典勝に譲っているが、実態は大殿として今でも権勢を振るっている。
その大殿が話しかけた。
「綾女殿、実はそなたに一つ提案があるのじゃ」
綾女姫は顔を伏せ気味にする。
彼女は不安を感じていた。
それは「夫・典勝から離縁され、この国から追い出される事」だ。
彼女にとって、別に離縁される事も、この国から追い出される事も、それほど大きな問題ではない。
例え生まれた結衣国に帰れなくて、どこかで野垂れ死にしようとも構わない。
(だけど千徳丸の身の上はどうなるのか……)
それだけが彼女の心配だった。
典勝には既に側室が四人いる。妾も入れれば二十人は近い女がいるだろう。
幸い、その誰もが男子を生んでいないので、辛うじて綾女姫の正室としての地位が保たれているのだ。
もっとも実質は城の下女と変わらない扱いを受けているが。
(だけど大殿の言葉には逆らえない)
大殿は提案と言ったが、彼女に拒否権はない。
よってどのような内容であれ、その言葉に従わねばならない。
彼女は不安におののきながら、大殿の次の言葉を待った。
「そなたは今、領主である典勝の奥方であるな」
大殿が優し気にそう語りかける。
「……はい」
綾女姫は震えながら、そう答えた。
「すまぬが、典勝とは離縁してくれぬか」
(ああ、やっぱり……)
大殿のその言葉に、綾女は目の前が暗くなるのを感じた。
だが母として、これだけは言わねばならない。
「私の事はどうなっても構いません……だけど殿の子である千徳丸の立場はどうなるのでしょうか?」
綾女姫は気力を振り絞ってそう言った。
(これで大殿や殿の機嫌を損ね、この場で手打ちとなっても構わない。千徳丸の立場さえ守る事ができれば)
すると大殿は予想外に優しい言葉でこう続けた。
「それは案ずる事はない。千徳丸は波瀬家で唯一の男子。嫡子である事は違いない」
それを聞いて綾女姫はほっと胸を撫で下ろした。
「そのためにも、そなたには少し我慢して貰わねばならないがな」
綾女姫は頭を下げたまま、次の言葉を待つ。
彼女にとって我が子の立場さえ守れれば、後はどうでもいい事だった。
「綾女殿、そなたには典勝の弟、幸之進の妻となってもらいたいのだ」
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