第3話 綾女姫

「母上。母上は父上から離縁されてしまったのですか?」

千徳丸を寝かしつけようとしている時だった。

布団の中の千徳丸が、綾女姫にそう尋ねた。

綾女姫の表情が曇る。

「どうしてそう思ったのですか?」

「母上が大殿と父上に呼び出されている間、野菜を届けに来た女の人たちが話していたんです」

それを聞いた綾女姫は、本丸から帰って来て以来、千徳丸が暗い顔をしていた理由が分かった。

「ご安心なさい。あなたの跡継ぎとしての立場は変わっていません。何も心配する事はないのですよ」

だが千徳丸の表情は厳しくなった。

「私は自分の身の上を心配しているのではありません! 母上のこの後の事を心配しているのです!」

五歳の子供の口から出たとは思えぬほどの、凛とした言葉だった。

綾女姫は我が子を愛しいと思うと同時に、逆に悲しくなった。

まだ幼い子供に、こんな風に思わせてしまった自分を情けなく思う。

綾女姫は千徳丸を抱きしめると、こう囁いた。

「ありがとう。でも私の事も心配には及びません。大殿がその点も考えて下さって、私たちが困る事はないようして下さいました」

「大殿は、どのようにして下さったのですか?」

綾女姫は幼い我が子に、どこまで話すべきかを迷った。

迷った末、婚姻の事はぼかして話す事にした。

「離縁と言うのは形だけなのです。この後、父上と大殿は長い戦の旅に出なければなりません。その間、私たちが困らないようにと、父上の弟君とあられる幸之進様が私たちの面倒を見てくれる事になりました。千徳丸、あなたの叔父上ですよ」

「幸之進様? 父上の弟?」

千徳丸はピンと来ない顔をしている。

無理もない、と綾女姫は思った。

彼女でさえ、幸之進を間近に見たのは、今日が初めてなのだ。

彼はほとんど表に姿を現さない上、家臣の者たちから名前が出る事も少なかった。

おそらく豪胆で荒々しい兄の比べ、線が細く物静かな弟は、影が霞んでしまうのだろう。

「そうです。アナタも父上が離れて寂しいかもしれませんが……」

「私は父上と離れても寂しくなどありません!」

綾女姫の言葉を断ち切るように、千徳丸は言い切った。

「父上はちっとも母上を大切になさらない。他の女性ばかり大事にしている。いつも威張っていて母上を呼び出すときはイジメるような事ばかりしてます。私は父上が大嫌いです!」

綾女姫の表情が曇る。

五歳と言えば、そろそろ父親と母親の関係も何となく分かる年頃だろう。

ましてや千徳丸は賢い子だ。

「そんな事を言ってはいけません。アナタのお父上なのですよ、千徳丸。アナタもいずれはこの国の領主となって、父上の……」

そこで綾女姫の言葉は止まってしまった。

本当はこう言うはずだったのだ。

『父上のような立派な武将になるのです』と。

だが綾女姫は、千徳丸を典勝のような男にしたくはなかった。

そのため無意識に言葉が止まっていたのだ。

「どうしたのですか?」

千徳丸が尋ねる。

「いえ、もう遅いから寝ましょう。母が一緒にいますから」

綾女姫はそう言って千徳丸の胸に優しく手を置いた。

そんな母親を千徳丸は見た。

「噂では、叔父上はとても心が冷たい方と聞いております。城の女が声を掛けても返事も碌にしないとか……」

その噂は綾女姫も知っていた。そして不安を感じている事も同じだ。

胸に置かれた母親の手を千徳丸が握る。

「もし幸之進様が父上のように意地悪な方だったら、きっと私が母上をお守りしますから」

それを聞いた綾女姫は、千徳丸からは見えないように、そっと目元に浮かんだ涙を拭った。



綾女姫は結衣の国の領主・結衣祥元ゆいしょうげんの娘であり、その生い立ちは決して幸せなものではなかった。

まだ幼い頃から『山神様の巫女』になるべく母親から引き離され、豊穀神社の奥の宮にて巫女として暮らさざるを得なかった。

無論、食べる事に困るような事は無かったが、身の回りの事など一切を自分でやらねばならなかったし、贅沢をする事も許されなかった。

そうして先代の巫女より様々な教えを受け、豊穀神社が祭る山神様の神力を受け継ぐのだ。

だがこの山神様は、どのような神なのかは伝えられていなかった。

ただ『土地に豊かな実りと山の幸をもたらしてくれる神』と言われているだけだ。


しかし結衣の国を始め、早勢国・牧戸国・佐寿間国など、この一帯では深く信仰されている神である。

その神の力を受け継ぐ巫女となれば、単に一つの国にはとどまらない重要な存在だ。

そして巫女の力は、結衣一族の娘にしか伝わらないとされている。

ところが綾女姫の後、長年に渡って結衣一族には女子が誕生しなかった。

必然的に綾女姫は巫女を続けるしかなく、彼女は当時の一般的な女性の婚期を逃して行った。

だが綾女姫はそれをあまり気にしていなかった。

なぜなら彼女は、外の世界で「待っている」と言ってくれた男性がいたからだ。

由井義孝ゆいよしたか

同じ結衣氏の一族ではあるが、かなり傍系に当たる男子だ。

義孝とは同じ歳の幼馴染で、巫女になるまではよく一緒に遊んでいる仲だった。

そして綾女姫が豊穀神社の巫女となってからは、奥の院に食料や衣類などの生活に必要な物資を届ける役目についたのだ。

彼は綾女姫に会うために、その役についた。

そして「綾女姫が巫女のお役目を終えた時には、妻に迎えたい」と自分の思いを伝えた。

ただ結衣本家に対し、傍系の由井家がその娘を迎えるのは容易ではない。

義孝は「必ず名を挙げて見せる」と言って、十八の時に都に仕官しに行った。

綾女姫はその帰りを待つつもりだった。



そんな綾女姫の運命が変わったのは、彼女が二十歳を過ぎた時だった。

隣国である早勢国が攻め込んできたのだ。

結衣の国と早勢国とは、境界の土地で百年近く争い続けてきた。

当初は力は拮抗していたが、先代の波瀬典敏が領主となってからは、次第に結衣の国が押され気味となった。

それが決定的になったは、長男の波瀬典勝が領主となってからだ。

早勢国の新領主、波瀬典勝は勇猛果敢で武勇を鳴らした男だ。

典勝は国境沿いの土地には目もくれず、一気に結衣の国の本城に攻め上って来た。

結衣の国も必死に防戦したが、最後は城に籠城するしか策は無くなった。

波瀬典勝は城を取り巻き、ネズミ一匹出入りできない厳重な監視を行った。

やがて城の食料は尽き、そのままでは全滅は避けられない状況だった。

そこで典勝の父、旧領主である波瀬典敏からの手紙が来た。

それには

『結衣の国の領地の半分を早勢国に割譲する事。豊穀神社の巫女である綾女姫を波瀬典勝の妻とする事。この二つの要求を飲めば、早勢国は結衣の国から兵を引き上げる』

とあった。

綾女姫の父・結衣祥元は迷ったが、実際には選択の余地はなかった。

既に本城まで攻め込まれ、城下の町は早勢国の兵が好き勝手に蹂躙している状況なのだ。

結衣祥元はこの二つの要求を受け入れた。



こうして綾女姫は、豊穀神社の奥の宮から、まるで生贄でもあるかのように引き出された。

父母の顔を見る事もなく、そのまま早勢国に連れて行かれる。

早勢国と結衣の国は、百年も争いあった国同士だ。

兵たちだけではなく、一般の民まで綾女姫を冷たい目で見た。

そして戦勝祝いと区別がつかないような状況で、波瀬典勝と綾女姫の婚姻の儀が執り行われた。

形だけの白無垢を着せられた綾女姫は、酒に酔った兵が「結衣の侍を何人切り殺した」「結衣の民を暇つぶしに生き埋めにした」などと騒ぐ中で、恐怖に身を縮こまらせていた。

隣にいるのは髭に覆われた赤鬼のような大男、彼女の夫となる波瀬典勝。

下品な大騒ぎが何時間も続き、周囲の兵が酔い潰れ始めた頃。

典勝は強引に綾女姫の腕を掴むと、そのまま奥の座敷に引っ張り込んだ。

そして酒臭い息を吐きながら、圧し掛かって来たのだ。

綾女姫は恐怖の身体を硬直させたが、典勝はそれを気にする男ではなかった。

綾女姫は獣にでも襲われるような恐怖の中で、初めての経験をした。



綾女姫の立場は、奥の宮を出たとはいえ、豊穀神社の巫女である事は変わりなかった。

そして早勢国領主である波瀬典勝の正室だ。

だが百年の戦による遺恨は、早勢国の人々に深く根付いていた。

家来たちにも、城に勤める下女たちにも、綾女姫に対する敬意は欠片もない。

いや、欠片もないどころか、敵意すら感じられた。


典勝も綾女姫を妻とは思っていないようだ。

彼は自分の気が向いた時に、ただ性欲の捌け口として綾女姫を抱いた。

彼女の都合は全く考えない。

昼でも夜でも、突然やって来ては自分の欲望を満たすだけだ。

綾女姫はただその嵐に耐えるしかなかった。

だが思いのほか早く、その苦痛からは解放される事になった。

綾女姫が生贄同然に城に連れて来られて三か月。

彼女は妊娠したのだ。

それと同時に典勝は綾女姫に興味を失った。

元からいた愛人達を優先したのだ。

そして綾女姫は、城の本丸から三の丸の馬出に近い粗末に家に移されたのだ。

彼女の世話をする者は誰一人つけられず。

綾女姫はまるで農婦のように、この家で一人で暮らす事となった。

そして十月後。

彼女は男子を出産したのだ。

これには先代領主である波瀬典敏が一番喜んだ。

それに対し、夫である典勝はそれほど喜んではいなかった。

彼には既にお気に入りの側女が何人もいたからだ。

そして彼女たちは、やがて跡継ぎとなる男子を生んだ綾女姫を憎んだ。



こうして五年の月日が流れ……

綾女姫は故郷に帰る事もなく、敵意と軽蔑の目に晒されながら農婦のような日々を過ごし、一子・千徳丸との日々を過ごしていた。

典勝の方は四人の側室を迎えていた。

それ以外にも15人の愛妾がいる。

側室が何を吹き込んだのか、典勝は些細な事で綾女姫に折檻を加えた。

まるでそうする事で、側室たちの鬱憤を晴らしているかのように。

時には側室たちの前で綾女姫を侮辱し、それを嘲笑う事さえあった。

だが綾女姫には、それに耐える以外に術はなかった。

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