第5話 別れ
秋音との穏やかな時間は、その後もしばらく続いた。俺はできる限り病院に足を運び、他愛ない話や昔話を交わして彼女と笑い合った。秋音の病状は徐々に悪化していったが、不思議とその表情は晴れやかだった。お互いの心にわだかまりがなくなったからだろうか。秋音は弱音一つ吐かず、懸命に日々を生きていた。明も頻繁に見舞いに訪れ、三人でバカ話をしては笑った。まるであの頃に戻ったような、温かくかけがえのない時間だった。
しかし残酷にも、別れの時は訪れる。秋音が入院してから数ヶ月後の冬の初め、彼女の容体が急変したとの連絡が入った。病院に駆けつけた俺が目にしたのは、ベッドに横たわり今にも消え入りそうな呼吸を繰り返す秋音と、その手を握りしめ泣き崩れる明の姿だった。医師や看護師たちが慌ただしく出入りし、機械が発する電子音が規則的に部屋に響いている。
「秋音…!」
俺は秋音の名前を叫び、ベッドの傍らに駆け寄った。秋音の顔は驚くほど穏やかで、まるで眠っているかのようだった。瞼は閉じられ、長い睫毛が白い照明の下でかすかに震えている。
「春樹…」
か細い声が名前を呼ぶ。俺が耳元に顔を寄せると、秋音は微かに瞳を開いた。
「…来てくれたんだね」
声は弱々しいが、確かに微笑んでいる。
「当たり前だろ…!俺は…ずっとここにいるから…!」
涙声になりそうなのを必死に堪えて答える。秋音はゆっくりと首を振った。
「だめ、泣かないで…」
震える手が空を探るように持ち上がる。俺はその手を両手で包み込んだ。氷のように冷たい。
「泣いてないよ…俺は…大丈夫だから…」
そう言いながら、声が嗚咽にかすれそうになるのを必死で抑えた。
「そっか…良かった…」
秋音は安堵したように目を細めた。
「私…最後まで春樹に迷惑かけちゃったね…」
「迷惑なんかじゃない!」
思わず語気が荒くなる。
「秋音、お願いだから…行かないでくれ…!」
喉まで込み上げた嗚咽を押し殺し、俺は懸命に笑顔を作った。
「だって…まだ話したいこと沢山あるんだ…!春になったら桜を見に行こうって言ったろ?一緒に…」
「うん…そうだね…」
秋音は弱々しく瞬きをした。
「でも、ごめん…約束、守れそうにないや…」
「秋音…!」
握る手に力が入る。秋音の指がそっと動いて、俺の手を握り返した。か細い力。でも、確かな温もり。
「春樹…ありがとう…」
消え入りそうな声が静かに部屋に満ちた。
「あなたと…また笑い合えて、本当によかった…幸せだった…」
静かに零れ落ちる言葉一つ一つが胸に突き刺さる。
「俺の方こそ…秋音がいてくれて幸せだった…!だから…だから――」
声が震える。これ以上言葉が継げない。
秋音がゆっくりとかぶりを振った。
「ねぇ…最後に、頼んでもいい…?」
「何でも言ってくれ…!」
俺は涙で滲む視界の中、秋音の顔を見つめた。秋音は搾り出すように言った。
「最後くらい…泣いても…いいんだよ…春樹…」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた何かがぷつりと音を立てて切れた気がした。
「秋音…」
名前を呼ぶ声が震える。秋音は微笑んで、小さく頷いた。
「泣いて、いいの…」
その刹那、頬を熱いものが伝い落ちた。堪えていた涙が、一筋また一筋と零れ落ちる。
「あ…れ…?」
自分でも驚くほど、次々と涙があふれて止まらない。秋音の顔が滲んで見えなくなる。
「春…樹…泣いて…くれたんだ…」
秋音の声が嬉しそうに震えた。
「よかっ…た…」
安堵したような吐息とともに、彼女の瞳が静かに閉じられていく。
「秋音…秋音っ…!」
俺はその手を必死に握りしめ、名前を呼び続けた。脳裏には、幼い日の秋音の笑顔と、美優と二人で花火を見上げていた彼女の横顔が浮かんでは消えていく。しかし——心電図の機械が告げる単調な音は、もう変わることはなかった。
葬式の日、冬枯れの空からは静かに雪が舞っていた。鼻を刺す線香の香り、読経の声、嗚咽の輪。それら全てが遠い霞の向こうにあるようで、俺はただ秋音の遺影を見つめていた。凛と微笑む彼女の写真。その隣には、小さくプリントした妹の美優の写真をそっと添えさせてもらった。きっと二人は天国で再会できるだろう——そんなことを考えながら、俺は静かに手を合わせる。
気がつけば、また涙が流れていた。ぽろぽろと際限なく零れ落ちるそれは、秋音と過ごした最後の日々と思い出の一つ一つを辿るようだった。棺に納められる秋音に、「ありがとう」と「さようなら」を何度も心の中で繰り返す。周囲の視線もかまわず、俺は声を殺して泣いた。嗚咽が漏れ、肩が震える。悔しくて、寂しくて、愛おしくて…胸の中の感情が奔流のように溢れ出す。それは幼い日に家族を失ったあの時にも決して流れなかった涙だった。
誰かが俺の背中に手を置いてくれた。明だった。明も涙を浮かべながら、俺の肩を抱いてくれている。その傍らで、秋音の母親が嗚咽混じりに「春樹君…秋音といてくれてありがとうね…」と声をかけてくれた。俺はうまく返事ができないまま首を縦に振り、絞り出すように「…こちらこそ…ありがとうございました…」と呟いた。それ以上の言葉は何も出てこなかった。ただただ涙が溢れて止まらない。
俺は泣き続けた。秋音のために。美優と両親のために。そして残された自分自身のために。
——こうして俺は、ようやく涙を取り戻したのだった。
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