第4話 告白

 夏祭りの後、秋音は学校に姿を見せなくなった。明によれば体調が思わしくなく、しばらく入院して検査と治療に専念するとのことだった。祭りの夜にはあれほど元気に振る舞っていたのに――いや、きっと無理をしていたのだろう。楽しかった思い出が一転して不安に塗り替えられていく。明は「姉ちゃん、しばらくは安静にしてないといけないって。お前には気にするなって言ってたけど…」と歯切れ悪く教えてくれた。気にするなと言われて気にしないでいられるはずがない。俺は居ても立ってもいられず、明に頼み込んで一度だけ病院に会いに行かせてもらうことにした。


 初めて足を踏み入れる病院の病室。薄いカーテン越しに西日が射し込む静かな個室だった。ベッドに横たわる秋音は、思ったより元気そうに見えた。


「やあ、来てくれたんだ」


 明るく振る舞う声に胸が痛む。


「勝手に押しかけてごめん。体調、どう?」


 俺が恐る恐る尋ねると、秋音は


「うん、大丈夫だよ。ただ検査入院してるだけだから」


 と微笑んだ。だがその微笑みはどこか張り付いたようで、以前のような力強さはなかった。


 ベッド脇の椅子に腰掛け、俺はぎこちなく差し入れの果物籠を床に置いた。


「これ、爺さんから。よかったら…」


「ありがとう」


 秋音はリンゴを一つ手に取ると、


「病院のご飯は質素だから、果物嬉しいな」


 と小さく笑った。会話が途切れ、沈黙が降りる。心臓の鼓動が妙に大きく感じられた。


「…ごめんね」


 ふいに秋音が呟いた。その声は震えていた。


「私…せっかく祭り誘ってくれたのに、無理しちゃったみたいで…」


「謝ることないだろ、俺の方こそ気付けなくて…」


 俺は言いかけて口を噤んだ。言葉の端々から、秋音が自分の病状を隠そうとしているのが伝わってくる。本当は相当辛いはずなのに、「平気だ」と繰り返す彼女。その姿に胸が締めつけられる。だが今、俺が病気のことを知っていると悟られてはまずい。明との約束もある。俺は慎重に言葉を選んだ。


「秋音が元気になるまで、また一緒に遊ぶのはお預けだな」


 努めて明るく笑ってみせる。秋音はリンゴを手の中で転がしながら視線を落とした。


「…春樹は、優しいね」


「え?」


「昔から、そうだった。美優ちゃんが熱を出したとき、一晩中付き添っててくれたり…」


 秋音の声が懐かしさに滲む。


「…あの頃から変わらず優しいまま、大人になったんだね」


 ぽつりぽつりと語られる懐旧。それを聞きながら、俺の胸には言い知れぬ焦燥が募っていた。


「秋音…」


 名前を呼ぶ声が自分でも驚くほど掠れていた。秋音がゆっくりと顔を上げる。その瞳が真っ直ぐにこちらを見据えた。


「春樹。聞いてもいい?」


 真剣な声音に、俺は息を呑んだ。


「…何を?」


「どうして今日、来てくれたの?」


 秋音の問いに、心臓が大きく跳ねる。


「どうしてって…心配だったから…」


 言い淀む俺に、秋音は静かに首を振った。


「違う。そうじゃないよ」


 かすかな涙の膜が彼女の目に張っているのが見えた。


「どうして…そんなに優しくするの?私に…そんな顔しないで」


「秋音…?」


 動揺する俺の前で、秋音がリンゴをぽとりとシーツの上に落とした。握り締められた彼女の拳が震えている。


「私ね、知ってたんだ…春樹が祭りに誘ってくれたとき、明が後ろでほほ笑んでたのを見て。きっと明が何か頼んだんだって」


 秋音は堰を切ったように喋り始めた。


「明には話してたの。私は過去にひどいことをしたから、きっと天罰が下ったんだって。私が病気になったのは、その罰なんだって。…馬鹿みたいだよね。でも私は本気でそう思ったの」


 秋音の頬を涙が伝った。俺は思わず立ち上がり、彼女の傍に歩み寄る。


「秋音、落ち着いて」


「落ち着いてなんていられない…!」


 秋音は首を横に振った。


「あの日、美優ちゃんが亡くなったあの日…私、すごく悲しかった。辛くて、悔しくて、どうしようもなく泣いた。なのに春樹、あなたは…泣いてなかった。平然としているように見えて…それが…怖かった…!」


 嗚咽まじりの叫び。秋音の言葉が胸に突き刺さる。


「私は思ったの。春樹はおかしくなっちゃったんじゃないかって。大好きな家族を失って、悲しくないわけがないのに…涙も見せずに平気な顔をしている春樹が、怖かった…!」


 秋音はボロボロと涙をこぼしながら続ける。


「本当は春樹が一番辛いはずなのに、私は勝手に怯えて…離れちゃった…!春樹のこと置き去りにして、傷付けた…!」


 必死に搾り出される懺悔の言葉に、俺の喉が焼け付いたように痛む。


「秋音…もういい、やめて…」


 震える声でそう言って、俺は秋音の肩に手を置いた。だが彼女は振り払うように首を振り続ける。


「ダメ…!言わせて…!私、ずっと謝らなきゃと思ってた…!あれから何年も、何度も声をかけようとした…でも怖くて…今更どんな顔して謝ればいいのか、わからなくて…!」


 秋音の両手が俺の腕を掴んだ。爪が皮膚に食い込むほどの力だ。


「ねぇ春樹…お願い…許して…!私…私がそばにいてあげなくて、ごめんなさい…!」


 涙に濡れた瞳が必死に俺を捉える。


 その瞬間、自分の中の何かが音を立てて崩れていくのを感じた。ずっと知りたかった答えが、こんなにも痛ましい形で明かされるなんて。


「秋音…俺の方こそ、ごめん…」


 掠れた声で紡ぎながら、俺は秋音の肩を抱き寄せた。驚くほど華奢な体で、折れてしまいそうなくらいだった。細い体が小刻みに震えている。


「俺、泣けなかったんだ…悲しくないわけじゃなかった。むしろ胸が張り裂けそうだったのに…涙が出なかった。自分でも、どうしてかわからないくらい…」


 秋音の髪に額を押し当て、言葉を絞り出す。


「だから秋音を怖がらせてしまったんだよな。本当に、ごめん…」


「違う…春樹は悪くない…!」


 秋音は首を振り、俺の胸に顔を埋めた。


「悪いのは私…春樹を一人にして…ずっと傷つけた…!」


「もういい」


 俺は秋音の頭をそっと撫でた。


「もう、いいんだ。全部、過去のことだ」


「でも…!」


 秋音が顔を上げる。その瞳には絶望の影が宿っていた。


「私は取り返しのつかないことを…!だから天罰なんだわ…!」


 なおも自分を責め続ける秋音に、俺は静かに首を振った。


「天罰なんかじゃない」


 俺は彼女の頬の涙を指で拭った。


「秋音は何も悪くない。確かに俺はあの日泣けなかった。でも悲しくなかったわけじゃない。それだけは信じてほしい」


「春樹…」


 秋音がか細い声を漏らす。


「俺は…家族を失った時、本当はどうしていいかわからないくらい悲しかった。でも泣いたら全てが終わってしまいそうで、怖くて泣けなかったんだ。秋音を怖がらせてしまったのは俺の弱さだ。だから秋音が謝る必要なんてない。むしろ…俺の方が、ずっと謝りたかった。心配かけて、ごめん」


「そんな…謝らないで…」


 秋音は掠れた声で言い、そっと目を閉じた。涙がぽろぽろと零れ落ちる。


「私…ずっと自分を責めてた。でも…違ったんだね。私ばかりが辛かったんじゃない…春樹も、ずっと…」


「当たり前だ。俺が悲しくないわけないだろ」


 俺は苦笑混じりに言った。


「大事な人たちを一度に三人も失って…悲しくない人間なんているもんか」


「春樹…」


 秋音の瞳が潤んだまま、優しく細められる。


「ねえ…不思議なんだ。ずっと心の奥が重くて痛かったのに、春樹とこうして話せて…なんだか少し楽になった気がする」


 彼女の唇に微かな笑みが浮かんだ。


「私ね、本当は怖かった。病気になって…もう時間が残されてないって知った時、一番に浮かんだのは春樹のことだった。春樹にちゃんと謝りたい、償いたいって思ったの。でもそれって…結局自分のためだったのかも。自分が楽になりたいだけだったのかも…」


「そんなことない」


 俺は首を振った。


「秋音が会いに来てくれて、俺は本当に嬉しかった。病気のことだって…辛いのに隠して、俺と過ごそうとしてくれた。その気持ちだけで十分だよ。贖罪なんて必要ない。俺はもう…とっくに秋音を許すも何も、最初から恨んでなんかいないんだ」


「春樹…」


 秋音がはらはらとまた涙を零す。俺はその手を握りしめ、静かに言葉を紡いだ。


「だから、自分を責めるのは終わりにしよう。秋音は精一杯生きてる。それでいいじゃないか。昔みたいに俺たち、残りの時間を一緒に笑って過ごそう。俺は…秋音が笑ってくれるだけで幸せなんだ」


「…そんなこと言われたら…私、泣いちゃうよ…」


 秋音はくしゃりと笑顔を歪め、そのまま俺の胸に額を押し当てた。肩が震えている。俺は無言でその背中をさすり続けた。


 しばらくそうしていただろうか。やがて秋音の呼吸が落ち着き、俺たちは静かに身を離した。秋音は真っ赤な目をしていたが、どこか吹っ切れたような顔をしていた。


「ごめんね…取り乱して。恥ずかしいとこ見せちゃった」


「いいさ、気にすんな」


 俺は柔らかく微笑んだ。


「お互い様だろ。俺だって情けないとこ色々見せちまったし」


「ふふ…そうだね」


 秋音も照れたように笑い、そっと涙を拭った。


「春樹…ありがとう」


 秋音が改めてこちらを見る。その瞳には確かな光が灯っていた。


「春樹とちゃんと話せて、本当によかった。ずっと伝えなきゃって思ってたこと…全部言えたから」


「俺も、秋音の気持ちを知れてよかったよ。誘って…というか、明に背中押されて正解だったな」


「あー、やっぱり明には相談してたんだ?」


 秋音が苦笑する。


「あいつ、ほんとお節介で…でも感謝してる。明にもちゃんと言っておかなくちゃ」


「そうだな」


 俺も笑みを返す。


 病室の窓の外では、真っ赤な夕陽が地平線に沈もうとしていた。秋音との距離を隔てていたものは、もはやどこにもない。俺たちは手を繋ぎ、お互いの温もりを感じながら、ゆっくりと言葉を交わし続けた。それはまるで失われた時間を取り戻すかのように、穏やかで優しいひとときだった。

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