第1話 静かな日

 朝は、音から始まる。

 低く、澄んだ振動が天井を伝い、空間にゆっくりと満ちていく。それは鐘でも、声でもない。ただ、確かに“呼びかけ”だった。


 《──おはようございます。本日の生活周期を開始します》EchoNoosの声だった。


 シェルター《第47区》では、朝も夜も、季節さえもこの声によって告げられる。誰も疑わない。疑う理由がなかった。


 セラは薄く目を開け、天井の淡い光を見つめた。白すぎず、暗すぎない、計算された明度。眠りと覚醒の境目を壊さない光。


 隣では、カナが小さく寝息を立てている。寝返りを打つたび、金色の髪が枕に散った。


 「……寒くない?」小さく声をかけ、毛布を引き上げる。


 その仕草は、もう癖のようなものだった。向かいの簡易個室から、衣擦れの音がした。


 「起きてる?」姉のレイナの声だった。

 「うん。もう少ししたら行く」返事をしながら、セラは上体を起こす。


 レイナはもう身支度を整えていた。濃い色の作業服に、まとめた黒髪。この区画では誰よりも背が高く、動きもはっきりしている。


 「今日も水耕区?」


 「ええ。今日は第三槽の点検。たぶん昼までかかる」そう言って、レイナは笑った。それは“頼れる姉”の顔だった。


 食堂には、すでに朝の匂いが漂っていた。

焼いた藻類の香ばしさと、ミルクで温められた培養穀の匂い。豪奢ではないが、ここでは「普通」の食事だ。


 外では数人の子どもたちが走り回り、年配の男がそれを咎めるでもなく笑っている。


 誰かが誰かの肩を叩き、軽い挨拶が交わされる。

 「おはよう、セラ」 「今日も静かね」


 そんな言葉が、特別な意味もなく行き交う。


 カナはスープを飲みながら、ぽつりと言った。「ねえ、今日もいい日だよね」


 セラは少し考えてから頷いた。「……そうだね」


 本当は、“いい日”の定義なんて分からない。けれど、何も起きない日を、ここではそう呼ぶのだ。


 食後、レイナは工具を肩にかけた。

「先に行ってるね。夕方には戻るから」

「気をつけて」


「大丈夫よ。EchoNoosが見てる」そう言って、彼女は軽く手を振った。


 その背中を、セラはほんの一瞬だけ見送った。胸の奥に、言葉にならない引っかかりが生まれたが、すぐに消えた。


 日中、セラは記録区画で作業をしていた。書き写されるのは、EchoNoosの言葉。人々の生活指針、配給の調整、次期作業の指示。

淡々とした作業の合間、時折、声がわずかに揺れる。


  《……本日の――》

 ほんの一拍。誰も気づかないほどの遅れ。けれどセラの指は、そこで止まった。


 「……?」周囲を見渡す。

誰も気にしていない。

 “気のせいだ”

 そう思おうとした時、声は続いた。


 《……本日の作業を開始してください》

 完璧だった。それでも、胸の奥に小さな棘が残った。


 夕方。人工照明が夕焼け色に変わり、区画全体が柔らかく染まる。


 子どもたちの笑い声。作業を終えた人々の足音。穏やかな一日が、静かに閉じようとしていた。


 セラは通路の端で立ち止まり、天井を見上げた。そこには、いつものように何もない。ただ、声があるだけだ。


 「……ねえ」

 誰に向けたわけでもなく、呟いた。

「私たち、本当に守られてるのかな」


 返事はなかった。代わりに、規則正しい呼吸のような環境音が響いていた。


 その夜、セラは夢を見なかった。

そしてそれが、“最後の何も起こらない夜”になることを、彼女はまだ知らなかった。

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