第3話:20年後の他人**
### **小説『夜の校舎で、あなたを待つ』
#### **第三話:20年後の他人**
風見なぎという名の呪縛と、夢の中で和解してから、わたしの日常は穏やかさを取り戻した。夜、悪夢にうなされることもなくなり、目の下の隈も薄くなった。心の奥にあった重たい枷が外れたように、身体も思考も軽くなった気がした。
時々、ふと考える。
なぎは今、どこで何をしているんだろう。
あの厳格なお父さんの元で、どんな大人になったのだろうか。結婚して、子供がいたりするのかな。
もう会うことはないだろうけれど、幸せでいてくれたらいいな、と。そんな風に、穏やかな気持ちで彼女を思い出せるようになっていた。
その平穏は、一本の電話によって、唐द्भ唐突に終わりを告げる。
「もしもし、佐藤さんのお宅でしょうか。わたくし、美咲さんのクラスの担任になりました、風見と申します」
受話器の向こうから聞こえてきた、少し低めの、落ち着いた声。
その姓を聞いた瞬間、心臓が凍り付いた。
まさか。
日本に「風見」なんて姓は、星の数ほどある。そんなはずはない。
わたしは震える声で「いつも娘がお世話になっております」と、当たり障りのない挨拶を返すのが精一杯だった。
その日から、わたしは再び、見えない何かに心を蝕まれ始めた。
美咲が持ち帰る学級通信。その隅に書かれた「担任:風見なぎ」の文字。
ああ、なぎ、という名前も、ありふれている。きっと別人だ。そう自分に言い聞かせても、動悸は収まらない。
美咲に「新しい担任の先生って、どんな人?」と、さりげなさを装って聞いたことがある。
「んー? 普通。なんか真面目そう。髪短い人」
それだけの情報では、何もわからなかった。
そして、運命の日がやってきた。三者面談のお知らせ。
わたしは、この20年で一番、入念に化粧をした。完璧な鎧を身につけなければ、立っていられないと思ったからだ。
◇
中学校の門をくぐるのは、卒業以来だ。
改築された校舎は記憶の中のそれよりずっと綺麗だったけれど、グラウンドから聞こえる声や、廊下に漂う独特の匂いは変わらない。
夢の中で歩いた、あの廊下。
現実の昼間の廊下は、生徒たちの賑やかな声と太陽の光に満ちていて、あの夜の静寂が嘘のようだ。
進路指導室、と書かれたプレートの前で息を整える。
コンコン、とノックして扉を開けた。
「失礼します。佐藤美咲の母です」
中にいた娘の美咲が「おそいー」と口を尖らせる。その向かいに、背を向けて座っている女性がいた。紺色のスーツ。短く切りそろえられた髪。
その先生が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「こんにちは、佐藤さん。お待ちして……」
言葉が、途切れた。
時間が、止まった。
その顔を見た瞬間、呼吸の仕方を忘れた。
笑うと細くなる、涼しげな目元。薄い唇。
髪型は、夢で見たおかっぱ頭ではなく、洗練されたショートボブになっていた。化粧もしているし、当たり前だけど、大人の女性の顔だ。
でも、わかった。
忘れるはずがない。
彼女もまた、目を見開いたまま、凍り付いている。その表情は驚きと、戸惑いと、何かを探るような色に染まっていた。
机の上に置かれた名札が、視界の端に映る。
『担任 風見 なぎ』
ああ、そうか。
こういうことだったのか。
神様は、わたしを許してなどいなかったのだ。
夢の中の和解なんて、自己満足に過ぎなかった。現実の罪は、清算しなければならない。
「……お母さん? 先生?」
美咲の不思議そうな声で、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
「……あ、いえ……失礼しました。どうぞ、お座りください」
なぎは、プロの顔を取り繕って、椅子を勧めた。その声は、微かに震えていた。
ぎこちない三者面談が始まった。
なぎは「佐藤さん」とわたしを呼び、わたしは「先生」と彼女を呼ぶ。
彼女が語る美咲の学校での様子は、ほとんど頭に入ってこなかった。ただ、少し低めの、懐かしい声が鼓膜を揺らす。
夢の中では、あんなに素直に「ごめん」と言えたのに。
目の前にいるのは、20年という現実の時間を生きてきた、わたしの知らない「風見先生」だ。わたしたちの間には、気まずくて、重たい沈黙の層が横たわっている。
時折、視線が合う。そのたびに、お互い慌てたように逸らした。
「……以上です。美咲さんは、もう少し数学を頑張れば、上のランクの高校も狙えますよ」
「は、はい……」
気づけば、面談は終わっていた。
「美咲、あんた先に帰りなさい。先生に少し、お礼を言いたいから」
「えー? わかったよ」
何も知らない娘は、不思議そうな顔をしながらも素直に教室を出ていった。
パタン、と扉が閉まる。
夕暮れの進路指導室に、わたしとなぎ、二人だけが取り残された。
チョークの匂い。西日のオレンジ色。
あの日の体育館裏と、同じ光。
沈黙に耐えきれず、わたしは口を開いた。
「……先生、やってたんだね」
声が、震えた。
「……うん。まあね」
なぎは、俯いたまま答える。
「……どうして、この学校に?」
「……実家が、まだこの近くだから。色々あって、戻ってきたの」
そう。わたしは、この街を捨てて逃げた。
でも、なぎはずっと、この街にいたのかもしれない。わたしが捨てた過去と、あの厳格な父親の監視の下で、ずっと。
「……あの」
なぎが、おずおずと顔を上げる。その目は、少し潤んでいるように見えた。
「優奈は……元気、だった?」
20年ぶりに呼ばれた、わたしの名前。
その響きに、胸が締め付けられる。
「……元気だよ。見ての通り。あんたこそ」
「……わたしも、まあ、なんとか」
会話が、続かない。
夢の中のように、簡単にはいかなかった。
謝りたい。でも、どの言葉を選べばいいのかわからない。
謝られたい。でも、それを求める資格がわたしにあるとは思えない。
20年という時間は、あまりにも長すぎて、あまりにも重かった。
わたしたちの現実は、始まったばかりだ。
それは、夢の中の和解よりも、ずっと困難で、厄介な道のりの始まりだった。
わたしたちはもう、ただの少女ではいられないのだから。
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