第3話:20年後の他人**

### **小説『夜の校舎で、あなたを待つ』


#### **第三話:20年後の他人**


風見なぎという名の呪縛と、夢の中で和解してから、わたしの日常は穏やかさを取り戻した。夜、悪夢にうなされることもなくなり、目の下の隈も薄くなった。心の奥にあった重たい枷が外れたように、身体も思考も軽くなった気がした。

時々、ふと考える。

なぎは今、どこで何をしているんだろう。

あの厳格なお父さんの元で、どんな大人になったのだろうか。結婚して、子供がいたりするのかな。

もう会うことはないだろうけれど、幸せでいてくれたらいいな、と。そんな風に、穏やかな気持ちで彼女を思い出せるようになっていた。


その平穏は、一本の電話によって、唐द्भ唐突に終わりを告げる。


「もしもし、佐藤さんのお宅でしょうか。わたくし、美咲さんのクラスの担任になりました、風見と申します」


受話器の向こうから聞こえてきた、少し低めの、落ち着いた声。

その姓を聞いた瞬間、心臓が凍り付いた。

まさか。

日本に「風見」なんて姓は、星の数ほどある。そんなはずはない。

わたしは震える声で「いつも娘がお世話になっております」と、当たり障りのない挨拶を返すのが精一杯だった。


その日から、わたしは再び、見えない何かに心を蝕まれ始めた。

美咲が持ち帰る学級通信。その隅に書かれた「担任:風見なぎ」の文字。

ああ、なぎ、という名前も、ありふれている。きっと別人だ。そう自分に言い聞かせても、動悸は収まらない。

美咲に「新しい担任の先生って、どんな人?」と、さりげなさを装って聞いたことがある。

「んー? 普通。なんか真面目そう。髪短い人」

それだけの情報では、何もわからなかった。


そして、運命の日がやってきた。三者面談のお知らせ。

わたしは、この20年で一番、入念に化粧をした。完璧な鎧を身につけなければ、立っていられないと思ったからだ。



中学校の門をくぐるのは、卒業以来だ。

改築された校舎は記憶の中のそれよりずっと綺麗だったけれど、グラウンドから聞こえる声や、廊下に漂う独特の匂いは変わらない。

夢の中で歩いた、あの廊下。

現実の昼間の廊下は、生徒たちの賑やかな声と太陽の光に満ちていて、あの夜の静寂が嘘のようだ。


進路指導室、と書かれたプレートの前で息を整える。

コンコン、とノックして扉を開けた。


「失礼します。佐藤美咲の母です」


中にいた娘の美咲が「おそいー」と口を尖らせる。その向かいに、背を向けて座っている女性がいた。紺色のスーツ。短く切りそろえられた髪。

その先生が、ゆっくりとこちらを振り返った。


「こんにちは、佐藤さん。お待ちして……」


言葉が、途切れた。

時間が、止まった。


その顔を見た瞬間、呼吸の仕方を忘れた。

笑うと細くなる、涼しげな目元。薄い唇。

髪型は、夢で見たおかっぱ頭ではなく、洗練されたショートボブになっていた。化粧もしているし、当たり前だけど、大人の女性の顔だ。

でも、わかった。

忘れるはずがない。


彼女もまた、目を見開いたまま、凍り付いている。その表情は驚きと、戸惑いと、何かを探るような色に染まっていた。

机の上に置かれた名札が、視界の端に映る。


『担任 風見 なぎ』


ああ、そうか。

こういうことだったのか。

神様は、わたしを許してなどいなかったのだ。

夢の中の和解なんて、自己満足に過ぎなかった。現実の罪は、清算しなければならない。


「……お母さん? 先生?」

美咲の不思議そうな声で、張り詰めていた空気がわずかに緩む。


「……あ、いえ……失礼しました。どうぞ、お座りください」

なぎは、プロの顔を取り繕って、椅子を勧めた。その声は、微かに震えていた。


ぎこちない三者面談が始まった。

なぎは「佐藤さん」とわたしを呼び、わたしは「先生」と彼女を呼ぶ。

彼女が語る美咲の学校での様子は、ほとんど頭に入ってこなかった。ただ、少し低めの、懐かしい声が鼓膜を揺らす。

夢の中では、あんなに素直に「ごめん」と言えたのに。

目の前にいるのは、20年という現実の時間を生きてきた、わたしの知らない「風見先生」だ。わたしたちの間には、気まずくて、重たい沈黙の層が横たわっている。

時折、視線が合う。そのたびに、お互い慌てたように逸らした。


「……以上です。美咲さんは、もう少し数学を頑張れば、上のランクの高校も狙えますよ」

「は、はい……」

気づけば、面談は終わっていた。


「美咲、あんた先に帰りなさい。先生に少し、お礼を言いたいから」

「えー? わかったよ」

何も知らない娘は、不思議そうな顔をしながらも素直に教室を出ていった。


パタン、と扉が閉まる。

夕暮れの進路指導室に、わたしとなぎ、二人だけが取り残された。

チョークの匂い。西日のオレンジ色。

あの日の体育館裏と、同じ光。


沈黙に耐えきれず、わたしは口を開いた。

「……先生、やってたんだね」

声が、震えた。

「……うん。まあね」

なぎは、俯いたまま答える。


「……どうして、この学校に?」

「……実家が、まだこの近くだから。色々あって、戻ってきたの」


そう。わたしは、この街を捨てて逃げた。

でも、なぎはずっと、この街にいたのかもしれない。わたしが捨てた過去と、あの厳格な父親の監視の下で、ずっと。


「……あの」

なぎが、おずおずと顔を上げる。その目は、少し潤んでいるように見えた。

「優奈は……元気、だった?」

20年ぶりに呼ばれた、わたしの名前。

その響きに、胸が締め付けられる。


「……元気だよ。見ての通り。あんたこそ」

「……わたしも、まあ、なんとか」


会話が、続かない。

夢の中のように、簡単にはいかなかった。

謝りたい。でも、どの言葉を選べばいいのかわからない。

謝られたい。でも、それを求める資格がわたしにあるとは思えない。


20年という時間は、あまりにも長すぎて、あまりにも重かった。

わたしたちの現実は、始まったばかりだ。

それは、夢の中の和解よりも、ずっと困難で、厄介な道のりの始まりだった。

わたしたちはもう、ただの少女ではいられないのだから。

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