第2話:風見なぎという名の呪縛

セーラー服の亡霊が、夜の校舎で私を待っていた。

それは、私が傷つけ、記憶の底に捨てたはずの、たったひとりの大親友。

夢で繋いだ指先の温もりは、凍てついた心を溶かす許しの光。

けれど、終わりのチャイムは、始まりの合図だった。

少女時代の罪と痛みを越えて、今、残酷で優しい“現実”の扉が開く。



あの夢を見るようになってから、日中のふとした瞬間に、記憶の蓋が軋む音がするようになった。

施術中、お客様の爪に淡いピンクのジェルを塗りながら、ふと、誰かの細くて白い指を思い出す。娘の美咲が友達と笑い合っている姿を見て、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、懐かしくて痛い感覚に襲われる。

卒業アルバムの中の、あの少女。

わたしはまだ、彼女の名前を思い出すことから逃げていた。


その夜も、わたしは定刻通り、夜の校舎にいた。

窮屈なセーラー服。冷たい廊下。

迷うことなく三階の突き当り、『3年2組』の扉を開ける。


教室の、一番後ろの窓際の席。

おかっぱ頭の少女が、静かに座っていた。


「……また、来たの」

いつもの台詞。でも今夜は、その声が少しだけ、わたしを責めているように聞こえた。


わたしは彼女の隣の席に座る。

「……うん。ごめん」

何に対しての謝罪なのか、自分でもわからない。ただ、そう言うべきだと思った。


少女は、何も言わずに窓の外を見つめている。

その沈黙が、わたしに決断を迫っていた。もう、逃げるな、と。


わたしは、震える声で言った。

「あなたの名前……風見、なぎ」


わたしがその名前を口にした瞬間、教室の空気が変わった。

澱んでいた空気が、さざ波のように揺れる。窓の外の桜の木が、ざわあ、と悲鳴のような音を立てた。


なぎ。わたしの、大親友。

わたしの、すべてだった子。

記憶の扉が、無理やりこじ開けられる。


中学校の頃、わたし達はいつも一緒だった。手をつなぐのは当たり前で、指を絡ませて歩く廊下は、世界で一番安心できる場所だった。

なぎの、さらさらのおかっぱ頭が好きだった。笑うと細くなる目も、少し低めの声も、全部。

わたしはなぎが大好きだった。恋とか、愛とか、そういう言葉では足りないくらいに。


完璧だった世界は、一瞬で崩壊した。

原因は、男の子。

なぎに、好きな人ができたのだ。隣のクラスの、サッカー部のキャプテン。

なぎの話は、その彼のことでいっぱいになった。

放課後も、休日も、なぎは彼との時間を優先するようになった。絡ませていた指は、いつの間にか解かれていた。


寂しかった。

わたしのなぎが、誰かに盗られてしまう。その焦りと孤独が、わたしを暴走させた。


体育館裏。夕焼けが、なぎの横顔を真っ赤に染めていた。

わたしは、震える声で告白した。


「なぎが好き。大好き。彼のところなんて、行かないで」


なぎは、目を見開いてわたしを見ていた。驚きと、それから……何?

しばらくの沈黙の後、なぎの唇が歪んだ。それは、わたしが見たこともないような、冷たい形だった。


「……は? 何言ってんの、優奈」

「……女の子が好きなんて、おかしいよ」


なぎの言葉が、氷の刃のように突き刺さる。

そして。


「アンタ、気持ち悪いよ!」


気持ち悪い。

キモチワルイ。

その一言が、わたしの世界を粉々に砕いた。

なぎの顔が、憎しみと侮蔑に満ちていた。わたしの知っている、優しいなぎはどこにもいなかった。


あの後、わたし達は口も聞かなくなった。

わたしは逃げるように、この街から離れる高校を選んだ。

なぎは、地元の高校に進んだと風の噂で聞いた。

卒業式の後、わたしは一度だけ、なぎの家の前まで行ったことがある。謝りたかった。でも、怖くてインターホンを押せなかった。家の窓から、厳格な顔つきのお父さんがこちらを睨みつけているのが見えた気がして、わたしは逃げ帰った。

わたしはなぎを記憶の奥底に封じ込めた。わがままに、自分勝手に。「捨てた」のだ。傷ついた自分を守るために。


教室の空気が、凍り付くように冷たい。

夢の中のなぎが、俯いて、小さく肩を震わせている。


「ごめん……」

か細い声が、静寂に落ちる。

「ごめんね、優奈。あんなこと、言うつもりじゃ……なかったのに」


靄のかかった顔から、ぽたり、と涙が落ちるのが見えた。

リノリウムの床に、小さな染みができて、広がっていく。


「わたしも、怖かったの。優奈が、どこかに行っちゃうみたいで……パニックになって……お父さんにも、言われた。『あの子とは、もう二度と会うな』って……わたし、何も言い返せなかった……」


彼女もまた、別の呪縛に囚われていたのだ。

わたしが「気持ち悪い」という言葉に縛られていたように、彼女もまた、親の言葉と、わたしを傷つけた罪悪感に、ずっと縛られていたのかもしれない。


「わたしこそ、ごめん」

自然と、言葉が零れ落ちていた。

「ごめん、なぎ。困らせて、ごめん。気持ち悪いなんて言わせて、ごめん」


わたし達は、お互いを傷つけることしかできなかった。

大好きだったのに。大切だったのに。

あまりにも幼くて、不器用で、自分の気持ちを持て余していた。


「……ねぇ、優奈」

なぎが、そっと手を伸ばしてくる。

その手は、昔と同じ、細くて白い指をしていた。


「もう一度、友達になってくれる?」


その言葉を聞いた瞬間、遠くでチャイムが鳴り響いた。

キンコンカンコン。終わりの合図。

世界が、白く発光していく。なぎの姿が、光の中に溶けていく。


待って!

わたしは咄嗟に、その手を掴んだ。

触れた指先は、驚くほど温かかった。


「……うん!」


わたしが叫ぶと同時、視界が真っ白になった。



ハッと目を覚ます。

朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋を明るく照らしていた。

午前6時30分。いつもの起床時間だ。

夢を見ていたはずなのに、汗もかいていないし、動悸もしていない。

ただ、右の手のひらに、確かな温もりが残っていた。


そして、頬を涙が伝っていた。

それは、悲しい涙ではなかった。


胸の奥にあった、長年のしこりのようなものが、すっと溶けていくのを感じた。

ぽっかりと空いていた穴が、温かい光で満たされていく。


許し、だったのかもしれない。

なぎを許すこと。そして、なぎを傷つけた、幼い自分を許すこと。


もう、あの夢を見ることはないだろう。

そんな確信があった。


わたしはベッドから起き上がり、窓を開ける。

新しい朝の空気が、肺いっぱいに流れ込んできた。

これで、やっと前に進める。

元夫の涼介が言った、「遠く」ではなく、今、ここにある幸せを、ちゃんと見つめることができる。

そう、思ったのに。


その数ヶ月後、わたしは知ることになる。

神様は、わたし達に、夢の中だけでは終わらない、もっと過酷で、もっと愛おしい現実の続きを用意していたということを。

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