『夜の校舎で、あなたを待つ』

志乃原七海

第1話:請求書の届く夢**

毎晩、わたしは、15歳に戻る。

身体に合わない窮屈なセーラー服を着て、

忘れたはずの、夜の校舎を彷徨う。


欲しいものは全て手に入れてきた。

要らないものは全て捨ててきた。


なのに、どうしてだろう。

夢の中のわたしは、ずっと何かを探している。


失くしたものの名前も、傷つけた誰かの顔も思い出せないまま、

過去からの請求書が、今夜も届く。


---


### **小説『夜の校舎で、あなたを待つ』


#### **第一話:請求書の届く夢**


わたし、佐藤優奈、35歳。

都心でそこそこ名の知れたネイルサロンを経営している。中学一年生の娘が一人。元旦那との結婚生活は、わたしの気まぐれが原因で、瞬く間に終わった。「君は、いつもどこか遠くを見ているみたいだった」離婚届に判を押す日、篠田涼介――元夫は、諦めたようにそう呟いた。彼の言う通りだったのかもしれない。わたしは、この手の中にある幸福よりも、ずっと昔に失くした何かばかりを、心のどこかで探し続けていた。

欲しいものは手に入れ、要らないものは捨てる。そんなわがままな性格は、年を重ねても変わる気配がない。自立した強い女。世間はそう見るし、わたしもそう振る舞っている。


ただ、わたしには誰にも言えない秘密があった。

毎晩、同じ夢を見るのだ。過去から送られてくる、請求書のような夢を。



ふ、と意識が浮上すると、わたしはそこにいる。

ひやりと冷たいリノリウムの床。消毒液とチョークの粉が混じった、懐かしい匂い。夜の学校だ。

窓の外では月が白く輝き、廊下に長い光の帯を伸ばしている。静寂が耳に痛いほどで、自分の呼吸の音だけがやけに大きく響く。


そして、決まってわたしは「それ」を着ている。

紺色のセーラー服。赤いスカーフ。身体に合わない制服は、まるで借り物の衣装のように窮屈で、35歳の首筋に硬い襟が擦れるたび、言いようのない居心地の悪さを感じた。

滑稽だとはわかっている。

でも夢の中のわたしは、これを脱ぐ方法を知らない。まるで、罰のように身体に縫い付けられているかのようだ。


フラフラ、と覚束ない足取りで夜の廊下を歩く。

目的はない。ただ、何かを探している。何かを、思い出さなければならない。そんな焦燥感だけが、わたしを突き動かしていた。


階段を三階まで上る。

一番奥の、突き当りの教室。

『3年2組』

古びた木の扉の前で、足が止まる。ここだ。いつも、ここに辿り着く。

心臓がドクン、と大きく跳ねる。緊張で喉がカラカラに乾く。


ゆっくりと、震える手で扉に手をかける。

ギィ…、と錆びた蝶番が悲鳴をあげた。


教室の中は、月明かりだけでぼんやりと見渡せた。

机と椅子が整然と並んでいる。誰もいない。

がらんとした空間に、わたしは一人。

黒板には、日直の名前も、明日の予定も書かれていない。ただ、真っ暗な闇が広がっているだけ。


「……また、来たの」


不意に、声がした。

一番後ろの、窓際の席。そこに、一人の少女が座っていた。

わたしと同じセーラー服。色素の薄いおかっぱ頭が、月光を浴びて銀色に光る。


彼女は、夢の中にしか出てこない。

わたしは彼女の名前を知らない。顔も、思い出せない。でも、知っている。ずっと昔から、わたしはこの子を知っている。そして、この子に何か、取り返しのつかない、ひどいことをした。


「……うん」わたしは頷く。

「探し物は、見つかった?」

少女は窓の外を見つめたまま、静かに問いかける。その横顔は、ガラス細細工のように儚くて、今にも消えてしまいそうだった。


「ううん。まだ」

「そっか」


会話はそれだけ。いつも、これだけ。

わたしは彼女の隣の席に、そっと腰を下ろす。軋む椅子。冷たい机。

二人で並んで、窓の外を眺める。校庭の隅にある大きな桜の木が、風に揺れてざわざわと囁いている。


何を失くしたんだろう。

何を忘れてしまったんだろう。


この夢は、罰なのだと思う。

わたしが捨ててきた、たくさんのものたちへの。わたしが傷つけてきた、誰かへの。

涼介とのことだって、そうだ。わたしは、彼が差し出してくれた誠実な愛情からも、逃げた。

わがままに生きてきた人生のツケが、毎晩、この夢という形で届けられるのだ。


「ねぇ」とわたしは少女に話しかける。

「あなたは、誰?」


少女はゆっくりとこちらを振り向く。

その顔は、のっぺらぼうのように、何も見えない。

でも、その唇だけが、動いた。何かを、言おうとしている。


その瞬間、遠くでチャイムが鳴り響く。

キンコンカンコン、とけたたましい音が、夜の静寂を引き裂く。

世界がぐにゃりと歪み、少女の姿が霞んでいく。


待って。行かないで。

まだ、何も聞けてない。


手を伸ばすけれど、指先は空を切る。

身体が、重い水の中に沈んでいくような感覚。


「……!」


ハッと目を開けると、見慣れた自室の天井がそこにあった。

心臓がバクバクと鳴り、全身にじっとりと汗をかいている。時計のデジタル表示は、午前4時44分を指していた。


わたしはゆっくりと身体を起こす。

隣の部屋からは、娘・美咲の穏やかな寝息が聞こえてくる。この子だけは、わたしの唯一の光だ。

でも、胸にはぽっかりと穴が空いたような喪失感と、そして、疼くような罪悪感が残っている。


わたしはベッドサイドの引き出しを開けた。

奥の方にしまい込んである、古い卒業アルバム。

開くのが怖い。でも、開かなければ、きっとわたしは毎晩、あの冷たい廊下を彷徨い続けることになる。


震える指で、中学時代のページを開く。

集合写真の中、わたしは楽しそうに笑っている。その隣で、同じように笑う、おかっぱ頭の少女。

写真の中の少女は、屈託なく笑っている。

でも、わたしの記憶の奥底で、何かが叫んでいる。


――気持ち悪い。


誰の声だ?

誰が、誰に、言ったんだ?

そして、もう一つの声が聞こえる。厳格な、低い声。


――二度と、あの子とは会うんじゃない。


それは、誰の父親の声だったか。


わからない。

わからないまま、わたしはアルバムを閉じた。

答えを見つけるのが、まだ、怖い。


忘れてしまった「何か」を見つけない限り、この呪いのような夢は、きっと終わらない。そして、わたしは本当の意味で、前に進むことなどできないのだろう。

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