『夜の校舎で、あなたを待つ』
志乃原七海
第1話:請求書の届く夢**
毎晩、わたしは、15歳に戻る。
身体に合わない窮屈なセーラー服を着て、
忘れたはずの、夜の校舎を彷徨う。
欲しいものは全て手に入れてきた。
要らないものは全て捨ててきた。
なのに、どうしてだろう。
夢の中のわたしは、ずっと何かを探している。
失くしたものの名前も、傷つけた誰かの顔も思い出せないまま、
過去からの請求書が、今夜も届く。
---
### **小説『夜の校舎で、あなたを待つ』
#### **第一話:請求書の届く夢**
わたし、佐藤優奈、35歳。
都心でそこそこ名の知れたネイルサロンを経営している。中学一年生の娘が一人。元旦那との結婚生活は、わたしの気まぐれが原因で、瞬く間に終わった。「君は、いつもどこか遠くを見ているみたいだった」離婚届に判を押す日、篠田涼介――元夫は、諦めたようにそう呟いた。彼の言う通りだったのかもしれない。わたしは、この手の中にある幸福よりも、ずっと昔に失くした何かばかりを、心のどこかで探し続けていた。
欲しいものは手に入れ、要らないものは捨てる。そんなわがままな性格は、年を重ねても変わる気配がない。自立した強い女。世間はそう見るし、わたしもそう振る舞っている。
ただ、わたしには誰にも言えない秘密があった。
毎晩、同じ夢を見るのだ。過去から送られてくる、請求書のような夢を。
◇
ふ、と意識が浮上すると、わたしはそこにいる。
ひやりと冷たいリノリウムの床。消毒液とチョークの粉が混じった、懐かしい匂い。夜の学校だ。
窓の外では月が白く輝き、廊下に長い光の帯を伸ばしている。静寂が耳に痛いほどで、自分の呼吸の音だけがやけに大きく響く。
そして、決まってわたしは「それ」を着ている。
紺色のセーラー服。赤いスカーフ。身体に合わない制服は、まるで借り物の衣装のように窮屈で、35歳の首筋に硬い襟が擦れるたび、言いようのない居心地の悪さを感じた。
滑稽だとはわかっている。
でも夢の中のわたしは、これを脱ぐ方法を知らない。まるで、罰のように身体に縫い付けられているかのようだ。
フラフラ、と覚束ない足取りで夜の廊下を歩く。
目的はない。ただ、何かを探している。何かを、思い出さなければならない。そんな焦燥感だけが、わたしを突き動かしていた。
階段を三階まで上る。
一番奥の、突き当りの教室。
『3年2組』
古びた木の扉の前で、足が止まる。ここだ。いつも、ここに辿り着く。
心臓がドクン、と大きく跳ねる。緊張で喉がカラカラに乾く。
ゆっくりと、震える手で扉に手をかける。
ギィ…、と錆びた蝶番が悲鳴をあげた。
教室の中は、月明かりだけでぼんやりと見渡せた。
机と椅子が整然と並んでいる。誰もいない。
がらんとした空間に、わたしは一人。
黒板には、日直の名前も、明日の予定も書かれていない。ただ、真っ暗な闇が広がっているだけ。
「……また、来たの」
不意に、声がした。
一番後ろの、窓際の席。そこに、一人の少女が座っていた。
わたしと同じセーラー服。色素の薄いおかっぱ頭が、月光を浴びて銀色に光る。
彼女は、夢の中にしか出てこない。
わたしは彼女の名前を知らない。顔も、思い出せない。でも、知っている。ずっと昔から、わたしはこの子を知っている。そして、この子に何か、取り返しのつかない、ひどいことをした。
「……うん」わたしは頷く。
「探し物は、見つかった?」
少女は窓の外を見つめたまま、静かに問いかける。その横顔は、ガラス細細工のように儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
「ううん。まだ」
「そっか」
会話はそれだけ。いつも、これだけ。
わたしは彼女の隣の席に、そっと腰を下ろす。軋む椅子。冷たい机。
二人で並んで、窓の外を眺める。校庭の隅にある大きな桜の木が、風に揺れてざわざわと囁いている。
何を失くしたんだろう。
何を忘れてしまったんだろう。
この夢は、罰なのだと思う。
わたしが捨ててきた、たくさんのものたちへの。わたしが傷つけてきた、誰かへの。
涼介とのことだって、そうだ。わたしは、彼が差し出してくれた誠実な愛情からも、逃げた。
わがままに生きてきた人生のツケが、毎晩、この夢という形で届けられるのだ。
「ねぇ」とわたしは少女に話しかける。
「あなたは、誰?」
少女はゆっくりとこちらを振り向く。
その顔は、のっぺらぼうのように、何も見えない。
でも、その唇だけが、動いた。何かを、言おうとしている。
その瞬間、遠くでチャイムが鳴り響く。
キンコンカンコン、とけたたましい音が、夜の静寂を引き裂く。
世界がぐにゃりと歪み、少女の姿が霞んでいく。
待って。行かないで。
まだ、何も聞けてない。
手を伸ばすけれど、指先は空を切る。
身体が、重い水の中に沈んでいくような感覚。
「……!」
ハッと目を開けると、見慣れた自室の天井がそこにあった。
心臓がバクバクと鳴り、全身にじっとりと汗をかいている。時計のデジタル表示は、午前4時44分を指していた。
わたしはゆっくりと身体を起こす。
隣の部屋からは、娘・美咲の穏やかな寝息が聞こえてくる。この子だけは、わたしの唯一の光だ。
でも、胸にはぽっかりと穴が空いたような喪失感と、そして、疼くような罪悪感が残っている。
わたしはベッドサイドの引き出しを開けた。
奥の方にしまい込んである、古い卒業アルバム。
開くのが怖い。でも、開かなければ、きっとわたしは毎晩、あの冷たい廊下を彷徨い続けることになる。
震える指で、中学時代のページを開く。
集合写真の中、わたしは楽しそうに笑っている。その隣で、同じように笑う、おかっぱ頭の少女。
写真の中の少女は、屈託なく笑っている。
でも、わたしの記憶の奥底で、何かが叫んでいる。
――気持ち悪い。
誰の声だ?
誰が、誰に、言ったんだ?
そして、もう一つの声が聞こえる。厳格な、低い声。
――二度と、あの子とは会うんじゃない。
それは、誰の父親の声だったか。
わからない。
わからないまま、わたしはアルバムを閉じた。
答えを見つけるのが、まだ、怖い。
忘れてしまった「何か」を見つけない限り、この呪いのような夢は、きっと終わらない。そして、わたしは本当の意味で、前に進むことなどできないのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます