第2話 清潔感は大事よね?

 湯から上がると、用意されていた柔らかな布で髪と身体を拭いた。湯気がふわりと立ちのぼり、ほっと息をつく。


 そこで――気づいてしまった。


(……え、眉毛……何も手入れされてない……!?)


 鏡台に映る自分の顔をまじまじと見る。薄桃色の髪に縁どられた額――その下に、どっしり鎮座する存在感たっぷりの眉。


(……我慢できない……)


「すみません……誰かいませんか」


「はい、なんでしょう」


 脱衣所の外で控えていたらしい女中が、すぐに返答する。


「あの……剃刀と毛抜きはありますか?」


「……剃刀と、毛抜き……でございますか?」


 女中が、ほんの少しだけ眉をひそめて言葉を濁す。


「準備できなければ、大会には行きません」


 一瞬の沈黙のあと、女中はこくりと小さくうなずいた。


「……わかりました。すぐにご用意いたします」


 襖が閉まるのを見届けてから、私はふぅと息を吐いた。


(……どんな世界でも私が好きな自分でいたい)


 しばらくすると、女中は剃刀と毛抜きを盆に載せて持ってきた。私は礼を言い、鏡台の前に座り直す。


(……まずは、顔の雰囲気決めから……)


 左右のバランスを見ながら、そっと眉に指を添える。


 美桜の顔立ちは、切れ長の目に、高い鼻筋、薄い唇。どこか中性的にも見える整った顔だが、その上にもじゃもじゃと生えた眉が乗っているせいで、今は精悍すぎる印象だった。人によっては、男と紹介されても信じてしまうかもしれない。


 しかも、日に焼けた肌は、薄桃色の髪とはまるで調和していない。


(……これは、長期戦になるな……)


 私は眉の周りの産毛をそり落とし、柔らかすぎず、釣り上げすぎない――顔立ちに合った細めの眉に整えていく。


(……眉毛の研究、しておいてよかった)


 顔の印象は八割が眉で決まる。そう知ってから、毎晩動画を漁って眉の整え方を猛勉強したのだ。その成果か、左右のバランスも申し分ない、すっきりとした眉になっていた。


(お!いい感じじゃん!ちょっときれいになったかも!)


 嬉しくなりつつ、髪の毛をタオルで優しく包む。


「あの……すみません」


「……なんでしょう?」


 襖の外から返ってきた女中の声は、どこか刺々しい。呼ばれるたびに、少しずつ眉間にしわが寄っていくのが想像できた。大会まで、もうあまり時間がないのだろう。


「髪の毛を早く乾かしたいのですが……」


「そのようなものは……ございません」


 きっぱりとした返答。この世界にドライヤーなど存在しない――それはわかっている。


(でも……このまま濡れた髪で外に出るなんて、無理)


 女中は小さくため息をつき、「お支度をお急ぎくださいませ」とだけ言い残して襖を閉めた。 足音が遠ざかると、脱衣所にはしんと静けさが落ちる。


 タオルの中で湿った髪が、じわりと冷えていくのを感じた。このままでは広がって絡まり、切れ毛だらけになるのは目に見えている。


(……どうしよう、髪の毛乾かさないと…でもどうやって――)


 そのとき、不意に胸の奥が熱を帯びた。脳裏をよぎる――剣を握って戦う光景。剣筋に合わせて空気が歪み、熱が生まれ、敵を薙ぎ払っていく。


(……そうだ。私は炎の異能を得意としていたんだ)


 タオルで丁寧に水気を拭き取り、髪を指で軽くほぐす。


(濡れたまま高温を当てたら……水蒸気爆発でチリチリになる。絶対ダメ)


 私は深呼吸して、指先にほんのりと熱をこめた。指先からふわりと赤い光がにじみ、髪の表面に温かい風のような熱が伝わっていく。しばらく撫でるように熱を送ると、髪はさらりと乾いていた。


 髪はもともとくせは少ないが、手で乾かしただけだからか、ところどころ跳ねている。熱を少し強め、気になる部分の毛束を指でそっと挟む。するすると滑らせるたびに、髪がまっすぐに整い、艶を帯びていった。


(……自分の手でアイロンもできるって、最高じゃない?)


「あの……すみません」


「なんでしょ……み、美桜様!?」


 女中は苛立った様子で扉を開けたが、髪の乾いた私を見た瞬間、目をまんまるに見開いた。


「……なんでしょう?」


「い、いえ……今日は……いつもと雰囲気が違いますね」


 その声には、ほんの少しだけ怯えと――驚きが混じっていた。


(ふふ……やっぱり、整えると印象って変わるよね)


「いつもと一緒よ」


 微笑んでそう言いながら、髪をかき上げる。さらりとした髪の毛がこぼれる。


「――化粧道具はどこかしら?」


「け、化粧道具……でございますか……」


 女中は一瞬きょとんとした顔をしてから、困惑したように視線を泳がせた。


「あの……美桜様は、化粧道具はお持ちでいらっしゃらないかと……」


「えっ!? ないの!?」


「は、はい……。旦那様が、必要ないから買うなと……」


 その言葉を聞いた瞬間、視界がぐらりと揺れた。また――記憶が流れ込んでくる。 自分の思い通りにならないと暴力をふるう、男の顔。少し美桜に似たその顔立ちから、それが父親なのだと理解した。


「ゆ……許せない……」


 思わず、声に出ていた。


「美桜様、剣術大会に間に合わなくなります……どうか、出発してくださいませ……」


 女中が怯えたように声を震わせる。

 そのとき――


 廊下から、どしん、どしん、と重たく響く複数の足音が近づいてきた。床板まで震えるような、乱暴で威圧的な足取りだった。


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