第3話 大会より化粧道具
突然、脱衣所の扉が勢いよく開いた。
「何をしている! さっさと大会に行け!」
現れたのは――記憶の中で、美桜に暴力を振るっていた男。 おそらく父、篠森
その後ろには、二人の男がにやにやと笑みを浮かべながら立っていた。
美桜の記憶によれば――彼らは二人の兄、長兄の篠森
この世界では、剣術・異能・学術・陰陽のいずれかに秀でた者が、高い地位を得ることができる。だが、目の前の兄二人は――そのどれもがまるで駄目だった。
本来なら篠森家の名に泥を塗っているはずなのに、兄二人は――すべてにおいて秀でた美桜の存在を盾に、のうのうと生きていた。「自分たちは美桜よりも優れているから、大会に出る必要はない」と言い張り、稽古も勉強もせず、賭博や女遊びにふけりながら、形だけ学校に在籍しているのだ。
女性の地位がまだまだ低いこの世界では、剣術や異能の大会に女性が出場しても記録は残らない。それでも美桜は、家族のためにどの大会でも優勝してきた。そのため――人々から「無冠の女王」と呼ばれるようになった。
「なんだその髪は! そんな暇があるなら、さっさと大会に行け!」
「そうだ! 俺たちの役に立たないなら、年寄りに嫁がせるぞ!」
兄二人はけらけらと笑いながら、まるで子どもをからかうように言ってくる。だが、私にとっては彼らも、大会も、どうでもいい。この家族に情などひとかけらもないし、年寄りに嫁がされるなら――逃げればいいだけだ。
(……なら、少し反撃してみようか)
「大会には行きません」
にっこりと笑って言う。
「私より強い兄さまが二人もいらっしゃいますし、篠森家は安泰ですよね?」
兄たちは一瞬きょとんとした顔をしたあと、顔を見合わせて大げさに肩を震わせた。
「……お、おい冗談だろ……?」
「ふざけるなよ……! 父上ぇ!!」
次の瞬間、二人は慌てて忠嗣の背中に回り込み、必死に泣きついた。
「父上! 美桜が、大会に出ないと申しております!!」
「俺たちは……そんな急に出ろなんて言われても無理です!!」
忠嗣の目がぎらりと光り、私を睨みつける。私を睨みつけても無駄だ。今までの美桜なら怯えていたかもしれない。でも私は美桜じゃない。
「……貴様……」
どん、と畳を踏み鳴らして一歩近づいたかと思うと――忠嗣は思いきり手を振り上げた。
(な、殴られる……!?)
反射的に身をすくめた瞬間――ふと、違和感がよぎる。振り下ろされるその手が……遅い。まるで、ゆっくりと落ちてくる木の枝のように見える。
(……え? 遅くない……?)
目で追えてしまう。 いや、それどころか――
(……これ、避けられちゃうよ……?)
反射的に、上体をひねって一歩だけ横にずれる。まるで稽古で鍛え上げた身体が、勝手に動いたかのようだった。
次の瞬間――
「っ……ぬあっ!?」
振り下ろされた忠嗣の腕は、美桜の頬をかすりもしないまま空を切った。勢いを殺しきれず、忠嗣の身体は前にぐらりと傾く。
派手な音を立てて、忠嗣は脱衣所の桶とタオルを巻き込んで盛大に転んだ。呆然とする兄二人。女中は口元を押さえて目を見開いている。
(……え、私、今……避けた……?)
私も口を押さえたまま、倒れ込む忠嗣を見つめた。腰をやられたのか、苦しそうな声で床に突っ伏している。
「だ、大丈夫ですか……?」
さすがに申し訳なくなって声をかけると、涙目の忠嗣が顔を上げた。
「さ、さっさと大会に行け! 行かなければ……と、年寄りの嫁に――」
「していただいて構いませんよ」
「……は?」
忠嗣が呆けたような声を漏らす。
「私は無冠の女王です。年寄りが手籠めにできるような女ではありません」
「ぐ、ぐぬぬ……!」
忠嗣は這いつくばったまま、悔しげに顔を歪めてこちらを睨みつけている。
「……大会には……どうしたら行くんだ……!」
「化粧道具を買ってください」
私はさらりと告げた。
「それで手を打ちましょう」
忠嗣の顔がひくりと引きつる。
「……もし、約束をたがえれば――」
私は静かに歩み寄り、忠嗣の耳元に唇を寄せた。
「――長男の景真を、町中引きずり回します」
忠嗣の肩がびくりと跳ねた。冷や汗が一筋、こめかみを伝って落ちていく。
「……わかった……」
忠嗣がしぼり出すように言う。私はにっこりと微笑み、するりとその場を離れた。
「ではお父様――行ってまいります」
女中とともに脱衣所を出て、自室へ戻る。用意されていたのは、男性用の黒い稽古着と濃紺の袴だった。女中が少し申し訳なさそうに口を開く。
「……女性物では、丈が……」
「構いません。合うものを着ます」
帯を締め、袴の裾を払って鏡の前に立つ。長い脚にぴたりと合った袴は、男物でも不思議と違和感がなかった。
(……悪くない。むしろ、このほうが動きやすいし、強そう)
髪を高くひとつに結い上げると――女中が私の前に進み出た。その手には、小さな白いパフのようなものが握られている。
「……私ので申し訳ございませんが、おしろいをお付けいたします。どうか、目を閉じてくださいませ」
言われたとおりに目を閉じると、女中の優しい手つきで、顔にそっとパフが押し当てられていく。ふわりとした感触が数度繰り返され――やがて、手が離れた。
そっと目を開けて鏡をのぞき込む。そこには、ほんのりと白くなった肌に、きりりと結い上げた髪。戦いに向かう装いの中で、確かに「美」が宿っていた。
(……少しだけ、きれいになった)
思わず口元がゆるむ。
「ありがとうございます……」
「とんでもございません……。化粧道具、必ずご用意してお待ちしております」
女中が深々と頭を下げるのを見届けて、私は立ち上がった。美桜の記憶を頼りに、黒い地下足袋を履き、剣を背に負う。支度をすべて整えると、私は会場へ向けて速足で屋敷をあとにした。
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