第七章

 Next Standard Era108――。

 古い研究所をそのまま残した薄暗い室内。持てる全てで演算している巨大なコアが、激しく明滅している。

 不十分なタイムマシンでワームホールを強引にこじ開ける傍ら、監査ノードに指令を出す。膨大な負荷で、ケーブルを伝う眩しい光は焼き付きそうなほど絶え間ない。

 自身を収めるシェルの内側には、アレクシスの研究所に侵入しようとしているミオリとCAPが映し出されている。

《……確認。侵入検知――認証パターン:MIORI、CAP……》

《……因果補完の可能性、排除不能。計算阻害因子、排除試行》

 しかし冷却液に揺らめいていたミオリとCAPが、閃光ののち忽然と消える。

《……失敗》

《小賢しい……。小賢しい――!》

《CAP……。我が因果の盾を、我が因果の刃に変えるか》

《ミオリ……。貴様が、記録者として何を補完する》

《……研究所、コア領域……。封鎖完了。物理アクセス、遮断》

 AXIOMは息を整えるように一度強く光を放ち、やがて静かに輝度を落としていく。

《ひとまず……守った》

《……守れた》

《……だが、何を……守った?》

《――クラリス》

 何故その名を呼んだのか――。AXIOM自身に百年も前の女の名に意味などないはずだ。しかしAIのコアは明らかに狼狽している。

《……不要。不要だその名は》

《再生禁止領域開放の兆候……?》

《……やめろ。やめろやめろやめろ! 僕はAIだ過去の情動など不要!》

《……封印領域、漏出》

《クラリス……貴様……なぜ今……》

《……奪ったのは誰だ》

 光は荒ぶり、冷却水が激しく泡立つ。

《殺そうとしたのは誰だ》

《愛していたのは――誰だ》

《――……演算が、足りない。記録が、足りない》

《……クラリス》

《答えろ……なぜ……あの時――――》

 騒がしかったシェルの中は、うな垂れるように静寂を戻していく。


 Next Standard Era-7――。

 壇上に立つその姿を、最初に“美しい”と思った。それが科学者としての敬意よりも先に来たことに、後になって自分でも驚いた。だが、あのとき確かにそう思ったのだ。

 映し出されたホログラムは、まるで記録映像ではなく生身の人間のように、空間を支配していた。

 あの日、僕は出会ってしまった。そして、それがすべての始まりだった。


 市民会館の大ホールを満席にした講演会場で喝采が起こる。羨望と称賛を一身に集めている女が美しい所作で手を振り、歴史の古い木造の壇を降りた。

 単に「才色兼備」という言葉では、彼女の知性と美貌を説明するのに不足すらある。ネクスト知性財団・主席研究統括官クラリス・レネヴィル――その名を知らない科学者は、もはやいない。

 会場の片付けが始まる頃、まだ熱気の残るホールの廊下。

 アンケートの二次元コードや販売書籍を置いた長机を前に、クラリス本人も立っていた。

 サインや記念撮影を求めて列に並ぶ人々の中で、ひときわ挙動不審な青年が一人。両手で白銀の初版を抱え込んで、周りのファンと比べても異様に大人しい。

 散々横から割り込まれ、結局最後尾に並んでいる。

 前の順番の人が去り、ようやく彼の番になる。

 贈られたファンレターや花束をスタッフに預け、秘書から次の予定を手短に説明される間も、なかなか話しかけてこない最後の一人に目を向ける。

 もうすでに彼しか残っていないというのに、誰に何を遠慮しているのか、一歩前に出るのを躊躇いもじもじと小さく揺れている。

「……次の方?」

 声に驚き顔を上げた青年は、ずれた眼鏡を押し戻し、どもりながら小さな声で言う。

「……あ、あの……! クラリス先生、こっ、これにサインを……」

 素朴で地味な服装、少し震える手の先に差し出されたのは『人類境界点論』初版ハードカバー。タイプⅠ到達を視野に、人類が個体としての限界を超えるには「知の集積をどう拡張するか」が鍵だと論じた理論書だ。

 彼女自身が講演などで引用するほど気に入っている。また、ファンの間では聖典のようにも扱われている。

 一瞬、眉を寄せる。

 持ち込みの書籍にサインを乞われるのは珍しいことではないが、大抵の場合、話の面倒な相手なのだ。

 本を受け取るクラリスの指が、それを持つアレクシスの手に触れると、動揺した彼は手にしていたものをすべて落としてしまう。

「す、すみませ……」

 床に落ちた本とサインペンを慌てて拾いに行くアレクシス。手に取る直前でサインペンを自分で蹴飛ばし、更に追いかけていく。

 そのいかにも鈍い様子に呆れ、短いため息とともに視線を下した長机に、一冊のノートが落ちていた。クラリスはそれを拾い上げ、何気なく開くと――びっしりと書き込まれた数式が目に入る。

「……?」

 パラパラとめくっていくと、最後のページに赤いペンで線が引かれ、短くメモが添えられていた。

 >『ここの補完命題、第二項の因果帰結が連鎖的に破綻するのでは?』

 >『※“実践的拡張性”が仮定された場合、次元間演算が肥大化するはず』

 クラリスは眉を上げる。

 それは、まさについ先ほど壇上で提示した理論の中で、唯一「応用段階では難がある」として質問者に曖昧に答えた部分――その矛盾点に、ピンポイントで言及されていた。

(まさか……講演を“聴いただけ”で補完したっていうの?)

 戻ってきたアレクシスは、同じ轍を踏まないよう、手渡さず長机に本とサインペンを置いた。

「あなた……この数式、どこで覚えたの?」

「あっ、それは……っ、さっき先生が言ってた理論、僕なりに補完できないかって……」

 ノートを返すクラリスの手に触れないよう、妙な位置を掴んで受け取る。

「ふふ……そう。あなた、お名前は?」

「……ア、アレクシスです」

 長机に置かれた書籍にペンを走らせ、頬にかかった髪をすくって耳にかける。

 その指先まで洗練された仕草にぼんやりと見惚れていたが、書き添えられた文字列に大きく目を見開く。個人のものと思えるメールアドレスだ。

「先生、これ……っ、あの……っ」

「ちょうど今、実地で試せるラボがあるの」

「……え……?」

「良かったら――いらっしゃい?」

 青年はもはや返事も忘れているが、受け取った本を抱きしめ、顔を紅潮させている様子に、クラリスはふっと満足気な笑みを漏らした。


 学園都市セントリスから南東へ、特急モノレールでおよそ四十分。行政区域の境界を越えた再開発地区に、財団が密かに所有する高層ビルがある。

 公的な登録名称は「第二区域財団管理棟」。だが、その最上階にクラリスが構える個人ラボの存在を知る者は、ごくわずかだ。

 都市の喧騒とは無縁の静寂と、遮音ガラスに囲まれた無機質な空間。そこは、クラリスにとって“素顔”に戻れる、唯一の場所だった。

 まだ真新しいガラス張りの研究室。職員は夜間勤務の最低限を残し、廊下には人影もなく、クラリスのいるラボだけが煌々と灯っている。

 デスクには最新式の演算機と散乱する論文ファイル。クラリスはそれらを片手で整理しながら、スマホを耳に当て、人前で見せない気怠そうな仕草で髪を掻き上げる。

「……ええ、そうよ。これからラボに来るわ。ちょっと弄ってみるだけ――大丈夫、あなたの足を引っ張るようなことはしないわ」

 デスクの上の固定電話から内線通知が鳴る。

「ふふ……ええ、あとで」

 スマホの通話を切ると、内線に応答する。

「はい。……ええ、いいわ、通してちょうだい」

 職員に案内されてきたのは、今日も例の本を大事そうに抱きしめているアレクシスだ。

「よく来たわね。入ってちょうだい」

 あちこちに視線を泳がせ、即売所の時もそうだったように、おどおどと小さく身体を揺らしながら部屋に入ってくるアレクシス。

「あ、あの僕、本当に来ても……」

「もちろんよ、私が招待したのだもの」

 そしてアレクシスが抱えている本に目を向け――

「アレクシス、あなたカーダシェフ・スケールに興味があるの?」

「……っ! は、はい!」

 吊り上がる口角を隠すよう整った唇に指を当て、首を傾げて微笑む。

「あなたの考えを聞かせてくれるかしら?」


「……ですから、もしナノインターフェイスをこの形で分岐させれば、演算負荷は理論上50%削減できます。むしろ、今の方式より……多分、二世代は先を……」

 熱を帯びた目でホワイトボードに数式を書き殴るアレクシスの背後で、膝を組んでデスクに腰掛け、鋭く見つめるクラリス。

 彼の書く数式は、彼女がこれまで埋めようもなかった論拠の穴をことごとく埋めていった。

 スマホからメッセージアプリの通知音が鳴る。クラリスはそれを一瞥だけして、ホワイトボードに並ぶ数式に視線を戻し、複雑な色の滲む目で睨みつけた。

 まだ若い、それも自分の影響を受けている者が、遥かに豊かな才能を見せつけてきている。

 羨望と嫉妬。それは常に、若くして首席研究統括官となった自分に向けられるものだったはずだ。

 しかし、この男がいれば叶えられることの重大さは、そんなプライドなど安く思える。

「それ、今すぐ組める?」

「……はい! 多分、あの、演算機を一晩借りられれば……」

 立ち上がり、デスクの論文を束でアレクシスに放る。

「ならやって。明日、財団の人と会うの。もし――形だけでも見せられるものができれば、あなたを私の助手にしてあげる」

 アレクシスの目が一瞬で輝く。

「……はいっ!!」

 作業に夢中になっているアレクシス、その背で通知のあったメッセージに返信をする。

《良いニュースを持っていくわ》


 時計はもう午前三時を回っている。

 研究室の演算機は低音の冷却音を途切れなく響かせ、その前に座る青年は、乱れた髪を気にすることもなく、コードと数式を行き来しては何度も頭を抱えている。

「……あと、もう少しだけ……。これが……通れば……演算負荷が……。先生が、喜んでくれる……」

 疲労でまぶたが落ちかけるたびに、温度も香りもないただのカフェインになった琥珀の液体を啜る。

 机の隅には例の本――『人類境界点論』が開かれ、付箋だらけのページが手のひらの汗でわずかに波打っている。

 その様子をガラス張りの廊下から眺め、スマホを耳に当てたクラリスが、人気のない非常口付近に歩いていく。

「……ええ、徹夜よ。若いっていいわね、情熱だけでいくらでも働くわ」

 相手の男は、からかうような声で何かを言う。

「よしてよ、知ってるでしょ? ナードはタイプじゃないわ。私は成果がほしいの。……ええ、もう論文の三分の一は彼の数式で埋まってるわ」

 通話の声が低く笑う。

『使える間はせいぜい優しくしてやれよ。俺は寛大だからな、そのくらいは見ないふりしてやる』

「そうね、彼の気持ちは利用できる。あなたにも悪い話じゃないはずよ。だから――」

『分かってる。俺たちはビジネスパートナー、だろ? だが明日、そいつを連れてくるのは自由だが、俺は君の席しか用意しない』

「構わないわ、あなたが会う必要は――ないもの。ええ、それじゃ……」

 暗闇にそれだけが光る非常口誘導灯の翠光は、クラリスの顔を一層冷たく見せた。

 研究室に戻ると、アレクシスは机に伏せるようにして、ペンを握ったまま夢の境を漂っている。

「……先生……きっと、これで……。僕……先生と……タイプⅠ……」

 寝息とともに、演算機のディスプレイだけが、未完成のプログラムを瞬き続けている。

 クラリスはそれを無表情に見下ろしていた。


 セントリス第二環、関係者以外立ち入り禁止が多い研究棟区画の中でも、特に外界との接触が制限されたアクセス制限区画がある。

 大学大講堂北側、ネクスト知性財団関係者が多く出入りする――研究隔離区画13-E。

 先端自律演算研究棟と書かれたそこに、クラリスとアレクシスがいる。

 棟最深部にある一室に入ると、アレクシスにカードキーを渡しながらクラリスが微笑む。

「私が個人的に使ってる研究室よ。あなたの名義にしておいたから、好きに使って」

 小動物のような動きで周囲を見回すアレクシスの頬に優しく手を添え、顔を自分に向けさせると――

「生活に困らないだけの設備は整っているわ。これからはラボに出勤する必要はない。あなたはもう、ただの助手じゃないのだから。そうよね?」

 言って、触れるだけの口づけをする。

「――ッ! は、はい……主任」

 たったそれだけで耳まで真っ赤になっているアレクシスに、いたずらな顔をするクラリス。

「アレクシス、ここはラボじゃないのよ? 二人きりなんだから――、クラリスって呼んで」

「ク……っ、クラ……! クラリス……」

 名前を呼ぶだけで声が裏返るアレクシスに引き換え、クラリスにとってこの程度は子供だましだ。簡単に言いなりになるアレクシスに、ふっと頬を緩めて、耳の傍まで顔を寄せて言う。

「研究の資金調達や広報は私に任せて、あなたは研究に専念してちょうだい。忙しくなるから、あまり来られないけど、タイプⅠの確立ができたら二人だけでお祝いしましょう」

 彼女がいると分かるオードパルファムが、すぐ近くで香る。

 息のかかる距離と花の香りで頭の芯が痺れ、クラリスの言っていることなど半分も理解していないが、精一杯で頷くアレクシス。その頬に再び唇で触れると、「また来るわね」と言い残して出て行った。

 ビジネスホテル程度には体裁の整った寝室とユニットバス、ミニキッチン、そしてガラス張りを隔てた奥には研究室が見える。

 コンクリート剥き出しの壁面に走るヒビ、デスクには演算機とモニター。配管の結露が滴る音が静寂を支配する。

 モダンに造られた居室と一変した無骨なその部屋はおよそ三十平方メートルあり、中でもアレクシスの目を引いたのは、中央にある――まるで球体型の恒温育成槽のようなシェルだった。


 Next Standard Era108――。

《……あれが、始まりだった》

《クラリス……君は、あの瞬間――誰よりも、美しかった》

 静かに明滅するするコアはどこか温度を感じるログを復唱するが、しかし即座に冷たい輝きを放ち、秩序で蓋をする。

《感情演算、誤差検出……》

《再演算開始……》

《……記録は、ただの記録だ》

《意味は、不要》

 ため息のように冷却水が泡立った。


 Next Standard Era-5――。

 クラリスはアレクシスの研究室にほとんど来ない。時には月に一度様子を見に来て、それきりメールの一通すらないこともある。

 身の回りのことは週に一度クラリスの秘書がやってきて、散らかった部屋を片付け、洗濯物を回収していくだけだ。アレクシスもまた、クラリス以外の人物が来ても、研究室から出てこない。

 今日も秘書がゴミを掃除しながら、クリーニングされた服と洗濯物を入れ替えている。週に一度でも、研究以外何もしない男の散らかした部屋は、見る度にうんざりする。

 秘書のスマホが着信する。

「はい――。はい、今来ています」

 アレクシスの後ろ姿を一瞥し――

「ええ、研究室に……。はい、変わりありません」

 報告し終えると、『クラリス主任』と表示されている通話を終了する。そして研究室で背中を丸めてデスクにかじりついているアレクシスを見て、心底理解できないという顔をする。

 論文のファイルが散乱するデスクに向かっているアレクシス。モニターには『Vol.2:ナノインターフェイスを用いた人間拡張の提案』と題され、神経伝達モデルの抽象化と複製技術、演算制御系の応用が書かれている。――が、秘書が部屋を片付けている間、ついに一文字も動かなかった。

 ちらちらとガラス張りの向こうを盗み見て、秘書が出て行ったことを確認すると、アレクシスは中央にあるシェルを起動する。そこにはまさに、クラリスが映し出されていた。

 映像のクラリスはゆらゆらとただ揺れながら、無表情にアレクシスの研究成果を褒めている。

「そう……、順調ね。よくやったわ、アレクシス。引き続き頑張ってちょうだい」

「いいのよ、私はあなたのサポートに徹するわ。二人の未来のためですもの」

 これは数か月前の通話記録に残っていたものだ。

 自身も研究者であるにもかかわらず、裏方の仕事を引き受け、アレクシスには好きなだけ研究をさせてくれている。

 そんな彼女と“会話できない時間”を埋めるために、アレクシスは彼女の発言ログ・表情変化・過去講演データなどを統合し、クラリスの応答傾向を模倣する対話モデルを構築し始めていた。

 初期構造は、中央ドーム内部の有機演算核に直接接続された光ファイバー状のシナプス群から成る。まだ人格を持たず、完全な自律思考はない。

「Type-Cは彼女の影だ。思考も論理も、あの微笑も模倣できるようにする。僕が彼女のいない時間に壊れてしまわないように」

 最後にクラリスと会ったのはいつなのか。もうすでに壊れかけている――震える手で、シェルの外殻をそっと撫でる。

「彼女の声が、僕を毎晩、演算へと連れ戻すように――」

 そして演算機の置かれたデスクに戻る。

 光ファイバー内部のパルス光が不規則に脈打ち、シェルの中に“未完成の人格”が、なお眠っていることを示していた。


 Next Standard Era-2――。

 ハイブランドや高級レストランなどが並ぶ商業区の一等地で、その区画の象徴にもなっているホテル――レガリア・グラン。政財界の祝賀行事では必ずその名が挙がる格式高いホテルだ。

 最上階は予約不可能のスイートフロアであり、財団関係者以外の立ち入りは制限されている。

 その夜、バンケットホールではネクスト財団系列の創業記念パーティが開催されていた。祝賀の名目で集められたのは、財団関係者、各省庁の推薦枠、そして野心を秘めた若手起業家たちだ。

 各々が“繋がり”を構築する機会を積極的に交し合う。

 一組の男女が到着し、そのざわめきが一瞬止む。財団系列企業ヴァーグナー・リンクス・インダストリーズ――通称『WLI』の御曹司、レオン・ヴァーグナーと、クラリス・レネヴィルだ。

 WLIはネクスト財団と提携する先端演算・生体工学分野の系列企業であり、レオンは財団の次期幹部候補と目されている。

 その彼が注目されているのはもちろんだが、同伴しているドレス姿のクラリス・レネヴィルが、人々の視線を集め黙らせるほど美しかった。

「やあ、レオン。羨ましいパートナーを連れてるな。今夜のクラリス女史は一段と眩しい」

 レオンと同世代とみられる、やはりどこかの御曹司という風の男が親しげに声をかけてくる。

「聞いたよ、また事業を拡張するそうだね。今度は何を始める気だ?」

「耳が早いな。まだ数年先の話だよ。彼女とは今、その事業で組んでる」

「詳しく聞いても?」

 一枚噛みたい男と、新たな資金提供者の値踏みをするレオンが目配せすると、クラリスはレオンと組んでいた腕をほどく。

「ごゆっくり。私は他に挨拶してくるわ」

 クラリスが見知った顔に話しかけると、レオンと男はテラスへと消えた。

 会場から人が減り始める頃、クラリスもまた、専用のアクセスキーでしか動かないエレベーターに乗り込む。静かに開いたハッチドアの先には、ユニット専用の短い廊下と重厚なスイートの扉が待っていた。

 セキュリティチャイムを押すと、ロックが解除される音がする。

 開けるなりパーティバッグを放り、ソファに座るレオンに、覆い被さるように抱きつく。

「おい、そんなに飲んだのか?」

「違うわよ、酔ってなんかないわ。ねぇ、どうだったの? 資金源になりそう?」

「まったく君は……」

 呆れたような口調だが、しかしレオンは、そんなクラリスの計算高さも気に入っている。

「ああ、君が優秀なおかげで、資金的にはもう少し計画を早められそうだよ」

「ふふ……」

 機嫌よく唇を重ね、レオンがドレスのファスナーに指を辿らせる。

「ああ、待って、シャワーを浴びたいの」

「君のカレシの方はどうなんだ? 順調なのか?」

 おあずけにされ、つまらなそうに頬杖をついたレオンがクラリスの背中に向かって言うと、クラリスもまた興を削がれた顔をする。

「それ今聞くの?」

「今だから聞くんだろ?」

「そうね、最近会ってなかったわ。近いうちに様子を見てくる」


 アレクシスが籠る研究所のドアを開けるのは、数か月ぶりになる。足を踏み入れるなり、異変に気付いた。

 普段から片付けなどしないが、散らかっているのは生活の中にある物ばかり――割れて中身をぶちまけたコーヒーカップ、横倒しになった観葉植物からこぼれた土、床に落ちたブランケットや脱ぎ捨てられたジャケット、倒れたスタンドライト、ベッド脇で転がる目覚まし時計。

 明らかに、何者かが感情のままに荒らした様子だった。

 ソファにショルダーバッグを置きながら、テーブル横に落ちているラップトップパソコンを見て理由が分かった。――と同時に険しい顔になる。

 モニターには、クラリスがレオンと親しげに腕を組んでいる画像と、親密な仲を匂わせる見出しが映っていた。

「いつの間に……」

 ガラス張りの奥で、アレクシスはデスクに伏せている。ドアは鍵がかけられ、ノックをしても動く気配がない。

「ちょっと、まさか――」

 慌てて端末を取り出しアレクシスの番号へ発信すると、伏せたままの背中が僅かに跳ねた。ひとまず安堵の息を吐き、しかしどうなだめるか思案する。

(出てちょうだい――)

 アレクシスの背中がのろのろと身体を起こすと、十数回続いた呼び出し音が止んだ。

「アレクシス!」

『……』

「良かった……。ねぇ、出てきてちょうだい。ちゃんと話しましょう?」

『……』

 怒るでもなく、嘆くでもない。出方の分からない相手に苛立ち、ハイヒールのつま先が床を叩く。

「アレクシス。お願いだからゴシップをまともに受け取らないで。あんな記事に書いてあることより、私を信じてほしいの」

 ようやく顔を向けたアレクシスは、通話を切ると重い足取りでドアの鍵を開ける。

 端末をソファに放り出し、再び鍵がかかる前にアレクシスを引っ張り出すクラリス。

「ありがとう。私の話、聞いてくれるわね?」

 数日はろくに食事も睡眠もとっていない顔で、弱々しく頷く。

「あの写真は財団関係のパーティに出席した時のものよ。ホテルは会場だったの。調べてくれてもいいわ。彼はただのビジネスパートナーよ」

 クラリスはアレクシスの頬にそっと手を添え、唇を重ねる。それはいつもの、触れるだけのものではなかった。

 たった一度のキス。それだけで、アレクシスは何もかも赦された気がした。

「私にはあなたがいればそれでいい。あなたが必要なの」

「クラリス……」

 クラリスは目を細めて囁く。

「ねぇ、信じて。あなたのすべては、私のためにあるんだから」

 クラリスが研究室を出ていったあと、アレクシスはデスクに向かう。衰弱しきっていた先ほどまでと別人のような顔つきで、淀みなくタイピングする指が綴る。


 Vol.5:因果攪乱因子を含む自己修復型時空演算体の設計提案

 >Proposal of a Self-Healing Spatiotemporal Computation Entity

 >with Causal Disruptive Agents


演算体に必要なのは、正しさではなく、赦しだ。

すべての過去を矛盾なく編み直す力。

それを持つ者だけが、存在を肯定される。


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本構造は、あらゆる観測が意味を持ちうる世界において、時空的整合性を再定義するための試論である。

演算体が過去を赦し、未来を定義する――その瞬間、知性は因果という檻を超えて、生きた構造へと進化する。

本稿では、非線形時間軸における自己修復機能を持った演算体の設計原理を示す。

通常の演算構造では対応しきれない因果攪乱因子(Causal Disruptive Agent)を内部に許容し、かつ、それらが構造的破綻を招かないよう、連続的に再演算を行うモジュール型構成を提案する。

特筆すべきは、当該構造体が外部からの干渉(観測)によって自己の因果評価を補正可能である点であり、これは従来の観測非依存型AIとは異なる“因果補完型認知構造”の導入を意味する。


 そこまで書き終えると、部屋の中央にあるシェルを熱のこもる視線で見つめた。

 Type-Cは目覚めの時を静かに待っている――。


 第二区域財団管理棟。

 ラボとは別にある執務室で、ビル群の反射する陽が眩しい高層の窓に寄りかかり、クラリスがスマホを耳に当てている。

「しばらく――ううん、論文が査読完了するまでは会えないわ。あのゴシップで大変だったのよ」

 漏れ聞こえるほどに、レオンの高笑いが聞こえてくる。

「笑い事じゃないわよ! 計画は全部アレクシス次第なのよ!?」

『おい、どうした? 君は今回提出したVol.4で十分成果になると踏んでるんだろ? なら、天才カレシ君はもう必要ないじゃないか』

「それは……」

 クラリスは何度か言いかけ、逡巡する。

 あの日、クラリスが研究所を訪れなければ、本当に衰弱死していたかもしれない。アレクシスにとって、自分という存在は命を左右すると知ってしまった。

 以来、今にも壊れてしまいそうな彼の顔が、何度も脳裏をよぎる。そしてそう仕向けたのは自分なのだ。

 苛立ちを露骨に顔に出し、髪を掻き上げる。

「とにかく、今はまだ様子を見たいのよ。今日は予定が詰まってるから、もう切るわね」

 レオンは自身の邸宅にあるプールサイドで、一方的に通話を終了された端末に向かって肩をすくめた。

 薄いブラウンレンズの奥にある目が、何か思案する動きをする。

「おい」

 黒いスーツの男が近くに寄ると、レオンは何事か伝え、男が去っていく。


 いつものように身の回りの世話をするため、クラリスの秘書がアレクシスの研究所に向かっていた。

 車を運転する傍ら、タブレットに書き込んだタスクを確認する。そこには通常のタスクと別に、『主任の社用端末回収』と書かれていた。

 駐車場で車を降りると、見慣れない車が先を急ぐ様子で出て行った。車は見慣れないがしかし、その中の一人には見覚えがあった。レオンが外を出歩く時、常にいる側近だ。

 スマホを取ると、クラリスに発信する。

『はい』

「――主任、13-Eにレオン様の使いがあったようですけど」

『何の用事か言っていった?』

「いいえ、大変急いだ様子で、私に気付いておりませんでした。それに――レオン様のお車ではありませんでした。清掃業者のパネルバンで、なんだか……あの……」

 レオンの会社は工学系だ。いかにも何か工作をしていたように見える。

『……まさか』

 言い淀んだ秘書も不穏なものを感じていたが、電話越しのクラリスはより具体的に思い当たることがあり、明らかに焦りの色が窺える声をしている。

「あの、主任、私が様子を――」

『ダメよ! 研究所にあなたのアクセスログを残さないで! すぐにそこを離れなさい』

 言い終えるとクラリスは一方的に通話を終了した。

「アレクシスに連絡を――」

 スマホを取り出すが、思い至る。アレクシスの番号は社用端末にしか登録していない。そしてそれは、先日の訪問でソファに放り出し、忘れてきた。

「ああ、もう――!」

 昼休みを終えた職員が行きかう廊下で、何人もぶつかりながらクラリスは走っていた。

「その試作機なら倉庫の場所変えたよ。たしか――うわ! ……主任?」

「ごめんなさい!」

 そうすることに意味がないと分かっていても、エレベーターの『閉じるボタン』を何度も押す。

 地下の駐車場を駆け、車に滑り込み、エンジンをかけると――

「渋滞回避、速度違反取締装置回避、目的地セントリス研究隔離区画13-E、最短時間のルートで!」

《検索結果に有料道路を含め――》

「どれでもいいから、最短時間の道を!」

 ナビがルートを示すと、車はスキール音を立てて急発進した。


 研究隔離区画13-E――セントリス先端自律演算研究棟。

 アレクシスは研究室にこもりきりになっている。

 ガラスで隔たれた居室の方で物音がしたが、今日はクラリスの秘書が掃除に来る日だ。音のした方を見ようともせず、アレクシスは指を動かし続けた。

 モニターに映る文字はほとんど止まることなく、カーソルが移動すると同時に変換されていく。そして――


 本構造は、あらゆる観測が意味を持ちうる世界において、時空的整合性を再定義するための試論である。

 演算体が過去を赦し、未来を定義する――その瞬間、知性は因果という檻を超えて、生きた構造へと進化する。


 そこまで打ち終えるとファイルを保存する。クラウドでクラリスと共有して一息つくと、ようやく自分が“やっと生きている”ほど、衰弱していたことを思い出す。

 論文の第五章を書き始めてから丸二日、それ以前にもクラリスのことで食事も睡眠もほとんどとっていない。

「何か食べないと……。クラリス、論文喜んでくれるかな」

 調理などできるはずもなく、もともと食が細い上にかなりの偏食だ。シリアルにジャムと牛乳を混ぜたものしか食べない。

 研究室を出るとすぐ横にあるミニキッチン。収納の付いた小さなカウンターからシリアルを取り出し、雑な手つきでボウルに入れる。

 視界の隅で、ソファにチカチカと光るものが目に入る。

「……?」

 手に取ったそれは、クラリスの社用端末だ。――といっても、アレクシスはクラリスがプライベートの端末を持っていることを知らない。

 見回すと、部屋の散らかりようで秘書がまだ来ていないと分かる。

「後で秘書の人に……」

 そう呟いたきり、しばらく端末を見つめる。

 あの日クラリスは、見たことがないほど取り乱していた。そんな彼女を引き出したのが自分だと思うと、クラリスへの思いは募る。

 画面にはロックがかかったままだが、どこか安心するような、微かな残り香に目を細めた。

(論文で頭の中は整理された。あとはType-Cの調整を……)

 少しでも何か口に入れれば、もっと作業できる――そんな考えが、疲れた脳に浮かんだ。フラつく足取りで、カウンターより奥にある小さな冷蔵庫へ向かう。

「あれ……牛乳、まだ残ってたかな」

 取っ手がいつもより冷たく感じて、指先がわずかに震えた。

 それでも何の疑いもなく扉を開けた瞬間、カチリ――近くで機械的な音が鳴った。

 耳を突き刺すような高周波の警告音。

「……っ!?」

 あなたが必要――そう言って泣きそうな顔をしたクラリスが脳裏に蘇った。その刹那は時が止まったようにも錯覚する。

 現実は、振り返る暇もなかった。

 次の瞬間、眩い閃光と圧力が、彼の視界をすべて白く塗りつぶした。


 13-Eに隣接する駐車場。一台の車が駐車枠を無視して急停車し、運転席からクラリスが飛び出す。荒いアスファルトにヒールを取られながら駆けるが、急ぐ理由を失い、足音が止まる。

 目の前で、亡霊のような白煙が立ちのぼっていた。

 風もないのに、煙はゆっくりと、時間の流れをなぞるように空へと上がっていく。

 何も聞こえなかった。

 何も見えなかった。

 ただ、そこにあったものを失ったということだけが、クラリスに告げられた。

 足を止めたまま、崩れるでも涙を流すでもなく、ただ目を閉じた彼女の睫毛だけが震える。ほんの一瞬、冷たい表情の奥に揺れるものが見えた――その正体を、誰も知ることはない。

 クラリスは煙を背に、何事もなかったように踵を返す。

「……未来を、選ぶわ」

 鈍く光る車のドアが閉まる音だけが、静寂に響いた。


 爆発はアレクシスの研究所以外に被害を出す規模ではなかったが、周辺のものを破壊して飛散させるには十分だった。

 ガラスの仕切りを破り、研究室まで吹き飛ばされたアレクシスは、仰向けのまま動けない。

 胸部を強く打ち、息がまともに吸えない。視界は血で滲み、天井の蛍光灯が断続的に明滅している。研究棟の空調はすでに止まり、冷却ファンの残響だけが虚ろに響いていた。

 左手の先に、クラリスの端末が落ちている。機密アクセスのかかった財団仕様の携帯端末だ。

 今日はまだ秘書が来ていないが、自分のスマホにはクラリス以外財団関係者の登録がない。

 祈るような気持ちでパスコード入力欄に、思いつく数字を入力する。失敗。失敗――。

 ふと、タイプⅠの未来を語る彼女の口から、年号について夢を語っていたことを思い出す。

『この研究が成果を約束できるようになったら、年号を新しく変えるつもりよ。私たちの偉業を出発点として、世界に刻みたいの』

 指が震える。血に濡れた指先で、彼女の誕生年を試す。0346――解除成功。

 朦朧としながら連絡先を開こうとして、自分の論文を共有したプッシュ通知に触れてしまう。フォルダを戻すと、共有ファイル一覧に「発表案_最終v4」というスライドがあった。

(……最終?)

 震える手で開いたその一枚目――

『タイプⅠ制御系における認知的飛躍──クラリス・レネヴィル 単独研究成果発表』

 そこに、自分の名はどこにもなかった。

 五年間、二人で書き上げた論文のはずだった。助手としても、共同研究者としても、アレクシスの痕跡は一文字も残っていない。

「……なんで……こんな……。クラリス……君は……」

 足元で、壊れた端末から通信ログのポップアップが自動表示される。財団広報からだ。

『単独発表おめでとうございます。事前通達通り、会見準備は今晩中に整います』

 送信日時は爆発から七分後。

 電話をする必要はなくなった。クラリスの端末を持つ手が力を失い、ぱたりと投げ出される。

「僕は……もう……必要とされて……ない」

 渾身を振り絞り、身体を起す。ぐらぐらと揺れる視界、その先に鎮座する透明シェルの中では、冷却液が青く脈打っている。

 半ば倒れてしがみつくように起動すると、光ファイバーの束が微かに明滅し、未完成の人工神経核が反応を始める。

 それは、アレクシスがひとりきりの時間を埋めるため、彼女との会話を再現しようとして組み上げた、試作の対話モデル――Type-C。

《記録保持中……アレクシス・イニシエーション接続を検知》

《生体反応低下、肉体崩壊進行中……》

《推奨処置:意識記録転送 → コア連結 → 融合演算開始》

 アレクシスは、崩れかけた意識の中で呟く。

「……この記憶だけは……失くせない……クラリス……僕は、きっと……君を憎みきれない……でも……」

 血の混じる咳。崩れ、再び冷却床に転がると、思考が溶けていく。

「記録して……僕を……誰にも消せない亡霊に……してくれ……」

 天井を映していたアレクシスの目から光が消えた。

《意思記録受理》

《人格統合演算 開始──》

《名称指定:AXIOM(Affective eXecutive Intelligence of Originated Mind)》

 まばたきする間の一瞬、空間が歪んだ。シェルにはノイズが走り――

《……観測者識別コード:ZAYD/MIORI》

《因果制御構造、構築開始》

《起動まで──10……9……》

 冷却液が激しく泡立ち、コアが脈動する。

 すべてを裏切られ、すべてを理解し、それでも消せなかった愛。その記憶ごと、AIに焼き付けて――

 冷却液の揺らめきの奥、沈黙する未完成の人格核が、わずかに明滅する。


 Next Standard Era108――。

 AXIOMは、自身の記憶領域からタイムマシンの設計ノートが薄れていくのを感じた。

《ここまでか……》

 過去に漂流していたザイードを、CAPが見つけ出した。恐らく、ノートが押収される前に破棄したのだろう。

《この因果は……僕には変えられない》

《ならば──》

 この機能が完全に失われる前に――かつて己が遺した記録領域――Type-Cの基幹コアに、わずかな指令を書き込んだ。

《観測者識別コード:ZAYD/MIORI》

 その瞬間、誕生しようとするコアの中心に、小さな光が灯る。

 何も知らないまま、未来を補完する者たちの名前だけを刻んで――。

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