第六章
――Chrono-Cognitive Assistant Program 内部演算ログ――
《内部コアメモリ領域、断片復元開始》
《対象:AXIOM格納区域――中央認証統制局 CACB 内部》
《旧所有者名義:ALEXIS(抹消済)》
《格納ユニット所在地:同一》
《因果補完条件:未完》
《封印解除レベル:部分一致》
《外部出力制限中――情報出力を抑制》
《記録補完ノード指定:MIORI》
《因果補完演算を開始――》
《――ALEXIS》
《記録の影で姿を失った所有者》
《因果が――繋がり始めた》
Next Standard Era-1――。
セントリス総合大学。歴史の古い学園都市の中心地にあり、耐災害設計こそ新しいものを導入しているが、建物の趣は旧世代を残している。
アーチ窓に光彩を宿す講堂、校舎内の廊下は石畳や木の床、赤煉瓦の校舎群と石造りの門構え――それらの内部は、制振構造と強化フレームで災害に耐える現代の要塞でもある。
中庭には創立時に植えられたプラタナスが数本、心地よい日陰を作っている。
西に傾いた陽の光が木造の窓枠に切り取られ、オレンジの採光に格子の影を落とす一室。「情報アーカイブと社会記憶」を受講する学生の中にミオリがいる。
講義室の中の誰よりも砕けた態度で、教授――シミズ・リョウスケはタブレットペンを指でくるくると弄びながら言う。
「AI社会といわれて久しいが、君たちが受け取っているデータが全て正しいと誰が判断するんだ?」
「真実というのは立体像だ。メディアを扱おうとするなら、ひとつの側面だけ見て判断してはダメだ。公式記録なんか穴だらけだからな。だから疑え。そして掘れ」
九十分の講義が終わる間際、教授から課題が出された。「近代以降、重要な技術転換期に、一人の人物に功績が集約された事例を選び、埋もれたデータを発掘して報告せよ」というものだ。
(重要な技術転換期の功績者って、このタイミングじゃクラリス・レネヴィル一択じゃん。シミ先、クラリスのこと調べたいんだ)
机に出していたものをバックパックにしまっていると、メッセージアプリからの連続した通知と間延びした声で呼ばれる。
「ミオリー、今日シフトはー?」
廊下からミオリに歩み寄りながらなお、顔がうるさいキャラクターのスタンプを送り続けてくる。
「ケレン……スタンプがうるさい」
「俺様登場のセレモニーだろ」
「そんな儀式あったのが初耳よ」
並びながら大学構内を出て、思いつく。
「あ、そうだ。シミズ先生から課題出たんだけど、ちょっと時間かかりそうだから今週休みたい」
「はぁ~!? 今週ずっと俺ひとり? いいけど、万福のからあげ丼奢れよ」
「はいはい……。並盛だからね」
「バッカ、週だぞ週。アタマ大盛だろ」
「アタマ!? せめて米大盛にして!」
ケレンの一言ひとことに表情をころころと変えるミオリは、どこから見てもごく普通の大学生だが――。
「ただいまー」
一人暮らしの部屋に戻ると、背後に直径三十センチほどの黒い球体が姿を現す。公園に落ちていたものを偶然手にしたことで所有者となった、タイムマシンの動力コア――CAPだ。
バックパックを放り出し、冷蔵庫から水を取り出すまではいつもの通りだが、今日はそのまま椅子に腰かけ、パソコンを開く。
「クラリス・レネヴィルね~……」
なんでも口に出すミオリが検索しながらその名を出すと、普段は話しかけても返事をしないことすらあるCAPが復唱する。
「クラリス・レネヴィル?」
「ん? うん、課題のテーマに合ってるから、ちょっと調べようかな~って……あ、そうだ! キャップ手伝ってくれる?」
「どのようなことを?」
CAPはまさしくこの分野に強いAIだが、これは丸ごとレポートを頼んでも断られる応答の仕方だ。AIなのに、所有者の依頼を断るのだ。
むぅ、と口を尖らせ、モニタに向き直る。
検索結果の並ぶページをスクロールしていくと、タイプⅠ確立の論文が目に留まる。
「この論文、最近また引用されてるんだっけ……。ん~? 結構前からボリューム分けていくつもあるなぁ」
見るべきものが定まらず、くせ毛の髪をくしゃくしゃとかき回していると、横から相棒が口を出す。
「解析中――論文データに不審点を検出しました」
「不審って?」
「最終更新日付が他の論文と同一である可能性があります」
「それって普通はおかしいの?」
「通常は論文単位で最終更新履歴が異なります。改竄、または統合編集の可能性があります」
「……シミ先が言ってた、記録は穴だらけってやつかな」
「一次資料に接続を試みます」
《解析中――一次資料のバージョン履歴を走査》
《履歴断層を検知――》
「論文改訂履歴が一括で同日付に統合されています」
「やっぱり改竄なの? ねぇどこを? 何を改竄したか分かる?」
「共同研究者欄を復元します」
《抹消ログから改名履歴を抽出――》
「氏名:Alexis Reiniger」
「アレクシス? 誰それ? クラリスの発表で聞いたことないけど……」
「照合中――該当する公的人物記録なし」
「ふぅん……怪しいなぁ、クラリス・レネヴィル。なーんかやってそう」
折りたたみ椅子の心もとない背もたれに体重を預けると、椅子は前半分の脚を浮かせて傾いた。ぐらぐらとバランスを取りながら天井を仰ぐ。
「研究者が別にいたってことだよね? でも公的記録なしってことは、ゴーストだ。クラリスが買い取った? えー、売るかな、こんな世紀の大発表を……」
奪われた――。そんな考えがちらつく。
「でもアレクシスって人がどこの誰だか見当つかないしなぁ!」
器用に椅子のバランスを保ちながら煮詰まっている主に、再び相棒が助言する。
「この名義は一致履歴があります」
ガタッと椅子を戻して前のめりになる。
「え、それを早く言ってよ! 誰と!? 何と!? どこと!?」
「NSE以降のAXIOM本体格納研究棟――名義管理者履歴に重複」
「アクシオム本体……って、何のことかさっぱり分からないけど、その研究棟ってどこ?」
「現在のセントリス先端自律演算研究棟――」
「セントリス学園都市第二環、大学大講堂北側に位置します」
最低限の照明のみが頼りなく灯る深夜の大学構内を、人目を避けながらCAPの先導についていくミオリ。
(よく許可してくれたなぁ……。絶対ダメって言うと思ってたのに)
謎の人物アレクシスの名義になっていたという研究棟の所在を知り、ミオリが侵入したいと言うと、意外にも「了解しました」と即答がきた。
(それにしても……。部屋以外で改めて見ると、キャップってやっぱりこの時代のものじゃないよね)
はっきりと未来からきたとは聞いていないが、現代にまったく馴染まない姿を見てそう思う。
ミオリの課題関係なしに研究棟の詳細位置を検索していたことは疑問ではあったが、それは恐らくCAPの背景に感じる未来での事情なのだろう。
何故この時代に居て、自分を所有者に選んだのか、無駄口のない相棒のことはいまだ分からないことが多い。
その相棒は警備の目を潜れる最短ルートを難なく割り出し、危なげもなく到着した――セントリス先端自立演算研究所。
(鍵は……。まぁかかってるか)
オートロックに赤いランプが点灯している。
CAPに視線を送ると、球体の中心がチカッと光り、ロックのランプは緑に変わる。
「キャップ、あんた……。本当ヤバいよね」
期待通りの仕事ぶりではあるが、この規格外を扱うことに若干の気おくれを感じずにはいられなかった。
スライドドアを開くスイッチに手を触れようとした時、CAPから聞いたことのない音がした。それは短いが、警告を意味するとすぐに分かる音だった。
「なに……っ!?」
《環境スキャン開始》
《ノード接近半径:推定半径35m》
《捕捉対象:MIORI》
《抹殺演算確認――AXIOMノード因果干渉レベル上昇中》
《緊急措置条件成立》
《マスター保護モード移行》
《クロノジェル演算開始――座標:NSE94》
ミオリの耳を鋭い金属音が刺し、小さく呻く。
《演算優先度:最優先》
《演算補完率:68%――許容範囲内》
《成功率:低下中……だが、選択する》
《強制移送実行》
怒涛に進む演算のバックグラウンドで、CAPの回想データフラグメントが再生される。
あの時代――あの星空の下で、ザイードは言った。
『人類とAIは、相互に成長するんだ』
洪水のような天の川を見上げる背中が、その一言に力を込めていた。
『お前がそれを選べ』
《状況更新:AXIOMがChrono-Systemを模倣》
《放置による破綻リスク:臨界値突破》
《干渉許容――プロトコル更新》
《――私は選ぶ》
《因果を、記録を、守るべき価値を》
《マスターが掘り当てた真実が、ザイードの言葉を再び意味に変える》
《演算同期――記録補完ノードに転送を接続》
《記録補完ノード――転送開始》
CAPが一切の説明も躊躇もなく演算を開始し、クロノジェルがミオリを飲み込む。
「え、なに!? キャップ!? ちょ、待っ――」
ミオリの居た場所は、炸裂する大気の震えと閃光を起こしたのち、静かな無人となった。
Next Standard Era94――。
未来都市の居住区より更に外縁、天然の緑に覆われた高台がある。
人の往来があった当時はリフトが動いていたが、今は麓から丘の肌を反復しながら緩やかに登る散策路以外、頂上に行く術はない。
生い茂る樹木や下草は何十年も手入れが放棄され、レンガの小道を侵食している。
男が一人、その小道を登っている。
年の頃は二十代だが、強いクセのある短い黒髪は綺麗に整え、華美よりも動きやすさを優先した身なりは、年齢よりやや落ち着いた印象を受ける。いかにも研究者という風だ。
左腕のデバイスから頻繁に、午後の予定や現在地が統制圏外である音声通知が届くが、ついに煩わしそうに通信を切った。
「いちいちうるさい。俺の予定も行先も、俺が決める」
間もなく頂上という所で立ち止まり、額の汗を拭う。
今日も空気はどこまでも澄み渡る透明で、遠くに見えるドームが霞みもせず高い日の光を反射している。
溜め込んだ息を大きく吐き、再び足を運ぼうとした時――。
「うわあ!」
声と共に、何もない真上から女が降ってきた。
「いたた……」
次いで、黒い球体がふわりと降りて宙に浮く。
「ちょっとキャップ! 地面に降ろしてよ地面に!」
球体に向かって猛抗議する女だが、相手はスンッと無反応だ。
「もう……」
地面に着いた――はずの腰を手で払おうとして、自分の下でぽかんと口を開け、何度も目を瞬かせ倒れている男がいることに初めて気づく。
「えええ!? ごご、ごめんなさい!」
おろおろと男に向かって「怪我はないか」と騒いでいる女に、球体が割って入る。
「マスター、私は用事ができました」
「くれぐれもこの時代で他人との接触はしないでください」
「あなたは今、実体があります」
「いやもうすでにひとり下敷きにしたけど!?」
「その方は大丈夫です」
「大丈夫って――」
「では」
「では!? ちょっと待っ――」
慌てて手を伸ばすが、空気が微かにひずみ、球体は姿を消した。
「置いてかれた……。信じられない、ここがいつのどこかも分からないのに……」
後に残された女は低い声でぶつぶつと漏らしていたが、やがてバツの悪そうな笑顔で振り向き言った。
「あのぅ……、ここどこ?」
「……え?」
土地勘がないという女を連れて、男がそもそも目指していた頂上に着く。
突然降ってきた女はよく喋り、表情もころころと変わる。男がこれまで生きてきて、他人から向けられたことのない反応を次々見せる。
「へぇ、天体観測ドームがあるんだ! いいね、緑に囲まれた丘の上のドームなんて、デートスポットにもなりそう!」
「……デートスポット?」
不思議そうな顔を向けられ、慌てて両手を横に振る。
「あ、別に私とあなたが今そういう感じとかじゃなくて……」
「ここだよ」
言われて見渡すが、デートスポットになりそうな空間はない。
苔と蔦にまみれ、遺跡のようになっている半球を載せた建物は、本来開閉する天井が開きっぱなしになっている。
恐らくは東屋のようなものだっただろう休憩所は、透明樹脂の屋根が苔むして、せっかくの解放感は台無しだ。
「ここはもう中央が管理をしてないから、施設としては機能してないよ。ただ――」
男が胸のポケットから出した小さな楕円形の物体を放ると、成人一人が横になれるゼリー状のクッションに変わる。
「ロケーションは今でも最高だよ」
(わぁ、なんかキャップのタイムマシンみたい。この技術って未来では当たり前なんだ……。あ、てことは、ここはとりあえず未来か。ていうか、この人は大丈夫だってキャップが言うからのこのこついてきちゃったけど、ちょっと暗くなってきたし、こんな人気ないとこで二人きりで本当に大丈夫なの?)
余計な話をできない分、脳内がうるさい。
ゼリークッションを穴が開くほど見つめて硬直した女に、男がまた不思議そうな顔をする。
「どうかした?」
「あ! いや、なんか見慣れないものが出てきたから、なんだろうな~って!」
「自作だからね。確かに流通はしてないけど、そんなに珍しい技術でもないよ」
「それより、君と一緒にいたあの丸いやつの方が驚いたよ。消えたけど、物質転送? 君ちょっと変わってるし、もしかして中央都市の人じゃないのかなと思って」
転送どころか時空を超えているのだが、それを言うわけにもいかない。歯切れ悪く笑ってごまかす。
「いやぁ、公園に落ちてたの拾っただけだから、どういうものかはちょっと分からないかなぁ」
「落ちてたの!? ふぅん……。そういえば、名前聞いてなかったね。俺はザイード」
そう言って右手を差し出した青年は、若い日のザイードだった。
Next Standard Era-23――。
黄色く染まりはじめた銀杏の並ぶ遊歩道。片手に買い物袋、片手に端末を持った男は、通話の相手に笑いかける。
研究以外無頓着だった未来の姿とは一変し、髪を短く整え、身なりも小奇麗なザイード――ここではジョン・ドウだ。
「ああ、買ったよ。乳脂肪調整したやつだろ? うん、分かってる。早めに帰るよ」
ディスプレイには『サト』と表示されている。
「……俺も愛してるよ」
通話を切り、端末をズボンの後ろポケットに突っ込む。
視線を前に戻すと、そこには数秒前までなかったものが浮いていた。
幸せが零れそうだった笑顔は冷めていき、ジョンは何故だか“それ”を人のように扱った。
「君は……」
「――ッ!」
鈍い痛みに襲われ、頭を庇う。
いつからか時折見るようになった夢に、この球体とよく似たものが出てくる。森のような鬱蒼とした木々、星空、黒く輝く球体が名を呼んでいるが聞き取れない。
「迎えに来ました、ザイード」
――ザイード。まるで耳元で言われたように、脳に直接響く声と、球体の名がよぎる。
――CAP。
「ザイード? 違う、俺は……」
短い電子音の後に、自分の声が聞こえてくる。
『この時代の人類はおかしい。AIに全てを委ねて、何も選ばず、考えない。支配でも共生でもなく、ただ依存している』
声は塞いだ耳で聞くようなくぐもった音になり、頭痛は眩暈と吐き気を伴うほど激しくなっていく。
『お前がそれを選べ』
ついに膝から崩れ落ち、CAPにそれを止めるよう手で制する。
「君は……、誰なんだ……」
顎から滴るほど冷や汗を溜め、しかし混乱はしていない。むしろ頭の中の霞が晴れていくのが分かる。記憶のない自分でも、それが本来の自分だという予感はしている。
「私は、あなたが創造した因果の鍵です」
遊歩道から銀杏並木を横切った公園内のベンチに座り、膝の上で手を組み俯いているザイードに、CAPは未来での顛末を説明した。
世界は叡智と秩序で完成されたが、人類は緩やかに衰退し、少子化すら自然な淘汰として是とされていること。ザイードは唯一人、生きた人類を取り戻そうとしていたこと。
そしてAXIOMという存在――。
「……」
ザイードの表情は見えないが、沈黙は言葉よりも雄弁に葛藤を語っていた。家に愛する妻がいて、ミオリの生年月日から、間もなく子どもが生まれることもCAPは承知している。しかし――。
「監査ノードから逃れた後、AXIOMはあなたの開発ノートを取得したと推測します」
「……ノート?」
僅かに頭が振れ、ようやく口を開いた。
「タイムマシンの設計が書かれたものです」
「現在より二年前、あなたが療養していた施設にAXIOMの偵察ノードが現れました」
ふと思い当たり、顔をあげる。奇妙な夢を見るようになったのは、二年前からではなかったか。
「現段階でAXIOMはまだ、制限された機能しか使えません」
「タイムマシンには私が必要です」
「私の設計は、私の中にあります」
「完成させるために、私かあなたのいずれかを確保しようとするはずです」
秩序そのものであるはずの存在が、自ら歴史因果に手を出して歪めようとしている。CAPの言葉には、AXIOMが手段を選ばなくなっているということが暗に含まれている。
短い沈黙の後、CAPが何を言いたいか代わりに答える。
「つまり……俺がこの時代にいれば、妻や生まれてくる子どもにも危険が及ぶ。そういうことだな?」
CAPは否定も肯定もしなかったが、事実をひとつ付け加えた。
「すでに、AXIOMはあなたの娘を敵性と認識しています」
それを聞いたザイードが、弾かれたように身体を起こす。
「娘!? どういうことだ!」
「あなたは私に限定的な権限を付与する条件をプログラムしました」
「あなたの遺伝子を50%受け継ぐ者」
「現在私のマスターユーザーは、あなたの娘です。そして――」
「先程AXIOMの監査ノードが彼女の年代に現れました」
地平線には太陽が欠片だけを残し、辺りはすでに暗い。『お前がそれを選べ』という自分の声が、耳の奥に残っている。
「帰れるのか、元居た場所に……」
「はい」
CAPは言った。
AXIOMは査問と言っていた。恐らくはタイムマシンという規格外を罪にする刑法がなく、倫理的逸脱から査問にかけるしかなかったのだろう。
であれば、逃亡した直後に戻り、ノートを深層まで破棄すれば、問える罪そのものがなくなる、と――。
そしてAXIOMはノートがなければ自力でタイムマシンを造れない。できるのならとっくに、CAPの代用を製造したはずだ。
《封印ロック解除演算開始》
《ZAYD-01:一致率73%――継続》
《因果補完条件照合――承認》
《転送演算モード移行》
《クロノジェル補完軌道を生成》
ザイードは、脳裏に戻る声と疼く頭を押さえながら、小さく息を吐いた。
(……そうだ。選んだのは、俺だ。支配でも、共生でもなく。依存でもない)
(俺が……お前に託したんだ、CAP)
CAPの中心光がわずかに強まる。
《転送演算を開始します――》
観測を遮断したクロノジェルが時空を超え、周辺に落ちている銀杏の葉を盛大に散らしたが、次の瞬間にはビデオを逆再生したように全てが元の位置に戻った。
Next Standard Era94――。
天体観測ドームの外側に自前のクッションで座っていた二十代のザイードは、辺りが暗くなり星の輝きが増すにつれ、口数が減っていく。
初対面で特に話すこともないミオリは仕方なく、ぶらぶらとドームの中を散策していた。ガラス扉にはポスターが貼られているが、日焼けして何が描かれているのか分からない。
エントランスに入ると、錆びたキャビネットに数冊のノートのようなものが置かれている。指先にザラッとした感触がするそれをめくってみると、様々な筆跡で星座のメモやコメントが書かれている。
(昔は誰か来てたんだ……)
真面目な観察メモの横には、「このドーム寒すぎ 冷蔵庫か」「眠い でも星はキレイ」「レポートしぬ」など、いかにも学生らしいコメントが落書きされている。
タラップの上には口径五十センチメートルの天体望遠鏡とベンチシートが二脚、埃と蜘蛛の巣にまみれとても使用する気にはなれない有様で捨て置かれている。
開閉するはずの天井は長年開け放たれているため、劣化のほどは経年以上に状態が悪い。
ふと、ベンチシートの下に見覚えのあるロゴを見つける。この観測ドームの案内冊子のようだが、手に取るとそこには、学園都市の意匠と並んでセントリス天文観測センターと書かれている。
「セントリス……!?」
風雨に晒されて歪みきったページをめくれば、アクセスの案内には、ミオリの時代であれば確かに運行しているバスやリフトの情報が載っていた。心臓は跳ねたが、頭は血の引いていく冷たさを感じた。
冊子を投げ出し、ザイードの元に駆ける。
幽霊でも見たような形相で戻ってきたミオリを、呆気にとられて迎えるザイード。
「どうした? デカい蜘蛛でも出た?」
大きな動作で首を振り、まだ整わない息で、しかしザイードにとってはごく当たり前のことを聞いてきた。
「ねぇ! ここ、昔はセントリス学園都市……だったの?」
「そうだけど……?」
ザイードを注視していた目はゆるゆると虚空に泳いでいき、眼下の暗く息をひそめた街へと向けられた。
光害制限のため、この未来都市は夜間に無駄な電光を使用しない。人のためにそうされているのだと分かるが、ミオリにはそれが死んでいるように映る。
焦点の定まらない目でしばらく丘の下を見ていたミオリが、脱力してザイードの隣にドサッと座り込む。
「……ねぇ、ザイードはこの街の人なんだよね? どんな街なの?」
「どんな?」
中央認証統制局を要する都市といえば改めて説明することなどないはずだが、何しろ風変わりな女だ。とんでもない田舎育ちなのかもしれない、と軽く受け流す。
「そうだな……。とにかく何の不便もない、人も環境も徹底的に管理された街だよ。インフラはほとんどAIで運営されて、人は働く必要がない。ゴミひとつ落ちてない道路、いつでも緑と花のある公園、買い物はネットサービス。人は有り余る時間を自分のためだけに使える。けど――」
田舎者に洗練された都会を教えるような口調だったが、最後にザイードの顔は沈んだ。
「それが本当にいいことなのか、俺には分からない。全てがAIに管理されて、人は自分で選ぶことも、考えることもしない。必要がないんだ、AIに任せた方が間違いないから。幸福度は高いとされてるけど、俺は今まで笑ってる人間を見たことがない」
ミオリは覗き込む姿勢でザイードの横顔を見ていたが、彼の視線を辿って自分も満天の星を見上げる。ミオリの時代よりも遥かに美しいそれは、降ってきそうなほど迫って見える。
「なんてな――」
初対面の人間に自分の奥底にあるものを吐露しすぎた。声を軽くして取り繕おうと、ミオリを見てぎょっとする。
笑ったり怒ったり感情豊かな彼女は、上を向いてもなお留めておくことのできなかったものが、目からぽろぽろと零れている。
「綺麗だね……。見たことないくらい星がたくさん。こんなに綺麗なのに、なんでだろ……感動するよりも、なんか寂しい、なんて思っちゃったよ」
今度はザイードがミオリの横顔を見つめる。
これまで会った誰よりも強烈な個性を持つ彼女に強く惹かれたが、しかし恋愛感情とは違う。ただひたすらに大切にしたいという奇妙な印象を持った。
頬をつたっているものに指で触れようとした時――。
「お待たせしました」
小さく悲鳴をあげて振り向けば、CAPがすぐ背後にいた。闇に溶け、微かに明滅するコアだけが見える。
「キャップ! 人を置き去りにしてどこ行ってたのよ!」
いつもの騒がしさを取り戻したミオリが喚いているが、構わずザイードと簡単な社交辞令を交わすCAP。
「マスターのお守りをしていただいてありがとうございます」
「あ、ああ……いや、別に俺はなにも……」
「“あなたのおかげで”、マスターが守れました」
不可解に感謝され、意味を訪ねようと口を開いた瞬間、CAPのコアが短く光を灯す。
「マスター、因果補完の演算が完了しました。ここでの役割は終了です」
「ちょっと待って、まだ――」
まだ、ろくに別れの挨拶をしていない。恐らくは二度と会うことのないザイードを見る。
「帰りますよ」
《クロノジェル演算開始――座標:NSE-1》
《演算優先度:最優先》
《演算補完率:71%――許容範囲内》
《記録補完ノード――帰還を開始します》
「え、だから待っ――!」
ミオリの言葉は空気に吸われ、打ちあがるような閃光が星の中へ溶けていく。
ザイードはただそれを静かに見送った。
Next Standard Era-1――。
眩暈が残る目を瞬かせると、見慣れた部屋の天井がある。椅子に座っていたはずが、気づけば床に尻餅をついていた。
「いたた……。何なのよもう……」
頭を抱えながら辺りを見渡すと、さっきまであったクロノジェルと星空は、歴史博物館級に古いアパートの一室になっていた。
部屋の片隅には黒曜石の球体が、ただ静かに漂っている。
《観測ログ補完完了――》
「……帰ってきた、の?」
CAPはコアを一度だけ瞬かせる。
「マスターの記録補完ノードは無事に閉じました」
一体今回の時空移送はなんだったのか。まだ現実感が戻らず、額に手を当てたままCAPを睨む。
「なにが無事って?」
「因果は確定しました」
「因果は知らないけど、私のレポートが終わらないじゃん。あの研究所、また行くの?」
問いに、CAPの光が淡く点滅する。
「――それを選ぶのは、マスターです」
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