キチガイ

 浸るのをギリギリ食い止めたところで、いきなり、やはり自分は人間なんだナ、とヒシヒシと感じることができる出来事が起きた。眠気が襲ってきたのである。自分が飛び跳ねた時は、時計をジックリ見るほどの心の余裕さえなかったが、その時計を見ずとも、自分はホントウに短い夢を、それがよりによってあんな内容の濃い、途方もなく感じる夢であったことを思い出した。その時の外の明るさは、全くもって寝た時と同じであったから、そうそう眠ったのは長くはないと思ったのだろう。しかし、さすがは特大の欲求だけあって、凄まじい威力だった。でも、もう自分も、諦めの心がついたので、流れに身を任せることにした。

 目を瞑って、かなり長く経った頃だろうか、外からカァカァとカラスが嘆く声が聞こえた。そのほかにも、その脅威から逃げなければと奮闘する小鳥の甲高い声も聞こえ始めた。と、思ったら、また深い静寂の沼に堕ちて行った。

 目の奥に光が見えた。ジリジリと、眼球一面を焼き尽くすほどの鋭いものだ。サッと目を開けてみると、カーテンのわずかな隙間から漏れ出た、光明が、列を成していた。そこから神秘を感じているうちに、自分の部屋の玄関のドアを、これまたガチャガチャと弄る音が聞こえた。

 俺は瞬時に、これは駒宮だな、タブン起こしにしたんだな、と直感した。目をキッパリ見開いて、時計をふと見てみてみると、もうすぐでお昼になってしまう頃であった。しまった、こんなにも流れに身を任せてしまったのか。

 そして、ドアを開け、ドシドシと、わざと鳴らしてるのではと思えるほどのデケェ足音と共にやってきたのは、組長との面会の時、その組長の隣にいた、それはそれは優秀そうなアイツだった。そして頭を地べたにくっつけている俺を、覗き込むように見てきた。

 「おい三沢ァ、仕事やァ。」

 そう喋った。そう野太い声で言われた。俺は急いで身体を持ち上げた。自分として、身体を倒したまま目上の人の話を聞くのは申し訳なく感じたからだ。そのまま全身を持ち上げ、立ち上がった。そして言われるがままついて行った。またドアを開け閉めし、錆びた廊下と、階段をこれまた軽快な朝の調子で、パッパと進み、道路も渡った。そして銀行へいざ侵入した。

 入店して、やがて落ち着いた頃に、ようやっと向こう側から話し始めた。しかし歩行はやめなかった。

 「そういや、名前、言ってなかったな。俺ァ、坂倉っちィます。ほんで組長は、我らが中村組の、中村武という男です。」

 「ア、よ、よろしくお願いします……。」

 まともに会話ができてよかったと思い、すこし心が開いたかと思いきや、ついには坂倉がどういう人柄なのかはわからぬまま、また先程のようにダンマリになってしまった。そのまま、以前のように支店長室に近づいた。

 「失礼します。」

 そう言って、今度は何が起こるのかと、疑いの目を持ちながらゆっくりと入って行った。そこにはやはり、後ろの窓からの逆光によって輪郭をハッキリと残しながら鎮座していらっしゃった、組長の姿があった。しかし、駒宮の姿はなかった。そして、こう喋ったのであった。

 「キサマを今日呼び出したのは他でもねェ、初仕事のためや。」

 「は、はァ。」

 「まァまァ、そう焦らんでもえェ。初仕事っつっても、いきなり怖ァいことをやるんじゃねェよ。俺らが頼みたいのは、キサマにちとついてきてもらいたいんや。」

 「ついていく???」

 「そォヤ。実はな、今日っちゅう日は俺らと昔っから友好な関係ェにある西本組っちゅう仲間と、久しぶりの会食なんやァ。まあ、取引も兼ねてや。キサマには、それに同行してもらってやな、それが良い見学になるってこっちゃ。ハッハッハッハ。」

 中村組長は、大笑いした。俺がまだ新人の香りがして、可愛く見えたのだろうか。あるいはトテモ馬鹿々々しく間抜けに見えたのだろうか。

 ここで俺は、純粋な疑問を抱いたので、そっくりそのまま問うた。

 「あのォ、駒宮さんは、今どちらに。」

 組長は坂倉に、話してやれいと言わんばかりのハンドサインを送った。

 「駒宮は、ただ今出ております。なんせ今回の会食の舞台は、毎度お馴染みと言っても過言ではない、駅から駅へと跨いだ先からほんのちょっぴり離れたところにあります、”雪市”という名の居酒屋でありまして、駒宮などの部下がまず先に、様子見として早めに出ているわけでございます。さらにこの”雪市”という居酒屋は、先祖代々西本組が、資金支援などを行い、長年良好な関係にあるものでありまして、実質西本組の経営と言っても過言ではありません。なので我々は一際敬意を忘れずに接しなければならないのです。しかしこのお店も先祖代々遙か昔から続いておられるもので、味はとてつもなく美味しいのですが、駐車場がバカ狭いというゴミ物件となっておられます。ですから我々のドでかい車は使わず、密かに電車に乗って移動する、という手筈になっているわけです。」

 ここにきて坂倉が一心不乱に長台詞を吐き捨てた。しかし意外にもここまで喋るヤツだったのかと思った。次に組長の台詞がきた。

 「よう言うてくれた坂倉、よし、ほんなら、もう少し時間経ったら出るから、準備しときいや。」

 「は、はい。」

 また不慣れな返事をし、今度は坂倉にまたもや案内された。支店長室を出て、次に向かったのは、更衣室であった。ふと足を踏み入れてみると、今は皆働いているからか、誰一人いなかった。これもまた、ただ細長いロッカーが立て続けに並んでいるもんで、無機質さを感じられるものだった。そして、坂倉はこう喋った。

 「このスーツに着替えて、準備して。」

 と言って去ろうとしたところを、俺は食い止めた。よくよく考えたら、昨日から俺は風呂に入られていないことに気づいたからだ。だから、こう聞いた。

 「あの、シャワーってありますかね。」

 「シャワーに行きたいんか、だったら自分の部屋でやっとくれ。」

 俺は急いで、貰ったスーツを抱えながら、自分の部屋へ走った。このまま遅れて、会食に遅刻しようものならなんと言う文句を言われるか分からない。そう焦りながら、道路を渡り、錆びた廊下を走り、部屋に入った。

 そして、イッキにシャワーの水を出して、一切の全身を濡らした。こうして温水に包まれてみると、今まで感じてきた不安や威圧を一挙に排水溝に捨てている気分になり、すっかり幸福に満たされていった。しかし長居はしていられないので、ここくらいでシャワーを止める。

 次に、またイッキに身体を拭き上げてしまおうと思い、髪の毛から足の先までの水気を丁寧に振り払ってしまった。そしていざスーツを着て、鏡の前まで行ってみると、これまたなんとも似合っていた。まさに刑務所から出てきた廃人とは思えない、律儀さを感じる人であった。

 身だしなみを完璧にしたところで、また錆びた廊下を走り、道路を渡り、銀行に入り、支店長室まで戻ってきた。逆にここまで急ぐことができたのは、自分としても信じ難いくらいであった。そしてドアをコンコンコンと、三回ノックをし、いかにも生真面目な社会人を演じた。社会に出たことのない俺が、社会人を装えるか心配であった。こういった自分の礼儀とかが、しっかり成っているかが心配になってきた。

 「戻りました。」

 と、ハキハキとした喋り方で入った。

 「おォう、なんかァ、見違えるほどになったのォ。そんだけしっかりしてりゃあ、大丈夫や。」

 この言葉から安堵を感じ取り、肩の荷を下ろしたところで、いきなり電子音が鳴り響いた。支店長室自体、中は静かなものだったので、俺は肩が少しビクッと上がってしまった。組長に電話がかかってきたのである。組長はそれに応えるべく受話器を勢いよく、バシッと掴み、持ち上げた。

 組長が耳に受話器を当てても、ほんの少し漏れ出る声が聞こえたので、俺はそれを盗っ人の如く、注意深く耳を立てた。ん、どうやら駒宮の声らしい。しかし、何なのかは全くもって聞き取れない。

 組長はというと、平生の調子とは違う、顔の筋肉がこわばったような感じに、みるみる変化していった。俺はそれが一体何が原因で起こっているのか、何も分からずにただ組長を見つめていた。

 しばらくして、組長はこう喋った。

 「あゝ、わかった。ほんなら少し待っとれい。くたばるなよ。」

 かなり低い声で、覚悟を決めたかのような喋り方であった。俺にはその、くたばるなよという台詞がどうも引っかかった。この世界では身近な人が簡単にくたばってしまうようなものなのかと、一種恐怖のようなものを感じた。それと単純に、駒宮が今どんな状況にあるのかが知りたくなってきたので、次に組長が口を開くのを、極度に集中して待った。

 「よし、オメェら、急ぐぞ。坂倉、車出せェ」

 「へいッ」

 そう二人が一気に、威勢を良くして喋った。組長は下ろしていた腰を、机を手で思いっきり叩くのを良い都合に、スルッと上げた。それでいて、椅子に掛けてあったロングコートを一瞬で翻して、我が身のものにした。俺も何かと足を動かさなければならないと思い、それを見た後にそそくさとついて行った。

 こうして支店長室から出た。坂倉の次に組長、その次に俺といった順番で、流れる様に出た。次に従業員のスペースを通り抜け、出入り口を通り抜けた。それから、左に方向を変え、駐車場の奥に見える黒塗りの大きな高級車へ向かった。陽の光を綺麗に反射していたそれは、揺るぎない絶品を思わせるものであった。その光に導かれるままやがて近づき、運転席に坂倉が乗り、その後ろの広い座席に組長が先に入り、その隣に俺が座るといった感じになった。

 急いでエンジンを蒸した坂倉は、ハンドルを思いっきり回転させ、車を乱暴なまでに発進させ、駐車場から出た。その次に、組長が喋った。

 「おい、更田駅だ。」

 「へい」

 駅の名前を言った。オヤ、“雪市”とかいう居酒屋ではなく、駅なのか。ここで俺はこう言った。

 「あのォ…、なにがあったんでしょうか。」

 組長はいつになく渋い顔をして、俺の方をチラリと向いて、口元を少々モグモグしてこう喋った。

 「あゝ、そうや。言うてなかったナァ。実を言うとな、駒宮が今危ないんやワ。さっき、俺ァ達は電車使うて向こう行く言うたやんか。でもな、駒宮の乗った電車に、何やらキチガイがいるって言うんだよ。それで俺もどういうことやって言おうと思ったんだが、言うにはキチガイとやらが発狂をして、車両を占拠していて、さらには気に食わないヤツを片っ端から殴って、引っ掻いて、壊して、暴れているっていう状況らしいんダ。正直俺も理解ができなかったんだが、その次の瞬間に、駒宮の酷く殴られる声が聞こえたんや。それで俺ァ行かなきゃならネェと思った。その後に、ホントウに掠れた声で小さく更田駅と言ってくれたから、くたばるなよって言ったんだ。」

 なんということだ。ここまで酷くて残酷な状況に駒宮がいるのかと、このままじっとしてはいられない気分でいっぱいになってしまった。とにかく急がなければならない。俺は運転する坂倉の様子を見ながら、どうしようどうしようと、焦りと不憫の混合する心を持ち続けた。見た感じ坂倉も大真面目に、カナリ本気な様でアクセルを踏んでいた。

 しかし、そのキチガイとやらは、どのような風貌、性格、心持ちなのだろうか。俺はふと思考をキチガイへ向けた。組長以上に、キチガイに対する疑問が湧いて出て来た。

 気に食わないヤツを片っ端から殴って、引っ掻いて、壊して、暴れている、という言葉を聞いた感じ、何やらその暴力性、異常性、狂気性は俺と似るものがあると思ってしまった。その様なキチガイが、まさか俺以外にいるのか、などと失礼ながら興味が湧いたような感じになってしまった。俺以外に、そういった輩が出没するなら俺は、圧倒的な敬意を持って接したいと思ってしまった。

 幾らかそういう思考を巡らせ、外では景色が走っているうちに、駅を跨いだのがわかった。その時は、オソロシク速いスピードに見えた。そして、そう経たないうちに坂倉が口を開いた。

 「もうすぐです。」

 組長の返事が来た。

 「おう、わかった。」

 いよいよそのキチガイをこの目で捉える時が来たようである。坂倉は車を広い道路から、右側にハンドルを切り、即時に車を駅へ通ずるロータリーへと侵入させてしまった。その運転技術といったら、手慣れているものである。そしてブレーキを踏み、車を停めた。

 ここでようやく、三人とも一斉に車から飛び出して、クールさなんぞとっくのとうに忘れて、派手な様子で走っていった。そのわずかな時間で、俺はふと周りを見渡した。普通のロータリーであるが、よく見ると人の流れが堰き止められている。それも警察らしきヤツらの手によるものであった。さらに、道路の方まで視線を動かすと、これまたパトカーが何台も止まっていた。

 俺はこの時、このキチガイとやらが、只事じゃ無いほど壮大で厄介なものなのだと自覚させられた。そうして視線を元の方向へ戻し、駅へ侵入した。

 改札も階段もすっかり潜り抜けて、プラットホームまで足を運ぶや否や、そこへ侵入させないようにする駅員やら警官やらがまたもやドサッと押しかかって来た。

 「コラコラ君たち、ここへは入れないのだ。話は聞いているだろう、キチガイみたいなヤツがいるから、危ないヨ。」

 しかし俺らはそれらさえ無理矢理押し退けて前へ進んだ。侵入した先には電車が一編成、ドアを開けないまま佇んでいた。ドアを開けないのはおそらく、中のキチガイを外へ逃がさないようにするためであろう。

 ここで俺は、声を聞いた。それも、平生な普通人からは聞き取ることの無いような、発狂であった。俺はそれがキチガイのものであるとすぐにわかった。そこで組長は、瞬発的に、我が道を往くが如く、ロングコートの裏に隠してあった拳銃を取り出した。

 —バン…バン、バン……—

 その焦点を電車の開かずの窓に向けて、素早く二、三発撃った。

 俺はその破壊力のある音を聞いて、このような状況にハッとさせられたが、あるいは反射的に、目の前のヒビの入った窓を破ろうという衝動に駆られ、坂倉と一緒に拳を差し出して、窓に一発をかました。そうして、窓は悉く破れてしまった。そして三人とも一斉にそこから電車内へ侵入した。

 さてそれから周りをよくよく見渡してみるも、ここの車両はガラガラで、キチガイの姿も、駒宮の姿も無い。ここの車両では無いようである。そう俺たちは判断した。その次にはまた、キチガイによる、キチガイじみた発狂が聞こえて来た。俺たちはその声のする方向へ進んだ。入ったところから左へ身体を向けて、そのまま歩き、車両を一つ跨いだ。

 いざ連結部を越えると、目の前には、これまた残酷極まりない、荒々しい光景が広がっていた。しかし、俺たちはそれが目に映ってもクールさを装った。

 その光景というのは、まさに通常の車両の床、壁、椅子、ありとあらゆるものに血飛沫がかかり、一般人が薙ぎ倒され、そこから少々奥へ視線を向けると、まだ息のある、ヒクヒクと動き、口と鼻から血を流す駒宮の姿があった。そこからさらに奥には、この行為の主犯であるキチガイがポツンといらした。それも、何やら乙女座りで、身体の力が抜け切って、顔に関してはもはや涙がポテポテと出て来ていた。その涙は怒りによるものか、悲しみによるものか、あるいは両方がかけ合わさった複雑なもののせいなのか、俺は思考を巡らせた。

 俺たちはまず、駒宮を助け舟へ乗せてやるべく近づこうとした。そうした瞬間に、先程までジッとしていたキチガイは、大きく目を見開いた。涙を流す、哀れな瞳が一瞬にして消え去った。そして何やら身体をブルブル振るわせ始めた。痙攣に見えた。身体中に力が入っていくのが見てわかった。次にはもう息を深く吸い込み、そしてまたもや狂気じみた発狂をお披露目した。耳が痛くなるほど、嫌な響きを持っていた。どうも言語のようには聞き取れない。

 「………あァァァあああ!………、ああああああああああああァァァァァァァァああ!?!……。」

 組長は、絶えず進もうとする俺たちを手で抑えて、まだだと言わんばかりガードした。次の瞬間、キチガイはついに立ち上がり、俺たちを目掛けて突進して来た。それも、発狂しながらである。

 キチガイは右手を振り翳し、殴るような様子を見せたが、組長は流石熟練と褒め称えたいと思えるほど、あっという間にその右手を華麗に掴んで、さらにはキチガイを電車の壁まで押しやってしまった。

 しかしキチガイの発狂とは凄まじいものらしく、組長も苦しそうにしていた。俺と坂倉は、それを打破すべく三人がかりでキチガイを一気に圧迫した。身体を抑えているので顔だけ露出しているのを良い機に、坂倉はその顔目掛けて、今まで見たことの無い形相で、何発も何発もパンチを喰らわせ、ついにはその顔からようやく血が流れ始めた。

 「くたばりやがれ!このド阿呆!ド畜生!」

 坂倉の怒りをヒシヒシと感じた。キチガイ側も疲れてきたらしく、抵抗の意思も感じられなくなり、だんだん脚の力が無くなっていくのがわかった。そして、そっと抑えるのをやめると、先程のような乙女座りに戻ってしまった。

 三人とも彼から離れて、組長と坂倉は次に、駒宮の方を見た。そして急いで走って行った。俺はというと、駒宮のことも心配であったが、それ以上にこのキチガイが、果たして俺の暴力行為とやらと種類系統が同じなのかが気になって仕方がなかった。そして、一心不乱にこのキチガイの身体中を漁り始めた。なんでも良いから何かヒントというか、自分を安心させるものが何処かにないかと必死であったからだ。

 そして、彼の目はすっかり落ち窪んでいる間に、上着のポケットやら、服の内側やら隅々まで探しに探してみた。そうしているうちに、彼の腰回りに何か引っ掛かるものの感触があった。俺はそれを見るが故、ハッとした。

 上着を掻っ払ってみると、ソイツは私服というよりかは患者のような、真っ白な衣服を身につけていた。そして引っ掛かるものの正体というのは、名札のような、死体の認識番号を示すもののような、暗示品であった。そこには、こう書かれていた。


 —— メメズ、 ◯二号 ——


 この”メメズ”とやらは、一体どういう事なのだろうか。そう名付けられているのか。あるいは何の関係もないのか。そして、丁寧に番号まで振られている。しかしよりによってなぜ”◯二号”なのだろう。つまり”◯一号”もいるという事なのか。

 他に何か無いだろうかと、あっという間に興味津々になって探っていると、これまた服の内側の腰回りに、帳面ほどの大きさと形をした何かを見つけた。それを一気に内側から引き出してみると、それは木材の断片のようである。そしてそれは、かなり触り心地の悪い、ギザギザした汚らしいものであった。

 なぜそんなものを隠し持っているのかの木材をよく見ると、触り心地の悪い理由がわかった。なぜなら、それには明らかに爪で引っ掻いた跡があったからだ。しかも、ただの無造作な引っ掻きでは無い。よくよく見ると、これは文字のようである。


 —————


 あ あ  あ の キ チ ガ イ め


 お れ は  ゆ る さ な い


 す べ て あ い つ の せ い だ


 し ね  し ね  し ね  か す

 

 あ い つ の あ た ま が


 い か れ て い る せ い だ


 お れ ま で キ チ ガ イ に


 な っ ち ま う

 

 な ん で  お れ な ん だ よ


 こ ん な こ と  な に も か も


 ば か み た い だ


 く る っ て い や が る


 お れ は  ゆ る さ な い

 

 し ね  し ね  し ね  か す


 し ね  し ね  し ね  あ ほ


 し ね  し ね  し ね  く ず


 —————


 …………一体何なんだねこれは。俺は唖然が止まらなかった。何かを示す解読文なのか、遺書なのか………。このキチガイ以外にも、さらにイかれたヤツがいるというのか。

 …………

 …………

 オカシイ、オカシイ、オカシイ。オカシイ、オカシイ、オカシイな。

 こんな変なヤツ、オカシイ。

 俺はコイツの何もかもが奇妙、奇形、変態的心理に見えてきた。そのくらい、衝撃的なものだった。

 「………………………見ましたか…………。」

 ウッ。ナンダ。俺は身体をビクリとさせた。なぜなら、丁度俺の後方から、生存者らしき声を聞いたからだ。姿を確認すべく俺は頭を後方へ向けた。

 その男は、車両の端っこにある、優先席の下に隠れて見ていたようで、そこから気味悪くノッソリと這い上がってきた。カメラを持ったアヤシゲな男である。やたら普通に見せようとしているかのような真黒な服を着ている。

 アァ!………俺はこの男のことをいつか記憶の隅に置いていた気がする。まさにマチ子に出会う前に、…パシャリ…と後ろから盗撮をしていた、ストーカーさんだとハッキリ気がついた。やがてソイツは、ユラユラと歩きながらこれまた気味悪く近づいてきた。そして、なぜか唇を震わせ、声も細々と成り行きながら、こう喋った。

 「……ア、あなたは、まさに刑務所から出てきた、メメ………ア、イヤ、失礼失礼……三沢和宏さんですよね。……」

 俺は問うた。

 「なぜ名前を知っているんですか。なぜ盗撮をあの時したんですか。……」

 「なぜったら、あなたはこちらの —メメズ、 ◯二号— と書かれた、このキチガイと、同じなのですから。…………」

 俺は理解をしなかった。

 「………一体何を言っているのですか。」

 次に、ソイツは手を震わせながら、ぶら下げていたカメラをヨソヨソどかし、内ポケットの中に手を突っ込んだ。そして何やら名刺らしいものを取り出して、ご丁寧に授けてきた。

 「…………帝国精神病院…、臨床心理士、若森喜太郎………。」

 「エェエェ、エェエェ、そうです。………私は、精神病院のものでございます。」

 俺は考えた。が、すでに頭の中、すなわち脳中には何も無かった。

 「…一体何なんですか。……」

 若森は、少し目を合わせてから、すぐ逸らし、微妙ながらニタニタ口角を上げながら、こう喋った。

 「………あなたは今、非常に苦労なさっているでしょう。気がついたら頭鳴りをして、このキチガイのようになっていることでしょう。ですが、名刺の裏をご覧ください。病院の住所と、私の電話番号が書かれております。あなたがその苦しみの原因を知りたいと強く願う時、この我が帝国精神病院まで、足をお運びなさい。そこで全てをお話しします。」

 俺はハッとした。このヤロウが、俺のキチガイじみた暴力行為、頭鳴りなどの苦しみの全ての詳細を、知っているというのか。

 「全てをお話し………するのですね……。」

 こう俺はボソッと、呟いた気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狂ふメメズ 和遙折衷 @Yogurt_oh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ