再会

 「もしかして…、今、お仕事中でしたか?…」

 長くとも感じられた時間が過ぎた後、そう口を開いたのは俺の方だった。

 「ええ、実は…この駅で清掃員募集のポスターがあったので…、ここでバイトしているんです。」

 残酷な話である。こうしてどうにか金を稼いで、それでいてヤクザに追われる、残酷な話である。俺は一瞬にしてそう思った。そして、彼女に対する碌でもないヤツという考えは完全に消え、ある一人の人間だと考えるようになった。俺はその衝動によって、こう言った。

 「もしこの後空いてたら、コーヒーかなんか飲みに行きませんか。」

 「えッ……、? いいんですか…?」

 俺はコクリとうなずいた。

 「じゃあ…、もう少ししたら私あがりなんで、行きます…!」

 俺はそう言われ、何かジワジワとした喜びを感じた。以前の俺だったらこんなことなんか絶対に言わなかっただろう。そう思いながら駅の外まで行き、周りを少々見渡したら以前寝ようとした駅前のベンチを見つけたので、そこにアッサリ腰掛けた。それから間もなく、マチ子がバッチリ私服に着替え、トホトホと歩いてきた。

 しかし今になって、何を話せばいいのだろうという疑問が出た。以前の街娼としてのイメージが、どうしてもよぎってしまう。そうやって一瞬にしてこんなバカげたことを考えている最中に、向こうから口を開いてくれた。

 「私、この辺の美味いコーヒー屋さん知ってるんです。行きましょ。」

 随分活気のある喋りであった。そうして、歩き出した。俺は不慣れながらもついて行った。たぶん脳中いろいろ動くものがあったが、今はもう面倒くさいので無視しようとした。五分ほど経ったすぐのところにお店を見た。

 「アレです。入りましょ。」

 いかにもモダンチックな、キレイなお店であった。俺はこういったお店に入る感覚さえも、刑務所のお陰様で忘れてしまっていた。だからこそダンダンと楽しみになってきた。

 入り口からほんの左に曲がった、すぐそこの席にお互い向き合って座った。そして、刑務所では味わうことのできなかった、コーヒーを注文した。

 「カズヒロさんは、どうして急にコーヒーなんかに誘ったんですか。」

 「イャぁ、なんと言いますか…、以前チョット会っただけだったから、もうチョットお話をしてみたいなァというか…、」

 俺にはそういった気持ちもあったし、純粋な、沢山の質問もあった。

 「そうなんですね、改めまして、私、マチ子っていいます。河合マチ子です。で、お兄さんは、カズヒロさんですよね……、苗字は…?」

 「苗字は、三沢です。三沢和宏です。」

 「ア、そうなんですね。よろしくお願いします。」

 ここにきてようやく互いの自己紹介が済んだ。俺も自然と緊張が解けたのか、流暢に、滑らかに喋られるようになった気がする。

 「そのォ、今日はチョットマチ子さんに聞きたいことがあって…、ですね、」

 「はい…。」

 「マチ子さんは、もしかしてずっとあんな感じでお金を稼いでいるんですか?」

 「アァ、夜の街のお話ですか…。そうなんです。やっぱりバイトだけじゃ借金なんて到底返せなくて……、」

 「ンン…、大変失礼ですけど、なんで借金なんかができちゃったんですかね。」

 「もともと兄が結構な額を借りてて…、私はその巻き添いと言いますか…、」

 ますます情が湧いてきた。

 「兄は今どちらに…。」

 「たぶん逃げたんだと思います。いつのまにか家からいなくなっていたんです………。 ア、ちなみにカズヒロさんはどんなお仕事で?」

 俺もなんだか、自分の正直なことを話さなければならないという、義務感がのしかかってきた。

 「実は俺は…、刑務所から出てきた男なんです。それも何もしていないのに捕まって、それでいていきなり解放されて、」

 「ヘエエェ…、そうだったんですね。」

 彼女はやはり、目を大きく見開いたがすぐさま首を縦に振り、理解の意を見せた。

 「それで、聞きたいんですけど、あのホテルでおれは……、どうしてましたか? そのォ…、そん時は結構眠くて…、記憶も曖昧で…。」

 うまく聞けなかったが、とにかく当時の状況を知りたかった。

 「ア!ホントウに、あの時はありがとうございました!私もあの時今度こそ終わったと思ったのですが、カズヒロさんが強烈にやっつけてくれて…」

 やはりだ。俺が頭なりの後に見た残酷な、血とアザに塗れた光景の原因は、やはり俺であった。

 「やっつけたってのは…、どうやってました??」

 「そのォ…、とにかく強い力で、殴ったり、引っ掻いたり…?暴れていたとでも言うのでしょうか…?」

 これでは俺はキチガイだ。自分が一番暴れて、一番壊れて、被害をもたらすだなんて、完全なキチガイだ。

 「カズヒロさん、あの後すぐさま出て行っちゃいましたけど、大丈夫でしたか?」

 「ええ、今はもう大丈夫です。途中俺も死にかける思いをしましたがね。」

 「というと…?」

 「その俺の暴力行為とやらがあなたの借金取りのヤクザにバレバレで…、尋問を受けましたよ。ハッハッハ。」

 彼女はますます申し訳なさそうな表情になって行った。

 「ホントウにすみません…!私のせいで、あなたに色々迷惑かけて…!」

 その時の俺は、スゴク優しかった。自分で言うのもなんであるが、スゴク人当たりが良かった。

 「いいんですよ。ハッハッハ。」 ……………………

 どのくらい会話したのだろう。とにかく俺は笑って、相手を明るくさせようと努力して、さらにお互いの好きな事とか、嫌いなこととか、ありとあらゆる会話をした。まだ不慣れな箇所は少々あったかもしれないが、それでもホントウに長い間話した気がする。

 俺は外を見た。するとどうしよう。もうすっかり夜である。俺は言った。

 「俺はもう行かないとなので、今日はありがとうございました。」

 するとマチ子もすぐに返事をした。

 「あの、もしよければ、また会いませんか。電話番号、あるので…、」

 俺は貰った。電話番号の書かれたクシャクシャの紙っぺらを貰った。そして店の外まででて、互いに軽くお辞儀をして、ソロソロと歩き始めた。俺はというと、一応早く戻らないと、駒宮や、その他のイカついお仲間達になんと言われるかわからない、と言う不安に縛られて、すぐに大股歩きに変えて進んでいた。

 バスをまた探して乗った。乗っている最中、貧乏ゆすりを一層激しくして、またがまだかと、呪文かお経のように唱えているような状態であった。そして着いた頃にはバスの時計は八時半を示していた。また錆びた廊下を駆け抜けていく先に見えたのは、俺の部屋の前で待っている駒宮であった。向かうや否や駒宮に深く頭を下げた。

 「すみません…。ちょっと出るつもりがこんなに遅くなってしまって、」

 「あなたサンのことだからネ、逃げたのかと思いましたヨ。でもネ、明日からはこんなことできないからネ。ヤクザなめとるとどうなるかわからんからネ。」

 俺は恐怖した。駒宮の目には光がもはやなく、俺はその様子をタダ見ながら、唾を一二回飲み込んだまま動けなくなってしまった。やがて駒宮は歩き出した。

 俺はとっとと自分の部屋に入り、すぐさま布団を広げて、その中にくるまった。しかしまだ怖いので電気はつけたままにしておいた。


 「………………ヒロ………カズヒロ………………ほら……いくよ…………………」

 ……んん、…いやだ………………イヤだ、…

 …ウ、痛い。痛みを感じた。一瞬感じた。強いよ、…力が。

 ……腕か。腕を強く掴まれているから痛いんだ。……トテモ強く引っ張っている…。引っ張っているんだよな………………?

 しかし………………この声もまた……聞き覚えがある………………。産まれた時からずっと……、聞いたことのある声だ。すぐそばにいてほしい……ずっと聞いていたい……声だ…。

 この感覚はなんであろう……。ジワジワと少々の快楽に満ちた奈落に浸っていくような…、無限の螺旋にダンダンと引き摺り込まれていくような…、あるいは、平衡世界に生じた隙間からタブーをヒソヒソと覗き込むような……。

 なんとも言えない。なんとも説明しようがない。

 ………明るい。陽の光が辺り一面に広がっている…。ここは外か????…天国か何かであろうか………?

 ……腕が痛い…、まだ引っ張られている。歩いている。

 脳中浮かんでいる…。無重力を感じる。何をしようと浮かぶことができる。螺旋の中、ずっと再生される壊れたワルツが、浮かびながらこちらへ向かってきた。ノイズが混じった…非常に聴き心地が悪い………気分が悪い…。

 俺はその音に座った…、気がする。その隣に…、産まれた時から聞いたことのある声を発する人物も…。

 これは予知夢か、逆夢か…、はたまた悪夢か。下劣で卑怯な音に連れ去られていくのがわかる…。絶対に抗えない…、引力を感じる。動けない…。動けない??なんで動けないんだ……?

 …浸っている…。しばらく浸っている…。やがて感情が消えていくのではないかというほど浸っていた………。

 急にオットとした感覚が来た。それまで流れていた景色、螺旋、平衡世界が全て止まった。

 ……痛い。また腕を引っ張られた。なんでだ…?ナンデナンダ?

 「カズヒロ………、ほら…、行くよ………。」

 やはり声はどうしても聞こえる。声を聞くだけで…、理由も何もわからない…。

 これに理由があるのか???…そもそも理由、倫理なんて存在しているのだろうか……。それさえも疑ってしまう自分ははたまた卑怯か、凡脳か、白痴か、キチガイか。

 どこかへ移動したのか…、並行世界から抜け出したのか…?と思ったが、違った。音さえもそこに止まっていた…。

 ……歩いている。すると…、目の前に、それは神にも見えた、黒いモヤのかかった、物体が一つ………、佇んでいた……?一体これはなんだ???自分が愚かであって理解できないだけか???

 俺は抗えなかった…。腕を掴まれたままであった……。向こう側も佇んでいるだけであった。

 俺はどうしたらいいかわからない………。わかるはずもない……。腑を掻きむしりたくなる…はっきりしない心持ちと、それがここでは如何に間違っているかが……………ハッキリと……形を残して、わかった。

 もういっそのこと自分からアプローチをしようとしたが……それに相応しいほどの…、手荷物も、花束も、何もなかった。

 するといきなり、モヤが晴れて、斧を振り翳してきた気がする……。一気に、力を込めて、俺が意識しないうちに……………..。

 その瞬間に、寄生虫を感じた。ひとつ…、また一つと…ミルミル浸透して………………….。

 目の前が……、あっという間に、中心部へ沈んでいき、みるみる見えなくなった。ここからは感覚だけである。

 身体をあらゆる、何千万にも及ぶ寄生虫が、血管の中をハイスピードで、光の速さで……、ジワジワと駆け巡った。

 非常に不快であり、今にも自らメスを取り出し…、解剖でもしたい気分であった…………。しかしその麻酔さえも、こんな状態では、絶対に効果を発揮しない…….と思えた……..。

 自分こそまさに傀儡であり、引力によって呆気なく落とされた林檎であり、投身自殺をしたことのある……、している最中であった。

 その感覚が……非常に長かった…。いつまでもいつまでも……四つの季がトテツモナイ時間をかけて通り過ぎた……気分だ…。肌に触れた生々しい温度と、湿気さえ……錯覚により、その肌さえ破って身体を暖かく、あるいは冷たくさせる…………といった調子であった。

 やがて時が来て…、その感覚と、経験と、ワルツと、痛みと、その他ありとあらゆる奇形、奇妙、珍奇、道化、フリークス、キチガイが一気に…、逆流し始めた。逆流し始めた。逆流し始めた。ただ、義務的に、逆流し始めた。

 …目の前がやがて開き、まるでトテモ遅い星のカケラが、こちらにぶつかってきたような、あるいは、世界がスローモーションで見える状態で……回避しようのない、交通事故にあったような感覚になった、と思ったら………、それら全てが一気に白く発光し始め、目を閉じなければいけないほどになった。

 ………やがてその白雪に見える光が…、一瞬にして液体状に…、溶け始めた………。ホントウに儚い白さであった。

 それさえドロドロになって……、俺の上に…、吐瀉物のように、降りかかってきた。俺はそれを一気に浴びた。浴びた。ただただ、ボーッとしながら、浴びた。浴びてしまった。


 …………………アアァ!!!…

 とんでもない悲鳴をあげてしまった。目は思いっきり開いたまま、飛び跳ねて、辺りを見渡した。あゝ、ここは自分の部屋ではないか。

 どうやら奇形で奇妙で、キチガイチックな夢を見ていたようだ……。

 俺は夢だと自覚した瞬間、ホントに安心して、そのまま身体自体をまた倒してしまった。相変わらず、電気はただ電流の言われるがままに、ついたままであった。白い、白雪のような、明るい色をした電気であった。

 モウそのまま、寝ることさえ嫌になったのか、目は開けたままにしよう、という硬い硬い決心をした。それあそうだ。あのようなキチガイチックな夢を見たならば、誰であろうとその直後に安心して眠りにつけるという確信は持てるわけがない。

 ただただ、時間が過ぎていった。それこそ先ほどの夢のことを考えた。その夢と、今の時間のどちらがより長く、途方もない時間のように感じるかの真剣勝負であった。

 今になってやっと、頭も身体も冷静になり、徐々に考察がこれでもかと進んでいった。脳中思いつく限りの事柄が、グルグルと、それこそ螺旋を下っていくようであった。

 ………おそらく…、あの声は、ママのものであろう。俺は思い出した。このように、名前を呼ばれて、腕を掴まれ、痛さと辛さと奇形さを味わい、身体に寄生虫が入ってくるという夢、悪夢、サイコファンタジー映画、キチガイワールドは、以前から、というか刑務所の部屋の中で、トホトホとしている間にも見ていたものであった。そして、それを見るたんびに、その声は必ず、男でも、親父でも、どこぞの知らぬ野郎でも、どこぞのキチガイでもない、ママではないのか、という考えだけが残っていた。

 やがて考えに考え、危うく考える自分がそのループから抜け出せなくなり、今度は全くもって、考えることしかできない、無辺世界へ浸っていくところであった。アブナイアブナイ。脳中アブナイ。

 

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