先行き
「腕前……? それは俺に向かって言ったんですか?」
「オオイオイ当たり前やないか、貴様の今の素早い動きは、なかなかや」
「動き?…もしかしてこの手下は、俺が何かしたからこんな様子に……?」
「何言うてん呆れるわあ、貴様が今一瞬で左端のやつを殴り飛ばしたんやないかァ。」
俺にはまったくもって自覚がなかった。俺が今先程まで視覚に感じたのは胸ぐらを掴まれたところまでで、脳中に感じたのはあの鬱陶しい頭なりである。それだけのはずである。しかし、組長が言うには俺は今のタッタ一瞬で、殴るという暴力行為を働いたと言う。オカシイ。自分の行動なのになぜこうしたすれ違いが起きているのだ。ナゼナンダ。
そうこう思いながらモウ一度組長の方へ顔を少し上げてみると、何やら組長のちょうど真隣にいる、その次に偉そうなイカつい部下と、組長が何やらコソコソ話をしていた。こちらに聞かれないようと、手を丁重に顔の前に添えていた。その奥に薄いカーテンで仕切られた窓があり、その窓から漏れ出る光が、組長たちの輪郭をよりはっきりと、そこに残していたので、なんとも言えん威圧感をここでも感じた。
そして、何やら話終わったらしく、また先程と同じような表情に戻ったと思うと、すぐさま口を開いた。
「貴様をそのまま逃がすんは、勿体ないわァ。俺ァ決めたぞ、貴様を一旦俺たちが預かってやる。」
「預かる??」
「つまりなァ、貴様のその腕前を放っておくわけにゃならねェ。あのホテルの件もそうや。俺らの凄腕で、かつ厄介なあの借金取りさえも相手にしやがったわ。あの借金取りは貴様がやったんだろ??わかってんだヨ。貴様の動きを見て確信したんだ。」
「俺があんな悲惨な姿にした……。ってことですか。いや………、いやいやいや…!!そんなはずありません。俺にはそんなことをした記憶がありません。」
「なんやお前さんそんな政治家みたいな言い訳しようて、あれもこれも、貴様がやったことなんだ。なんで自覚しようとしないん。」
「ホントウにやった記憶がないんです。」
「何回も言わすなや坊や、お前がやったんや。」
その時はトテモ興奮し、自分が自分であることさえ信じられなくなっていた。だからか知らんが、それはそれは流暢な喋りで、自分のやった暴力行為?とやらを全力で否定した。まさに脳中あたり一面アイデンティティ・クライシスといった感じであり、何回も同じことを言ったせいか、次第に向こうもイラついてきたのか声はだんだんと低く、がなり始めた。気をつけよう。そして、次の話題になりだした。
「せやせや、そんな簡単に物事をクールに、流暢に進めちゃならねェ。まずはお前さんを知らなな。じゃあ名前から聞こう。」
「あ、ェェ……ト」
「アァアじゃなくて名前くらい有るだろう。」
相当俺もクールだったからか、自分の名前を危うく完全に忘れ去るところであった。
「えェェ…、三沢…和宏、デス。」
一体なんだこのザマは。まるで氷漬けにされた時計じかけのような、非常に人間味を感じない硬ァい喋りであった気がする。
「よし、じゃあ次や。お前さんはどこから来た。家族とか、構成を聞きてェ。」
「俺はァ、実はその、刑務所から出たばかりなんです。」
確かに俺はそう言った。次の瞬間に、周りの顔が若干目を見開いたのは、そのせいであろう。組長も駒宮も、傍にいる偉そうな部下も、みんなみんな、そんな感じの表情であった。
「これゃこりゃ、なかなかの悪がきよったぞ。ハッハッハ、何をしでかした??それが一番気になる。」
何をと言われても、何もしていないのに手錠をはめられた俺になんの説明のしようもなかろう。
「その、何もしていないのに、捕まったというか……。」
これは自分でもわかるほどの、気の抜けた、浅い喋り方であった。
「自覚なしとは、エゲツナイナァ。まあええ。今の腕前でなんかしでかしたんやろどうせ。さらに次の質問行くで。ド直球に聞くぞ、お前さん、マチ子とどんな関係なんや。」
そりゃあ聞くよな。納得した。俺はなんとか酷い誤解が生まれないように、必死に言葉を発しようとした。
「あ、あの人はただ、そのォ、昨日向こうから、何やら金を求める感じで、俺に話しかけて、その、それだけです。」
「なんや、まだ娼婦を続けてるんか。たく、それでいて返す額は毎回毎回少ねェわ。勘弁しろやボケェ。」
彼女に対しかなりのお怒りの様子であった。こんなところから金を借りる彼女も彼女であるが、ここにきて初めて、彼女に対して一瞬人間味というか、情が湧いたような、少々かわいそうと思える気持ちになった気がする。
「まあええわ、お前さんはとりあえず、うちの寮にしばらくいるのが良い、なあ駒宮ァ?」
「エェエェ、左様でございますネ。」
この状況には、何も言い返せなかった。こんな勝手に話が進んでいく中で急に、やっぱりおうちに帰りたいですなんていったらそれこそ、また冷たい目で、よそ者のような目で見られるに決まっている。
「駒宮ァ、案内してやりィ。」
そして、またもや駒宮の威勢の良い返事を聞いた途端、彼はすぐさま俺の方へ振り向いて、丁重くさい喋り方に戻った。何歩か進み、支店長室とやらから抜け出した。
「寮はこの銀行の反対側にございますネ。」
導かれるがままに進んでいった。しかしやはり不安は抜け切らない。抜け切るはずがない。これから結局ここで働くのかとか、家へ戻れる自由な時間はあるのかとか、そういうことがずっと脳中に止まっていた。しかし、聞くなら今である。あの重圧感しか感じない部屋の中では聞けなかったことが、今やっと聞ける。この駒宮なら大丈夫だろう。そう考えて、一瞬にして頭がクールになった。
「あのォ、俺は結局ゥ、この銀行で働くという、…」
そこまで言いかけて、駒宮の方をジット見ていたが、サラリとこちらを振り向いて小刻みに頷きながらこういった。
「もォちろんです。組長があなたサンの腕前を完全に認められタ、ということになりますのでネ。しかし事務的なお仕事というより、もっとワタクシら側のお仕事をしてもらうことになりますネェ。」
こりゃコマッタ。非常にコマッタ。これはもろヤクザの奴らと一緒に仕事をしなければならないということだ。勿論、ヤクザの仕事の内容は知らんし、自分としてはそういったアブナイところには行きたくないものだ、と叶わんことばかりをヒシヒシと思っていた。
また自動ドアをくぐり抜け、ふと外へ出た。駒宮はいきなり右へ身体を少し回し、砂利を踏みしめた。行く先には先程の、道路をまたいだ寮があった。
———猫だ。俺はふとそう思った。それはそれは無意識の状態で、駐車場の左側の奥をサラリと見ていると、何か必死な様子で、かなり速いスピードで走っている一匹の猫がいた。なんだろうとジロジロ見ていると、猫の少し行先に、猫以上に必死な様子で走っている、一匹のネズミがいた。
これはおもしろい、と思ったのも束の間で、そのネズミがなんだか可哀想な立場というか、追いかけ回される立場として、真剣に見つめた気がする。それがいつの間にか、立場上、マチ子にも見えたし、俺のように見えた。なんだか追いかけてくる相手に対する圧を感じ、それをずっと感じながら逃げ、逆らうことのできない様子が、俺たちに似ていたからだ。
ただ駒宮について行っているだけなのに、こんなにも思考を広げてしまった。多分、この時はすでに頭が混乱し、ありとあらゆる不安と考えが浮かぶうちに、あたかも小説家チックなそれっぽい単語や文が次々と思いつき、それを全く持って意味もなく脳中に並べて、読んでいたからであろう。
頭から目に意識が行った。目の前が空っぽになっている間に、駒宮と一緒にいつの間にか道路を跨ぎ、寮の建物の階段をウスウスと登っていた。自分の部屋は二階にあるようだ。登り終わるや否や、やたら古びた木製に見えるような壁と、こじんまりしたドアが立て続けに並んでいた。
錆びた通路を五、六歩ほど進んだところだろうか、駒宮がいきなり立ち止まり、振り向き、すぐ横にあるドアに手を向けた。
「ここのオ部屋になっておりますネ。」
二◯六とほんの小さく、中央部に書かれたドアがそれだった。俺はそう言われて、咄嗟になんと答えたらいいかわからなかった、ことを駒宮は気にすることもなくそそくさと部屋の鍵を取り出して、ガチャガチャと音を立てて開けた。
さてドアを開け、中が見えたところで、これまた感心した。中は、これまた外見とは全く真逆の綺麗さで、新築のようなピカピカの床と小さめのベッドという、最低限のものが備わっていた。
「ここで寝ることができるのでゴざいますネ。また食事の管理とかは自分でやってもらって、オ願いしますネ。」
そう言い残して駒宮はすぐに背を向けて軽く会釈をしながら出て行こうとしたところ、俺はまだ聞き残したことがあるのを思い出したので、目にも留まらぬ速さで口を開いた。
「あのォ、家に帰る……、アいや、自由時間とか…、あるのですか?…」
俺の本来の目的は、家に帰ることだ。それを忘れかけていた。早く家に帰ってママに無事に帰ったことを知らせないと。こんなヤクザと絡んでいる暇は無いと。だからこそようやく問うことができた。
「あなたサンはまだ来たばかりですからネ。今日はまあ良しとしましょう。シカシ明日からはしっかりとお仕事をしてもらいますからネ。」
駒宮は、真剣に俺の目を見つめて、離さなかった。キレッとした言い方であった。もう自分は彼らの仲間になってしまった、という現実が目に見えてわかった。そうしてただ顔を上げているうちに駒宮は出て行った。先程と同じ、ガチャガチャという鍵を閉める音が聞こえた。
俺はようやく落ち着ける気がする。なんだかやっと自由を手にしたかのような身軽さになった。俺は部屋の真ん中に一気に飛び込み、身体を大の字に思いっきり広げて、二三伸びをして気分を良くした。
それでいて未だに実感が湧かない。俺がヤクザの”お仕事”を引き受けたことや、自分の暴力行為?とやらを生々しく示す数々の証拠。俺はこんな人間だったのだろうか。まさかママの手紙が、何やら俺が凶悪犯罪をしたかのような書き方になっていたのは、この数々の事実のせいなのか。俺がホントウに、記憶に無い間に暴れていたというのか。だとしたらかなりのキチガイだ。
そう考えて、部屋の真っ白な天井をボーッと見つめている間に、時間の流れを完全に忘れてしまった。いつまで経ってもこの白い天井や、ピカピカの床がなんの変化もなく、そこにあるだけであったからだ。それはそれは静かな空間で、思考も良く良く働くというわけだ。
オット。だからだよ、またもや本来の目的を忘れかけるところだった。俺はそれが脳中舞い降りた瞬間、ガバッと身体を持ち上げて、自分の手荷物を全て持った。そして、もらった部屋の鍵を大事に握りしめながら、ドアを開け、閉めて、錆びた通路を駆け抜けて行った。
道路の真隣の歩道まで出て右手を見てみると、寮の隣の建物の、そのまた隣の建物の目の前に、バス停があった。俺は走り、行き先の書かれた表を見た。駅前に止まるのがもうすぐ来るらしい。俺は自分の手荷物を漁り、自分の金をしっかり用意した。やがてバスが来て、急いで乗り込んだ。バスの中の電子時計を見てみると、もうお昼過ぎ(十二時半)と書かれてあった。ほんの少し空腹を感じたのはそのせいだ。
しかし空腹さえ忘れるほど、自分の意志が強かった。腹に手をソッと当てながら、窓の外を眺めた。そして、駒宮が早朝俺を運んできた道を逆に進んでるんだな、と気づいた。
しばらく揺られているうちに、駅前に着いた。俺が刑務所から出る時にもらった、まあまあのお金で支払いを済ませた。そしてまた歩き、駅に入り、改札をくぐり、電車に乗ることができた。そもそも電車にも久しぶりに乗ったものなので、この揺られる感覚や、バスよりも早く外の景色が流れていくのを見て、子供のような、無邪気な、新鮮な感覚になった。
新鮮な感覚に浸っていると、車掌のアナウンスが流れ始めた。その中に俺が聞き慣れた駅の名前が聞こえた。まさに逮捕される前の、自分の家に最も近い、舞口という駅であった。
電車から降りる時、自然と身体がウキウキと、さらに歩くのも速くなり始めたのがわかった。もうこのままヤクザの元を離れてママの家で平凡に暮らす方がいいのかも、とついつい思った俺がいた。駅を出て、そのまま目の前にある見覚えのある道を真っ直ぐ進んでいった。暴力行為とやらは記憶に無いが、帰り道はハッキリと覚えている。
ある程度進んだところで左に曲がったすぐのところに、俺の家があったはず。そう思い、曲がり角が近づいてきてつい走りかけた。いざそこから顔を出して、次に身体を出して覗いてみると、どういうことだ?俺は理解をしようとしなかった。
そこにあるはずの俺の家の所だけが、全くもって綺麗な更地になっているのであった。ナンデナンダ。いくら何度見ても、家が無い。無かった。無かった……。無だ…。虚無だ…。嘘だ!これでは自分の住むホントウの家が無いではないか。ならばママはどこだ。ドコナンダ。まさかこの更地で生活してるわけなかろう。どこへ消えたのだろう。家もママも。どこだ。どこだ。どこだ…!どこだ!!!!クソッ。
この時、ヤクザから離れられるという期待は大きく裏切られた。また、全てどこへ行ったのかという疑問と不安が、期待の代わりとでもいうようにドッと振りかぶってきた。俺は更地の土や砂を、クソッと言いながら鋭い力で蹴りを入れた。何度も入れた。
ア、そうだ。自分で悩んでも仕方がない。近所の人に聞けばいいのだ。俺はすぐにそう思い、更地…、アいや自分の家のすぐ横の物静かなばあちゃんの家を訪ねた。俺はこのばあちゃんをしっかり覚えていた。優しくて、言葉遣いも良かった。歩いていくと、ばあちゃんは大切にしているお花や果実に水を丁重にあげていた。この花もまた、俺が小さい頃から丁寧に世話をしているものと同じであった。
「あのォ…、すいませェん!この隣の更地って、以前は立派に家があったのですよね?!」
ばあちゃんはちょいと目線を上げ、ノッソリと近づいてきた。
「オマエさん、どうしてそんなことを聞くかね。」
「俺はその以前の家に住んでいた、カズヒロです。三沢和宏です!」
名前を言われた瞬間、ばあちゃんの目は先程までの潰れた細い目を大きくした。
「おやァ?カズちゃんカイ?? どォこ行っとったかいね。心配したんだよォ。」
安心感ある喋り方であった。
「俺は実は…、刑務所から出所したんです。だからどうしてもママの居場所が知りたいんです…!」
そう懇願した様子を見ると、ばあちゃんは少しガッカリした感じの顔になった。
「それがねェ、カズちゃんが突然いなくなってからすぐに、カズちゃんのお母さんが来て、今までありがとうございました、なんて言って急に引越したんだいね。それで家まで業者さんに壊させたんだヨ。だからもう更地なんだ。」
ウソだ、なんでわざわざ引越して、行方を絡ましたんだ。
「ママがどこにいるかご存知ないですか?」
「悪いがァ、知らないよォ。ごめんね。」
俺はガッカリした。言葉を聞いて、目が若干落ち窪んだような感じになった。
「ありがとうございました……。」
そう言い残して俺は去った。また歩いた。ここに来た意味さえ無くなってしまった。かと言ってこれからママをこの情報の少ない中どうやって探すことができようか。俺はすっかりヤケになり。トホトホ帰ることにした。
もう一回、電車に乗った。先程と逆方向の電車である。窓に映った自分の顔を見ても、落ち込んだ表情をしているだけである。こんなはずじゃない。ナンナンダ?ここ最近疑問しか感じていない。その時の脳中はただホントウに、霧のような、虚無へ放り込まれたかのような、無限に続く不明をただ描いていた。
電車から降りた。歩く速さが全然遅いのは、すぐ目で見ればわかる。それでいて足元しか見ていなかった。
改札をくぐり抜けたところで、ホウキを持った、いかにも清掃員っぽい清掃員とぶつかりそうになったので、咄嗟に顔を上げよけようとした。しかしお互いに同じ方に動いてしまったので、その少しの時間で目を合わせてしまった。女性らしい。そう思った瞬間、向こうは声を発した。
「ア…! あの時の、お兄……、カズ、ヒロさん…?」
ん、ナンデ俺の名前を知っていると思うのも束の間、この女性はまさかのマチ子であった。駅構内をホウキで履く、清掃員をしているマチ子であった。この時、お互いにびっくりして、目をしばらく離すことができなかった。
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