腕前

 ……ウウ、…ウウウッ……

 それは、先程の獣のようながなり声からは想像がつかないほどの真逆の声だった。実に細々とした、弱々しい声に変わっていた。そして、ふと俺は後ろを見ていると、部屋のドアをまたいだ更に向こう側にタダ縮こまって、ブルブルと身体を震わせて怯えている女の姿があった。さっきまでのクルクルの目とは比べ物にならないほどの、シンジラレナイような、事実そのものをすべて疑っているような形相になっていた。

 モウ一度そのまま前へ振り返り視点を戻してみても、先程の獣のような借金取りが実に無惨な姿で、身体中アザだらけで、皮膚が引っかかれて、吐いた血反吐が赤いカーペットを更に変色させているといった、残酷な情景が変わることはなかった。

 一体この状況はどうなっているのだろう。俺はまたもや怖くてたまらなくなった。自分の手で自分の顔を覆い尽くし、深く息を吸おうと思った瞬間、唖然とした。自分の顔の前に現れた自分の手を見てみると、爪には人か何かを引っ掻いたような血痕と、少々のヒビが入っており、甲を見てみるとこれまた痛々しいアザと、自分の血とは思えない、返り血のようなものがこれでもかというほど付着していた。

 これはどういうことなんだ。俺はさっきまで、部屋のドアの前まで行った次の瞬間に、頭にキーーイイイーーンという強烈な頭鳴りを経験しただけであるのに。ただそれだけなのにナゼ俺の手がこんなにも汚れているんだ。そしてナゼいつの間にか、この借金取りたちは血反吐を吐き倒れているのか。

 あっという間に様々な考えが脳中に浮かんだ。それと同時に、ナゼか逃げなければいけないという衝動に駆られた。こんな訳のわからない状況からとっとと逃げ出すべくと、俺は自分の荷物を取りに部屋の中へ入った。女はというと、形相を変えないまま完全に黙り込んでしまった。しかし、俺が荷物を取り、そそくさと、駆け足で部屋から出ていこうとしたときに、

 「お兄さん! お名前は?」

 と、問われた。実に早口で声を震わせながら、カズヒロですと応えてはすぐに出た。無機質な赤いカーペット敷きの廊下を、走りに走った。どこかに裏口か何かないかと必死に探した。息が切れ始めて、身体は更に熱くなってきた頃、ひとつのドアが目に入った。それには非常階段と書かれた、なんとも重そうなドアであった。俺はすぐさまそれを開け、すぐさま出て、すぐさま閉めた。そしてまたもや走った。階段を踏みつけるコンコンコンという音をこれでもかと鳴らし、しかしそんなことを自分は気にもとめず下へかけて行った。地面に降りて道路へ出ると、何台かの黒塗りの高級車がホテルの前に止まっていた。これに乗って彼らはやってきたのだと心底ビビり散らかした。その光景を一瞬だけ見て、あとは急いでホテルという建物から立ち去った。

 この煩い街から逃げ出した。しかしそれはそれで不安になってきた。いざ逃げ出すとあたりはもう全く静かな住宅街であった。ここまでくれば逃げなくてもいいだろうと、焦る気持ちを無理に抑えてユラユラと歩き始めた。しかし先程の恐ろしい経験をして、やはり心身ともに完全に疲れていた。もう道路のど真ん中でもどこでもいいからとにかく寝たい。するとひとつの明るい電柱が目の前に写った。そのご立派なあたらしめの電柱に俺はみるみる引き寄せられ、いざ寄りかかるとそれから重い重いまぶたがグッと落ちてきた。これには抗えないと思った。

 ……朝だろうか、そこら辺から、バイクがゆっくり走る音や、近所のばあさんが何かを話す声や、小鳥が泣き始める音が聞こえてきた。それが聞こえると同時に、朝特有の微妙な寒気を感じ、身体が覚めた。いざ目を開けると改めて、俺はこんなところで寝ていたんだと理解をし、とりあえず辺りを見渡した。

 自分から見て左側をチラリと見てみると、それはそれは見覚えのある、黒塗りの高級車が一台ほど止まっていた。俺は寒気とは別の鳥肌が立ち始めた。あの車はまさに、先程ホテルの前に止まってたヤクザのものだと確信した。俺はつけられていたのだ。どうしよう。これから俺はどうされるのだろう。不安だ。不安で不安で仕方なく、髪でも舌でも引きちぎりたくなるくらいだった。

 車を凝視しているうちに、やがてドアが開いた。あゝと思ったが、そこから出てきたのは、やたら生真面目な社会人を装っているかのような微妙な着こなしのスーツと、それに対してあまり合ってはいないように思える奇抜な髪型をした、一人の若造であった。しかしそんな微妙なヤツだとしても、やはり威圧感はトテモトテモ覚える。

 「イヤァ、イヤァ、どーもコレは、あなたサンを探していたんですヨオゥ。こんなところでなにしてるんですカ。ア、申し遅れました。ワタシはネ、金融業、中村銀行に勤めております。駒宮と申しますネ。」

 「銀行員、、駒宮、一郎、?」

 思ってたのと違った。サラッと自分の名刺を差し出してきた。オヤ?この人は優しい人なのか、はたまた俺を怖がらせないための演技なのか、あるいはホントウにただの一般人なのか。やけに昭和じみた、早口のような、さらにはどこか丁寧語への不慣れさを感じさせる喋り方で、一緒に自己紹介をしてきた。

 「サササッ、こちらの車へオ乗りくださいネ。」

 そう言われるがままに、俺はよっこらせとでも思いながら、寝起きのヨボヨボとした身体を持ち上げて、二三あくびをしながら、緊張していたこともすっかり忘れてこの駒宮とやらについて行った。

 車に乗り込んだ先の空間で、素人から見たらこれまた威圧感のあるブルんブルンとしたモーター音を少し聞いたと思ったら、次には実に快適な、静かな心地よい空間へと変化した。その後に聞いたのは、駒宮の声だった。

 「マアマア安心してくださいヨ。そうかたくならずにネェ。ついてきた暁にはあなたサンに少々聞きたいことがあるのでネ、協力していただけませんかなァ。」

 俺はすぐさま、声を出したかはわからないが、しっかりコクリと頭を下げた。そして窓を挟み流れる景色を見ているうちに、小学生が登校している様子が一瞬窓の奥に映され、今は七時三十分だとか、八時くらいだろうと考えることができた。

 かなり進んだところで車のスピードが遅くなり始めた。身体を少し倒し、前の方向を見てみると、大きいのか小さいのかワカラナイ微妙なサイズの看板があり、そこに中村銀行と、キッパリ書かれていた。いかにも地方銀行と思えるような程よい大きさの建物であった。クリーム色にも見える塗装のされたコンクリートが続いていると思ったら、その隣にはきらびやかさを少々感じることのできる、大きなガラス張りの面もあった。それから道路の向かいには、この銀行の社員の寮と思われる、まあなんとも小さめなアパートがズッシリと建っていた。

 さて銀行の方の駐車場に車が入り、ユッタリと停車した。

 「サアさあネ、こちらでございますゥ。」

 俺は導かれるままに歩いた。コンクリートを踏みしめた次に、フロアタイルを踏み始めた。銀行の中に入ったのだ。自動ドアをくぐり抜けて入ったらすぐに、行き交う忙しない人々の姿があった。大したオオマジメな雰囲気である。そして、隅っこに佇む自販機が目に入り、しばらく見ていると、上の電光掲示板に日付と、今日のニュースが流れてきた。このとき俺はようやく、今日は二〇二三年の四月二八日、午前九時十五分を回ったところだと知った。いつからか、自分がいつどの時代に生きているのかさえわからなくなっていたので、助かった。と、思っていると、駒宮と距離が空いてしまったので俺は急いだ。

 階段を上がり、社員のスペースも通り過ぎ、支店長室と書かれた、お上品なドアが目の前に現れた。駒宮がちょうど俺をドアの前に立たせ、駒宮はその少し右斜め前にピタリと立った。するといきなり、さっきまでの丁寧味を帯びた喋り方により一層深みが出た声で、駒宮です、と思いきり合図をした。すると中から、これまた渋い声で、入れ、と力強く言われた。駒宮がまず先に、目の前のお上品なドアを開けた。

 中の様子が見えてきた。オット。これには唖然とした。俺はとてもトテモ鳥肌が立った。背筋が自然とピンとなり、強度の緊張と不安とその他諸々を一気に感じた。そこにいたのは、支店長室の奥のお上品な机と、それの椅子に腰を下ろしている組長のようなやつと、その周りを囲むイカツイお仲間たちがわんさか立っていた。これはどう見てもヤクザである。俺は全く怖くなって、なかに入ることができなかった。しかしそれをもろともせず駒宮は無理やり俺の腕を引っ張り、入らせようとしてきた。

 どうしよう。中に入ってしまった。それから、お上品なドアが微妙に音を立てて閉められた。ピッタリとその扉がしまった瞬間、組長がまず最初に発言した。

 「おいコノヤロウ。キサマ、マチ子とどんな関係なんだァアア?」

 俺はビビり散らかした。今にもションベンが吹き出そうだった。それから右端にいた手下が俺に近づき、腹にきつい一発をかました。それから左端にいた手下も顔に一発、それぞれホントウにやり慣れている殴り方であった。そして左端の方のやつにオモイッキリ胸ぐらを掴まれ思いっきり持ち上げられた。

 その瞬間に俺の脳中の奥底から何かジワジワと、ドブのような、吐瀉にも思えるような、どうしようもできないような何かが込み上げてきた。

 

 ——————————————


 ……キーーーイイーンン…、また頭鳴りである。このクソ素晴らしいタイミングで鳴ったと思ったら、目の前には、先程俺の胸ぐらを掴み持ち上げた、左端のやつが倒れていた。顔には、殴られたかのような跡がついていた。つづいて右を見てみると、駒宮が俺の身体をトテモ必死な顔をして押さえていた。身体中全ての筋肉を使って、強烈な力で押さえていた。

 俺は何かひどい顔の筋肉の使い方をしながら、試しに前を見てみると、組長がなんだか、惚れ込んだような、とんでもないものを見たかのような、ヨボヨボの目の光が少し煌めいた感じであった。その後に、言葉が聞こえた。

 「お前、なかなか良い腕前やな、」

 そう言いながらだんだんと口元が、面白い、嬉しいものを見た時のような、可愛らしいとも思える、笑みに似た角度になった。

 

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