出会い

 ……もしもし、もしもーし、………

 思わず身体が覚めた。何やら自分にそう問われた気がした。俺はとりあえずこの重っくるしい瞼を持ち上げようと努力した。しばらく目の前がぼやけたあと、ようやく視点が定まってきた。俺にまず見えたのは見回り中の警察官だった。

 「こんなところで寝られては身体も冷えます。公園かどこかお探しになられては、」

 好きにさせてくれ。俺は警察官に対する嫌悪感をじわじわと身体中に覚えた。脳中を愚痴が巡りに巡った。そんな感じで、ひとまず身体を持ち上げて、よそへ移ることにした。

 まだ眠気が抜けきらない。歩くのには最悪な状態でありながら、そっと足を引き摺った。でも、そんなぼやけた状態でも、音はハッキリと、耳に形を残して聞こえてきた。

 …パシャリ…

 これはまたもやシャッター音だ。ダレナンダ。さっきから誰が何を撮っているのか。確かめよう。少々歩いたところで、俺は後ろに振り向いた。またもやぼやけが治るのに時間がかかった。景色が鮮明になった頃、後ろにいたのはカメラを持ったアヤシゲな男である。やたら普通に見せようとしているかのような真黒な服を着ている。それに何やら俺にコッソリと、ソロソロと、ついてきている感じである。

 俺は嫌な予感がした。たまらず怖くなった。あの男が何者なのか、果たして俺を何回も写していたのか、俺に何の用があってつけてきているのか。あらゆる考えが浮かんだ。それを考え始めるのに時間は掛からなかった。その考えが、俺に、怖さとなって覆い被さってきた。たちまち、俺は足を前に出し、イキオイよく走り出した。身体中の気怠さを吹っ飛ばして、頭の中のあらゆる思考を吹っ飛ばして、ただただ走った。とにかく、あのアヤシゲな男から逃げ切りたかった。もうこれ以上付け回されたり、写真に撮られることが嫌だった。本能的に、無理だった。

 身体が熱くなってきた。これは街を行き交う、様々な人の体温と湿度のせいであろう。もうクタクタになり始めたので、そろそろ走るのをやめた。またどこかわからなくなってしまった。この、やけにネオンの光が飛び交う、煩い街はどこなのだろう。しかし、こういった街の風景も久しぶりに見たものだ。刑務所の何一つ眩しい光がない、物淋しい、寂れた様子と比べて、全く別物であった。

 そんな場所を、またしばらく歩いた。何を思ったかフッと後ろをモウ一度振り向くと、先ほどのアヤシゲな、やたら写真を撮るストーカーさんはもうどこかへ跡形もなく消えていた。よかった。もう追いかけ回される心配もない。

 そんなことを思っている間、声をかけられた。やたらと女を意識した、甲高い声である。横をチョイと見てみると、何やらやたらとメイクの濃い、少し露出度の高い服を着た、自分が一番かわいいとでも思っているようなただの女がそこにいた。

 街娼か何かだろうか。今の時代にパンパンか、すぐさまそう思った。街娼は続けて言った。

 「お兄さん、暇そうですね。私も今夜空いてるんです。」

 これはつまり、どこかホテルかどこかへ行こうという、お誘いなのか。つづいて自分の脳中としてはそういう事に全く興味がなく、ただただホテルかどこかで眠りにつけることに純粋な喜びを覚えた。でも男として身体はやはり素直であった。女性から声をかけられることも久しぶりであったので、身体は次第にあつくなっていった。しかしそれよりも強い眠気が、いつかどっと降り注いだ気がしたので、とりあえずこの街娼について行ってみることにした。

 歩くのにもう飽きていたのか、完全に視点はどこかわからぬ一点を見つめたままであった。足も痛くなり始めた頃、街灯にガツンと頭をぶつけた。前をよく見ていなかったようだ。その衝撃のおかげか、周りが少し見えるようになった。目が覚めたようである。そしてようやく、そういえば隣にいた街娼の声が耳に届いてきた。

 この街娼はやたら金について話した。俺にいくら払ってもらいたいのか、興味津々であった。こいつにどんな事情があるのかはまだ知らないが、ろくなやつではないと思ってしまった。俺も面倒くさくなり会話を続けようとはしなかった。

 たぶんほんの数分だと思うが、自分には何十分と長く感じた歩行を、街娼の声が遮った。

 「ここですよ。」

 これもまた、やたら看板がドでかい、主張の激しい掲示板やらなんやらが張り巡らされた、ご立派なホテルであった。俺は歩くのをやめた。ようやくやめた。しかし、なぜかその時の調子とは思えない異様な歩幅で、そそくさとその中に俺は入って行ったような気がする。

 俺は後ろを振り返った。おや、女はまだ外にいるのか。俺が早く入りすぎたんだ。と思ったが、それだとしても中々入っては来ない。ガラス張りの高級みを帯びた扉だったので、内装の照明が反射し、外の様子はよくは見えなかったが、どうやら周りの様子をチラチラと警戒しているようである。幾らか周りを見回した後、ようやく扉を開けた。俺も、少し安心した。自分だけそそくさと入ってきて、なんだか少し恥ずかしさを感じた。

 チェックインを済まし、ようやく自分の部屋へ移動し始めた。細長い廊下を歩いた。その時でさえ、女の方は何回か後ろの方をチラチラと見たりしていた。こいつにも付き纏いかなんかがいるのかと思った。

 ここもまた床も赤っぽい色をし、派手だと思ったが、淡々と扉が左右どちらにも配置されているのを見ているうちに、外の煩さとは打って変わって、実に無機質なように思えた。カーペットが敷き詰められた床を、ナイロンを踏む少々の感覚に足が慣れ始めたうちに、ふと上をみると自分の部屋の番号が近づいてきた。

 扉を開けると、まあイメージ通りのイヤラシイ部屋であった。しかしベッドやその他のあらゆる家具が高級に見えた。これもまた俺がいた刑務所の狭っ苦しい牢とは大違いであり、俺はしばらく見惚れてしまった。なんだかもう動きたくないと思った。

 俺は自分の足が勝手にベッドへ進んでいるのに気づかなかった。気づいた頃にはもう完全に横になっていた。自分のチャントした衣服のまま、お風呂も、歯も磨かず、それさえも忘れるほどの眠気が、先程の何倍もの威力で俺に降り注いできたからである。すぐそばにいる女なんかどうでもいいくらい、全力で寝ようと決心した。

 ………ドン……ドンドン…ドンドンドン!…

 心地がイイと感じていた。この音も、最初は心臓がこの心地に対して満足している音だと思ったが、それは違かった。次の瞬間、身体を酷く揺さぶられた。せっかくの睡眠がなどと贅沢を思いながらふと目を開けると、女が必死な顔をして、何かに酷く怯えているようで、なんだかこれからそのクルクルの眼球が飛び出して死んでしまうのではないのかとこちらが思うほどの形相で、俺を揺さぶっていた。

 どうしたのとすぐさま聞こうとした。聞こうとした瞬間に、ドンドンドンドン!と強烈なドアをノックする音が、耳に響いてきた。俺は思った。この様子は、あの時と一緒だ。あの夜半の出来事と一緒のことがもう一度起こるのではないか、確信もつかずにそんなことを勝手に思ってしまった。俺はたちまち怖くなった。そして、次の声がとても大きく聞こえてきた。

 「おいマチ子、お前がここに入っとんのは知っとんのやぞボケェ。さっさと金返さんかいや。」

 とても耳障りながなり声で、獣の威嚇のようにも聞こえるそれは、俺ではなく、隣にいるマチ子とかいう街娼に向けた言葉であった。おそらく、借金などの金がらみだろうとすぐさま考えた。

 俺は何を思ったのか、

 「さがってて」

 と、カッコつけた台詞を言った気がする。そして入り口へ近づいて行った。この女は碌でもないと考えていた先程とは全く違う、どうにかしてこいつを守るという考えが頭にあった気がする。俺はドアを開けた気がする。


 ——————————————

 

 …キーー…イイーーー……ーンン…

 次の瞬間、このような頭鳴りが起こった。俺はそれが少々痛くて、つい頭を手で押さえて、赤いカーペットの床に座り込んでしまった。やがて頭鳴りが治ったから、手を戻し、頭を上げた。

 するとどうしたことか、実に衝撃だった。俺はその光景を理解しようとはしなかった。そして、怖くなって、幾らか足を後ろへ運んだ。ソロソロと、後退りした。

 

 

 


 

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