第30話 白石隼人の分析 ― データと人間の距離
奈々からのメッセージが届いた翌日、僕は白石隼人から「少し時間あるか?」と呼び出された。場所は神楽坂の、彼がよく行く小さな寿司屋。古い木の引き戸を開けると、白木のカウンターの向こうで店主が包丁を研いでいる。カラン、と乾いた音が響く中、隼人は既に席に着き、徳利を前にしていた。
「昨日の実験結果、玲奈から聞いたぞ」
「もう伝わってるのか」
「興味あるからな。ああいうデータは、人間観察の参考になる」
彼は湯呑みに熱燗を注ぎながら、僕の顔をじっと見た。
「で、お前は何を感じた?」
「……観測者の精神状態が、相手の感情に影響を与える。それが実験で確認できた」
「それだけか?」
「それだけ、じゃない。でも、それ以上は……まだ整理できていない」
ちょうどその時、店主がカウンター越しにヒラメの握りを差し出した。透明感のある身がわずかに光を反射している。口に運ぶと、淡い甘みと締まった歯ごたえが広がった。
隼人はゆっくりと箸を置き、話を続けた。
「データは便利だ。目に見えない感情を可視化できる。でもな、それは『その瞬間の姿』でしかない。人間は数字よりもずっと不安定で、予測不能だ」
「つまり、あのデータを鵜呑みにするな、と?」
「そうだ。数字は真実を切り取った断片にすぎない。それをどう解釈するかで、意味が180度変わる」
彼は次にマグロの赤身を一口で食べ、熱燗を流し込んだ。
「恋愛も同じだ。相手の心を測ろうとする行為自体が、その心を変えてしまう。お前が奈々や玲奈を見る目が変われば、相手も必ず変わる」
「……それは、あの実験そのものだな」
「そうだ。ただし、実験室の中では制御できる条件も、現実の人間関係では制御できない。そこが違う」
僕は頷きつつも、頭の中では奈々と玲奈の顔が交互に浮かんでいた。実験で観測者が抱く感情が相手に影響を与えることが分かった今、自分の揺らぎが二人の感情を同時に動かしている可能性を否定できない。
「お前、どっちかを選ばない限り、両方に影響を与え続けることになるぞ」
「……わかってる」
「わかってるなら、覚悟を決めろ。旬を逃すな、って前にも言ったよな」
隼人は店主に追加で穴子を頼み、再びこちらを見た。
「データの世界では『相関』と『因果』を混同すると失敗する。人間関係でも同じだ。お前が見ている変化が、相手の意思なのか、お前が引き起こしたものなのか、それを見極めろ」
「でも、それは……難しい」
「だから面白いんだ」
穴子の香ばしい香りが鼻をくすぐる。外は冬の夜風が強まり、引き戸の隙間からわずかに冷気が入り込む。隼人は熱燗を注ぎ足し、静かに言った。
「数字は人を納得させる。でも最後に動くのは心だ。データに逃げるな」
その言葉は、湯呑みの熱さよりも深く胸に染みた。僕は握り締めた箸を少し緩め、心のどこかで、次に何を観測するべきかを考え始めていた。
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