第29話 奈々からの再接触 ― 選択の揺らぎ
サンフランシスコの実験から数日後、東京に戻った僕は、自宅のデスクに散らかった実験記録を整理していた。心拍グラフの山と谷、皮膚電気反応の細かい波形、それらの横に書き込んだメモ。どれも昨日までの僕にとっては科学的データだったが、今は妙に人間的な温度を帯びて見える。
夜の八時を過ぎた頃、スマートフォンがテーブルの上で震えた。画面には「奈々」の名前。久しぶりの直接の連絡だった。開くと、短い文章と数枚の写真が届いていた。
「今、ローマにいるの。空気が乾いていて、星が近い」
写真には石畳の路地、ライトアップされた噴水、そして夜空に浮かぶ半月が映っている。その光景は、僕がパリで彼女と歩いた街角を不意に思い出させた。
しばらく返信を打てずにいた。指先は画面の上で静止し、頭の中では実験室のモニターに映った波形が揺れている。観測者の精神状態が相手に影響する――あの現象を思い出すと、僕がこの瞬間に何を感じているかさえ、彼女に伝わってしまうような気がした。
ようやく「いい街だな。仕事か?」と送ると、すぐに返事が来た。
「休暇。少し考えたいことがあって」
その一文に、僕は言葉を失った。考えたいこと――それが僕に関係しているのか、それとも彼女自身の問題なのか、読み取る術はない。ただ、その言葉の奥にかすかな揺らぎを感じ取ってしまう。
キッチンに立ち、ワインセラーからカリフォルニアのピノ・ノワールを取り出した。栓を抜き、グラスに注ぐ。淡いルビー色の液面が、照明の下で小さく揺れた。その香りに包まれながら、僕は過去と現在の奈々を重ね合わせていた。パリでの笑顔、銀座での別れ際の表情、そして今、遠く離れたローマで送られてきた曖昧な言葉。
ソファに戻ると、またメッセージが届いていた。
「この間、あなたが話していた“観測”のこと、少しわかる気がする」
不意に心拍が上がる。なぜ彼女がその話題を出すのか。
「どういう意味?」と返すと、「人は見られていると変わる。でも、見ている方も変わっていく」とだけ返ってきた。
その文章は、僕と玲奈が実験で確認したばかりの事実と同じだった。だが奈々は、この数日間のやり取りの中で、そんな情報に触れるはずがない。まるで、彼女もまた僕を“同時観測”しているかのようだった。
グラスの縁に口をつけ、深く息を吸う。ワインの香りとともに、複雑な感情が胸に満ちていく。もし、あの実験が示した現象が本物なら、僕が今この瞬間に感じている迷いは、玲奈にも奈々にも、目に見えない形で届いてしまうかもしれない。
返信を打つ手が止まった。何を送ればいいのか。真実をそのまま伝えるべきか、それとも穏やかな言葉で濁すべきか。僕はしばらく考えた末、「また会ったときに話そう」とだけ打ち、送信した。
しばらくして、「そうね」とだけ返事が来た。短いその文字列には、沈黙よりも多くの意味が詰まっている気がした。僕はスマートフォンを伏せ、ワインを飲み干した。
窓の外には、冬の東京の夜景が広がっている。街灯が作る光の粒が、遠くの方で揺れている。その揺らぎが、奈々から届いた言葉と重なって見えた。
僕は思った。観測とは、距離や時間を越えて働くのかもしれない。そうであるなら、この先の選択は、ただの言葉や行動以上に重い意味を持つ。玲奈と奈々、二人を同時に観測しているのは――他ならぬ僕自身なのだから。
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