第2話 王都術院への道
夜明けの煙が村の屋根から一本、細く昇っていた。
鍛冶場の炉はもう火を落とし、親父は濡らした麻布で金床を拭っている。いつもと同じ手つきなのに、音だけが少し静かに聞こえた。
「……行ってこい」
短い言葉ののち、親父は小さな包みを俺の荷にくくりつけた。紐をほどくと、掌ほどの鉄板――昨夜渡された紋刃に、さらに細い溝が刻み足されている。
「床に描く暇は、王都じゃあまりない。溝はお前の癖に合わせた。線の起こしが早くなるはずだ」
「ありがとう」
言葉にしてみると、腹の底が不意に重くなった。母の手が俺の手をぎゅっと握る。骨の角ばりがわずかに痛い。離れる痛みだ。
「帰ってこなくても、構わん」
「帰るよ。理を持ち帰る」
外で待っていたのは、検分使の術師セラだ。褐色の外套の肩口に夜露が光り、彼女はそれを気にする様子もなく言った。
「準備は?」
「できてる」
「七日で王都。退屈は――たぶんしない」
彼女の口元にかすかな笑みが浮かぶ。けれど瞳の奥は硬いままだ。俺は荷台に乗り込み、村を振り向いた。四本角の銀毛羊が、朝露を散らしながらいっせいに首を上げる。短く鳴いた声は、見送りの合図のように聞こえた。
◇
街道は思ったより賑やかだった。商隊、旅芸人、傭兵団。彼らは検分使の紋章を見ると道を開け、ひそひそと囁いた。
「古井戸が開いたってよ」「転生者の検分らしい」「碑が鳴るのは何年ぶりだ」
転生者――言葉が風と一緒に過ぎる。珍しくはないらしい。けれど碑が絡むなら、話は別だ。
昼を少し過ぎて、荒地の谷間に差しかかった。地面が薄くうなり、空気が乾いた布のようにこすれる。護衛の兵が手を上げる。
「風が止まる――魔物の前触れだ」
砂礫の影から、黒い糸の束が幾条も立ち上がった。影虫。村で見たものより太い。熱を吸い、形を増やす性質がある。
「アルディス」
セラが短く呼ぶ。
「試す?」
喉の奥で、こくりと音が鳴った。俺は荷台から飛び降り、紋刃の溝を指でなぞる。既に刻んである線を起こせば、床に描くより数瞬早い。
影虫は熱に群がる。ならば――熱の像を別の場所へ吊ってしまえばいい。
俺は三点を選ぶ。影虫の焦点、乾いた谷風、日の当たる岩肌。点を線で結び、保存の不等式を押し込み、流束の向きを変える。
「熱は岩へ、冷えは影へ、影はここで縫止め」
紋刃の縁が微かに鳴り、見えない糸が引かれる感覚が指に返る。影虫の束が一度、膨らんで――しぼむ。黒い糸が岩肌に吸い込まれ、焦げた匂いが立った。
護衛が目を見張る。
「詠唱……なし、か」
「なし、ではない」セラが肩越しに言う。「記号に畳んだだけ。祈りの形を、別の形に置き換えたの」
影虫の最後の一本がじたばたと暴れ、俺の脛に絡みついた。熱がすうっと奪われる。歯を食いしばり、線を一本、上書きする。
――痛みを、熱として勘定する。
身体の反応を式に足せば、失う熱は計算に入る。
影は、たわんで、崩れた。糸の切れた操り人形みたいに。
息を吐いた瞬間、足ががくりと震えた。痛みは消えたが、体力は持っていかれている。セラが短く笑い、干し果物を投げた。
「糖を入れて。理は払うもの」
「借りも返す、か」
「そう。支払いの記録をつけるのが、術師の最初の礼儀」
◇
その夜、焚き火を囲んで、セラは王都術院の話をしてくれた。
「術院には三つの学派があるわ。詠唱至上派、符文実証派、観測応用派」
小枝で灰に図を描く。円を三つ、少しずつ重ねる。
「詠唱至上派は“神の言葉”を軸に置く。符文実証派は“記号の再現性”。観測応用派は“見出し方そのもの”を術に組み込む」
「錬理術は?」
「――三つともから煙たがられるでしょうね」
セラはくす、と笑った。「だから引き受けた。私は第三派……でも実務家よ。壊れる橋は嫌い、渡れる橋は好き」
灰に描いた図を見ているうちに、眠気が肩に降りた。目を閉じる直前、セラがぽつりと言った。
「明日からは“言い分”が多くなる。誰もがあなたの線に、自分の都合を引っ掛けてくる。忘れないで。線は自分で決める」
◇
七日目の朝、王都が現れた。白石の壁は朝日にまぶしく、塔の群れは空に針を立てていた。門前の行列を検分使の紋章で抜けると、石畳の大通りが術院へ真っ直ぐ伸びている。
俺は足を止めた。音が違う。人の声、車輪の軋み、売り手の呼び声。それらの背に、術の鳴りがある。目に見えないのに、確かにある。
「よく聞こえるのね」セラが言う。「碑に触れたから。世界の縫い目が、少し近くなってる」
術院の大扉は二人で抱えても届かないほど高かった。扉が開くと、冷えた石の匂いと、乾いた紙の匂いが押し寄せる。広間の中央に円環の階段があり、その奥に大きな試験用の陣が敷かれていた。
白衣の術師たち、鎧姿の警備、書記官――視線がいっせいにこちらへ集まる。中央に立つ老人が一歩前へ出た。背筋は矍鑠として、声は澄んでいる。
「術院院長、オルドだ。辺境のアルディス」
名前を呼ばれる。
「――お前の言う錬理術(れんりじゅつ)、ここでひとつ示せ」
俺は深呼吸を一度。紋刃の溝に指を滑らせる。線が起きる前の感触を確かめる。
課題は「火を起こせ」。だが、ただ燃える火では他派と変わらない。俺が示すべきは、やり方だ。
床の術式陣は教科書どおりの構成だった。詠唱の語に呼応する定型の紋。
俺はその一部を削る。削った箇所に三角を置き、頂点に微小な円を結ぶ。三点の距離を均等に保ち、円の内側だけに位相の遅れを仕込む。
言葉は短く、音は低く。
「起こせ」
火は立ち、同時に見えない線が立ち上がる。炎の周縁に沿って、熱の流れが細い糸になって浮かび、揺らぎが図形に縫い止められる。
広間の空気がざわめいた。
「……熱が見える」「流れを固定している?」
俺は言う。「祈りの代わりに、条件で支える。燃えるという出来事に、保存と制限を与える。これが――錬理術です」
人々の視線の合間から、ひときわ冷えた眼差しが射抜いた。紺の外套に白銀の髪の青年が、口の端で笑う。
「詠唱を削って成立させるとは。――異端だな」
青年は一歩前に出る。「シグルド。詠唱至上派、次席講士の預かりだ。お前の異端、ここで正す」
挑発の言葉に、オルド院長が手を上げかけ――下ろした。止めないという意思だ。
シグルドが術式陣の外縁に立ち、流れるように詠唱を紡ぐ。完全な祈りだ。
立ち上がった炎は美しく、揺らぎが祈りのリズムに沿って整う。
「術は道だ」シグルドの声はよく通る。「道を削れば、いずれ落ちる」
「道は渡るためにある」
俺は短く返し、床に小さな図を起こした。等式の上に、観測ではなく触れた事実だけを置く。
炎と炎を並べ、俺は自分の火に別の条件を加えた。
「外からの風があれば、炎はそれに従って伸びる。なければ保持」
護衛が小さく扇ぐ。俺の炎は風の向きに細く伸び、シグルドの炎は祈りの韻律に留まって揺れる。
小手調べだ。シグルドは鼻で笑った。
「玩具だな。禁に触れる気配がある」
彼の言葉に、詠唱至上派の一団がざわめく。「禁」「異端」「破邪の詩を」――耳にとげとげしい音が刺さる。
オルド院長が杖で床を叩いた。
「試すのは術であって、人ではない。――次だ。水を、火の負担なく起こせるか?」
火と水。相剋の二象。
俺は紋刃の溝をなぞり、前提を二つに分ける。
一つ、熱の保持。
一つ、凝集の臨界。
式を二重に編むと、支払いが増える。どこかから払う必要がある。俺は自分の体温をわずかに下げる方に勘定した。皮膚に粟が立つ。
「――降りよ」
火の外縁、熱の低い側に淡い水滴が現れ、結び目のようにつながっていく。水は火を喰わず、火も水を拒まない。互いの条件をずらして、同じ床に共在させる。
広間に吸い込むような気配が走った。
額に冷気が刺す。支払いは、たしかに増えている。膝がすこし笑い、歯が鳴りそうになるのを噛み止める。
「やめろ」
耳元でセラの声。手首を取られ、式の末端をそっと解かれる。
「支払いが赤字。ここで倒れたら、学派の餌よ」
息を吐くと、指が震えているのに気づいた。式は通る。だが身体はまだ細い。
詠唱至上派の方から小さな失笑が漏れる。シグルドは肩をすくめた。
「結局、凡人の体力だ」
「凡人だから、帳簿を見るんだ」俺は口の端で笑った。「借り越しの火で、神話は焼けない」
オルド院長が杖を軽く掲げた。
「十分だ。術式は成立している。支払いの認識も、術師の最低限を越えている」
彼は広間を見回し、静かに告げる。
「錬理術師アルディス。術院に仮入学を許す。担当は――セラ。三十日後の予備審査までに、帳簿と安全率の提出」
「承知しました」セラが頭を垂れる。
オルドは続けた。「そして詠唱至上派――シグルド。対案の提出と公開討議の準備を。異端を断ずるは容易い。言葉の外で示せ」
広間の空気が硬くなった。
シグルドの瞳が氷のように冷える。「望むところだ」
◇
寮に割り当てられた小さな部屋は、窓が一つと机が一つ、細い寝台が一つ。机の上には古い紙束が置かれている。表紙に「術師の帳簿」とあった。
扉が軽く叩かれ、黒髪を三つ編みにした少女が顔を出す。作業着の胸に符文実証派の徽章。
「配属の案内に来ました、リナです。……さっきの、見てました。火と水、同床させるやつ」
言いながら、彼女の視線は俺の指先――震えに落ちる。
「支払い、きつかったでしょう? 糖水、置いていきます。符文工房に来られるなら、溝の刻みも手伝います」
机に置かれた陶瓶がカタリと鳴る。
「ありがとう。助かる」
「こちらこそ。言葉の外で通じる術は、――好きです」
彼女は少し照れたように笑い、去っていった。
窓を開けると、塔の間を抜ける風が冷たい。机に座り、帳簿を開く。支払いと受け取り、安全率と余裕率。
式の端に小さく書いてみる。
――火(熱):受け取り+1、支払い-0.3
――水(凝集):受け取り+0.6、支払い-0.8
――身体:受け取り-0.2、支払い+1.1
数字は粗いけれど、癖が見える。俺は熱を取りすぎる。水には支払いすぎる。身体の帳尻が甘い。
扉の向こうで、遠く鐘が鳴る。初日の終わりを告げる音だ。
筆を置き、目を閉じる。指先に線が起きる前の感触を、何度も反芻する。
――道は祈りの形で作られた。だけど渡った先に広がるのは、理だ。
その理を、俺は錬り、縫い、記す。
明日は工房に行く。リナに溝の刻みを習い、支払いを軽くする道具を作る。
そして三十日後、シグルドと公開討議。祈りの道と、理の橋――どちらが崩れず、どちらが遠くへ届くか。
夜風が紙の端をめくった。ページの余白に、思いつくまま一行だけ書き足す。
祈りは橋。橋は渡るためにあり、渡ったなら造り替えよ。
碑の言葉だ。俺の言葉にもなる。
机の上の紋刃が、低く鳴ったように感じた。
――つづく――
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