錬理術師 ――転生凡人、魔法を再起動する――

@tomohiro0615

第1話 辺境にて理は芽吹く





 目が覚めたとき、耳に最初に届いたのは羊の声だった。

 もっとも、角が四本ある時点で俺の知る羊ではない。銀いろの毛並みが夏の陽を弾き、遠くで粉塵が風に舞った。空はありえないほど澄み、輪郭だけが鋭い。


 粗末な木のゆりかご。見知らぬ手の温もり。

 ――転生、らしい。事故か病かはもう霞んでいる。ただ、この世界の空気が肺に入った瞬間、前の世界で言い損ねた言葉が胸奥で固まって、ほどけなかった。


 名はアルディス。辺境の小村で、鍛冶屋の一家に拾われた。

 鍛冶の火はよく吠え、村の魔法はよく黙った。火の魔法で炭を起こせと教本は言うが、村の子どもたちが唱えて灯す火は、火打石より弱い。大人たちは肩をすくめた。「魔力が痩せた時代だ。仕方ない」と。

 ――仕方ない、は嫌いだ。前の世界でも、それで何度も立ち止まり、誰かを置いてきた。


 ある夕暮れ、鍛冶場の端で俺は古い教本を開いた。羊皮紙は煤け、文字は神話めいた調子で語る。


火の理は尊きかな。名を唱え、奉ずるならば、火は灯る。理は問うな。神の言葉なれば。


 問うな、と言われると、問いたくなる。

 火が灯るとは何か。魔法で火を得るとは、何が起きているのか。

 前の世界で習った物理の端切れが、ここでは意味を持つかもしれない。意味を持たないかもしれない。けれど、考えることだけは、どの世界でも俺に残ってくれたらしい。


 炉の前に膝をつき、教本の詠唱を短くする。語を削る。並び替える。

 詠唱は「祈りの形」だが、魔法の核は祈りではない、と仮定する。音の韻には、記号としての秩序が潜んでいる。ならば秩序を別の記号で置き換えられるはずだ。

 俺は石粉を指に取り、床板に小さな円を描いた。円の縁に三つの点。点と点を細線で結ぶ。三角形の中心に、煤で黒点を打つ。

 **前提(前世界で知った空気・熱・燃焼の像)**を、**この世界の記号(紋)**へ写し替える。それが俺の仮の術だ。


「……点火、じゃなくて――起こせ」


 息を短く吐き、指先で円をなぞる。

 床板の上、黒点が赤く滲み、かすかな熱が皮膚へ触れた。

 火は――灯った。と呼ぶには、あまりに小さい。炭の端に火種を移せば、ようやく炬りの苗になる程度。けれど、唱文を削り、理で継いだ火は、確かにそこにいた。


 鍛冶屋の親父が目を丸くした。「お前、詠唱を……半分も言ってないぞ」

 俺は肩をすくめた。「理を少し縫い合わせただけだよ」

 親父は口の端を吊り上げると、何も言わず炭を寄せた。火は育ち、炉は吠えた。


 その夜。村の外れで、銀毛羊の群れが一斉に鳴いた。

 地面が、ひどく浅くうなる。地の底の鼓動が一度、息を吸い、吐くように。


 小さな悲鳴が聞こえ、俺は反射で駆けだした。斜面の下、妹分のミラが足首を取られていた。乾いた土の下から、黒いものが数条、糸のように伸びている。影虫。地表の熱を喰う厄介なやつだ。

 ミラが呻く。俺は腰を落とし、床に描いたときと同じように、記号を思い浮かべる。けれど地面に描く暇はない。時間は、足首の血の色に引かれていく。


「ミラ、動くな。縫う」


 詠唱は口の中で砕き、線だけを残す。

 指先から伸びたのは、光でも熱でもない。見えないが確かな、関係だ。影虫の焦点と、地の冷え、ミラの体温。三つの点を結ぶ。等号をほどき、不等式を押し込む。


「冷えは地へ。熱は皮膚に戻れ。影はここで縫止め(ぬいとめ)」


 ミラの足首を締めつけていた黒い糸が、きしりと鳴るように解けた。影虫の頭部が土中に潜り、指先だけがひょいと出て、すぐに消える。

 ミラは息を吐き、俺の袖に顔を押しつけて泣いた。

 抱え上げると、足は赤く腫れているが、骨は無事だ。家まで担いでいけば間に合う。

 村の大人たちが駆け寄り、口々に「どうやった」と問う。俺は短く答えた。「**錬理(れんり)**しただけだよ」


 その言葉は、自分でも驚くほど自然に舌の上に乗った。

 錬理術――理(ことわり)を錬り、つなぎ直す術。

 神の言葉を唱える代わりに、世界の約束事へ手を入れる。

 それを言葉にしたとき、遠くで雷が鳴った。空は晴れているのに、山影だけが短く光った。


 夜更け、村の祠へ呼び出された。

 迎えたのは、白い髭の村長と、黒衣の司祭。司祭の瞳は、井戸の底の影のように暗い。


「アルディス。お前は今日、詠唱を歪めたな」

「歪めた覚えはないです。継ぎ直しただけです」

「言葉をすり替えるな。詠唱は神への道。道を外れたものは、魔となる」


 司祭の声は静かだったが、言葉は刃のように冷たかった。

 村長が間に入る。「命を救ったのだ、責めるばかりでは――」

 司祭は村長を一瞥し、俺へ顔を戻す。


「辺境とはいえ、王都の検分使が来る。古井戸に反応が出たからだ。……古井戸の碑(いしぶみ)で何かが目覚め、王都の術盤が震えた。お前の歪みが、それに呼応したのかもしれん」


 古井戸。村はずれの、誰も近寄らない石囲い。

 子どものころ、落ちた雀を助けようとして、底から冷気が這い上がるのを感じた場所。


「明日、検分使が古井戸を開く。お前も連れていく。……理を錬るなどと口にした舌は、王都では短い」


 脅しのつもりだろう。けれど、俺の中で別のものが静かに灯った。

 恐れではなく、確かめたいという衝動だ。

 詠唱を短くしたときに見えた芯。影虫を縫い止めたときに指先を走った関係。それらは偶然ではない。

 神の言葉で世界が回るなら、その神の言葉とやらの構造があるはずだ。構造があるなら、組み替えが可能だ。


 家に戻ると、鍛冶屋の親父が火を落として待っていた。

 小さな包みを差し出される。開くと、薄い鉄板に刻まれた細かな溝――**紋刃(もんじん)**だ。

「床に描く暇はないだろう。線を刻んで持ち歩け。お前の――なんだ、その、錬理とやらに合う」

 言いにくそうに頭をかく親父を見て、笑いそうになった。

「親父、ありがとう。借りる」

「貸すんじゃない。遣え。返す必要はない。……使いこなせなかったら、そのとき叱る」


 紋刃は手にしっとりとなじみ、心臓の鼓動とわずかに同調する。

 道具は良い。約束はもっと良い。

 眠りにつくまでのあいだ、俺は何度も鉄板の溝をなぞり、理の手触りを指に覚えさせた。


 翌朝、村はずれの古井戸に旗が立った。王都の紺の外套に、銀の紋章。

 検分使の一行は、思ったより少人数だった。先頭の女は、まだ若い。切れ長の目に疲れの影が宿るが、立ち姿は凛としている。

「王都術院・第三環、セラ。古井戸の碑に転生反応ありとの報せを受け、封印の確認に来た」

 転生。あからさまに言われ、喉奥が冷えた。

 セラは井戸の縁に片膝をつき、指で石を叩く。石は低く鳴り、草の露が一斉に震えた。

「……開く。下がって。理縫(りぬ)いを知る者は?」


 司祭の視線が俺に刺さる。俺は一歩、前へ。

 セラの目が、刃物のような明るさで俺を測った。


「名は」

「アルディス。辺境の鍛冶屋の倅(せがれ)」

「錬理は誰に習った」

「誰にも。必要だったから、継ぎ直しただけだ」

 セラの眉が僅かに動いた。笑ったのか、怒ったのか、読み取れない。

「なら、見届けろ。――碑が何を語るか」


 井戸の中心、暗闇が波打つ。

 ひびだらけの石板が、底からゆっくり浮上した。表面には、幾重もの細線。幾何と詩が混ざったような、古い記号。

 俺は無意識に紋刃を握り、鉄の溝を親指で探る。

 石板の文字列が、瞬きの合間に並び替わって見えた。前の世界で見た数式の影と、こちらの世界で覚えた紋の流れが、等価なものとして重なる。


 碑が、言葉にならない声で鳴った。

 脳の裏側に、冷水のような文が注がれる。


――転生者へ。理を問う者へ。

詠唱(ことば)は橋。橋は渡るためにあり、渡ったのなら造り替えよ。

お前は錬理術師だ。


 セラが息を呑む音が、やけに遠い。司祭の数珠が震え、村長の手が汗で滑る。

 俺だけが、ゆっくりと頷いた。

 ――やっぱり、理はある。問うことを拒む言葉の向こうに、組み替えられる秩序がある。


「アルディス」セラの声が近づく。「王都へ来い。術院はお前を保護し、監督する。……それが私の任だ」

 保護と監督。その二語の間に、長い廊下の匂いがした。

 俺は紋刃を握り直し、井戸の冷気に一歩、足を踏みこむ。

「行くよ。行って、確かめる。祈りの形の奥にあるものを。禁じられたら――その禁じ方の理屈ごと」


 セラの口元に、ようやくわずかな笑みが浮かぶ。

「なら、歓迎する。……錬理術師」


 四本角の羊が、遠くで短く鳴いた。

 世界がわずかに織り直される音がして、朝の光は、昨日よりほんの少しだけ鮮やかだった。


ーーつづくーー

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