第3話 異端と正統

第3話 異端と正統


 鐘が三度、塔の腹を鳴らした。

 窓硝子の曇りがゆっくりと消え、机の上に開きっぱなしの帳簿が現れる。昨夜の数字はまだ歪んでいる。受け取り、支払い、安全率、余裕率――凡人の身体は、理の橋を渡るより先に息切れするのだと、紙の上が告げていた。


 水で顔を叩き、紋刃を革の鞘に納める。刃の溝に指腹を滑らせると、線が起きる前のざわめきが皮膚の奥に走る。癖を覚え、支払いの口を広げる。小さなことの積み重ねしか、俺にはない。


 円形の講義室は石の匂いがした。壁には古い詩篇が刻まれ、壇上に白衣の壮年が立つ。詠唱至上派の講師、ハルメス。声は低く、迷いがない。


「術とは祈りに始まり、祈りに終わる。韻律は骨格、詠唱は道。道を削れば骨は折れる。――ここ数年、言葉を削り、術をなすと称する者がいる。異端は芽吹く。だが、異端は異端だ」


 視線が揃ってこちらへ偏った。空気が硬くなる。俺は立ち上がるか否か迷い、結局、椅子の背に指先で二本の線をなぞった。落ち着く、保持。自分用の小さな条件。


「辺境のアルディス」

 鋭い呼び名。

「錬理術と名乗ったな。祈りを置き換える、と」


「置き換えるのではなく、条件で支えます」声が自分のものとは思えないほど平らに出た。「祈りの代わりに“何が起こるか”を限定し、支払いを記録して保持する。詠唱を削ったのではなく、別の形に畳んだだけです」


 数席から笑いが漏れる。銀の頭が立ち上がった。シグルド。目は炎の芯みたいに明るい。


「詭弁だ。橋脚を削って『別の形』と言い張るのは倒壊の予告。――正統は道で示すべきだ、講師殿」


 ハルメスは手を上げ、短く言った。「中庭に出る。炎と風。正統は道で示され、異端は結果で裁かれよう」


 石の椅子が一斉に鳴った。


     ◇


 中庭の石畳に、白い環が五つ浮いている。指一本ほどの厚みで、均等に並ぶ。課題は簡潔だ。炎を立て、風で細く導き、十数える間に環の中心を連続で通せ。


 先手はシグルド。詠唱が滑らかに落ちていく。音が重なるたび、炎は韻律の拍に沿って細り、風がそれを抱いて伸ばす。第三環に差しかかった瞬間、火は一度だけ青く透明になり、揺らぎが消える。拍手が起こった。十数える前に五環を通過。完璧だった。


「さて、異端の番だ」


 輪の内側に入る。膝を緩め、呼吸を浅く整える。三点を選ぶ――熱の保持、風の導線、支払いの口。床を描く時間はない。紋刃の溝に指を滑らせ、線を起こす。


「起こせ。細め。沿え」


 火が立ち、条件が火を支える。風の導線を環の中心へ糸みたいに張る。第一環を通過。第二環に入ったところで、外からの風が一瞬強くなった。炎がほどけかける。保持条件を一段上げる。式の一行を上書きする。第三環を通過。第四環で視界の端が暗くなる。身体の帳簿が赤に触れた。支払いが膝に来る。歯を噛み、五環に――


「止める」


 耳元でセラの声。肘を取られ、末端の線がやさしく解かれる。火はほどけ、風が散る。俺は片膝をついた。石の冷たさが骨に刺さる。成功しかけた。だが、支払いが許さなかった。


 輪の外から鼻を鳴らす声。「見たか。韻律を外せば身体が折れる」


 ハルメスは無言で俺を見て、視線を外した。シグルドは肩をすくめる。「凡人の体力で大橋を架けるからだ」


 喉が渇く。指が震える。そのとき、黒髪の三つ編みが視界に滑り込んだ。リナだ。符文実証派の徽章が胸で光る。


「はい、糖水。飲んで。あと指、見せて」


 彼女は俺の紋刃を覗き込み、親指で浅い溝を撫でた。「ここ、受け取りが強く起きるように彫ってある。支払い口が狭いから身体に回りやすい。――符具、作ろう」


「符具?」


「律環って呼んでる。手首の小さな環。支払いの一部を遅延させる。今のままだと、あなたは毎回、膝で払うことになる」


 リナの声は淡々としているのに、救われたみたいに胸が軽くなった。凡人の帳簿は凡人だけでは黒字にできない。道具が要る。


 ハルメスが咳払いをひとつ。「実技は以上。午後、初等塔の送風室が故障だ。搬気紋の再点検に学生補助を出す。詠唱至上派からシグルド、符文実証派からリナ、観測応用派から随意。……転生者アルディス、参加を許可する」


 許可、という語に少しひっかかりを覚えたが、言い返す余裕はない。シグルドが笑う。「許可? 挑戦状だ。二日後の修繕試験で、どちらの道が塔を動かせるか見せてやる。公開討議の前哨戦だ」


 セラが肩を叩く。「帳簿を閉じないこと。支払いは予告してから払う」


 その手は静かに温かかった。


     ◇


 医務室の前の長椅子で、糖水が胃に落ちるのを待つ。鼓動が落ち着くころ、リナが紙束と布包みを抱えて戻ってきた。


「工房、枠が取れた。今夜から律環を試作。素材は雲母の薄板、銀糸、冷性の符粉。支払いを薄く広げて、身体に乗る前に遅延させる。床の符盤に逃がす口も作る」


「そんなことができるのか」


「祈りの代わりに条件を置くって、あなたが言った。条件は道具にも置ける」


 思わず笑う。「仲間、ってやつだな」


 リナは一瞬、目を丸くして、それから小さく頷いた。「符文実証派は現物で語るから」


 廊下の窓越しに送風塔が見える。白い風見が止まり、旗が重く垂れていた。塔が止まれば、火を使う工房も、地下の研究室も、帳簿が狂う。


 杖の音が近づいて、オルド院長が立った。目は深い井戸みたいに暗いが、口元はわずかに笑っている。


「倒れるときは前に倒れよ、アルディス。前に倒れれば一歩進む。後ろに倒れれば一章戻る。――凡人の脚は一本だと思うな。道具と友を脚の本数に数えるがよい」


 短い助言だった。けれど、芯に刺さった。「はい。……帳簿を持って行きます」


「二日後、塔で会おう」


     ◇


 夕暮れの工房は熱と薬品の匂いが混ざっていた。窓辺に雲母の薄板が十数枚、光を吸って半透明に輝く。リナは銀糸を指で扱き、極細の線へ撚っていく。手数は速いが荒くない。


「ここに冷性符粉を塗って……合図は温度で拾う。支払いが入ったら、銀糸の経路で床の符盤へ逃がす。人間より床のほうが支払いに強い」


 俺は自分の紋刃の受け取り線を少し細く彫り直し、支払い口を広げる。小刀の先が石の粉をほろほろと起こし、その音が落ち着きを運ぶ。手首にはめる小さな輪――律環――が形になっていく。雲母の薄板を三枚重ね、銀糸の環を二重に回して縫い止める。


「試す?」とリナ。

「朝に。今は――帳簿だ」


 机に帳簿を広げ、数字を入れていく。受け取り、支払い、安全率、余裕率。律環の効果を仮に見積もり、小さく矢印を引く。遅延。逃がし口。身体の赤字を床に移す配分。


 書き終えて顔を上げると、外の空は藍に沈んでいた。塔の上の風見はまだ動かない。工房の火が小さく唸り、雲母の縁が乾いた音を立てる。


「ありがとう、リナ」


「こちらこそ。――あなたの線、好きだから」


 不意の言葉に、返事が遅れた。好き、という語は軽くなかった。彼女はすぐに視線を逸らし、工具を布で包む。


「明日、工房で最終調整。明後日が本番。睡眠、取って」


「取る。支払いを払う前に寝る」


 口に出すと、少しだけ笑えた。


     ◇


 寮へ戻る回廊のアーチの下、影が揺れた。銀髪が月を引いて歩み出る。シグルドだ。月光が彼の横顔を冷たくなぞる。


「凡人の工房通い。熱心だな」


「必要だから」


「搬気紋は古紋だ。韻律の骨で立っている。条件をいくら貼っても、祈りの骨がなければ動かない」


「なら、骨の重さを測る。――骨が支える“何”を」


 シグルドの目がわずかに細くなる。「公開討議まで三十日。二日後、塔でお前の帳簿を破る」


「帳簿は破られない。赤字にはなる。何度でも。でも、黒字に戻す手を積む」


 しばしの沈黙。やがて彼は肩をすくめ、踵を返した。「楽しみにしているよ、錬理術師」


 彼が遠ざかると、夜が深くなる。手首の律環が、心臓から遅れて脈を返す。静かな余白。凡人の脚は一本。でも、道具と友で三本にも四本にもできる。前に倒れるとき、支える脚が増えれば、倒れ方は一歩になる。


 窓の向こう、送風塔の影が星を切り取っていた。明後日、あの塔を動かす。韻律の骨でも、条件の橋でも。俺は理を錬り、縫い、記す。


 寝台に身を沈める直前、帳簿の余白に一行だけ書き足した。


――橋は渡るためにあり、渡ったなら造り替えよ。


 碑の言葉。俺の言葉。目を閉じる。耳の奥で、世界の縫い目がかすかに鳴った。


(つづく)

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