EP2.傷口

 眠気で舟をこいでいる間にも、男はせっせと部屋中を動き回り、やがて僕の前で止まった。

 「おいおい傷口深いな…。これ破傷風になるぜ?今すぐ治療してやっから」

 男はそう言うと、ガーゼに茶瓶に入った謎の液体を浸した。傷口の前にそれを持ってきたとき、僕は本能で身構えた。しかし意外にも、まったくもって痛みを感じなかった。

 「魔法みたいだ…」

 「ン…そうだろ?万物に効く回復薬みたいなもんだな」

男はそういうと、「よし」と言って両肩を叩いた。

 「ありがとうございました。きっと貴重な薬だったろうに…」

僕がそういうと、男はいいんだと首を横に振った。

 「こんな世界じゃ生存者自体が少ない。大事にしねえとこれまでの努力がパーだ」

男は両腕を広げそういった。世界が壊れているのに、テンションは普通なのが少し引っ掛かった。

 「しっかしあんた、災難だな。まさか目覚めるなんて」

 「…どういうことですか?」

男はため息をつく。話始めようとしたのか口を少し開いたが、そのまま閉じた。沈黙が流れる。たった一瞬の間も、空気の重さ、顔に現れる暗さが、時間という概念を忘れさせるかの如く長引かせる。

 「…まあ、多分お察しの通り…、人類はほぼ絶滅した」

太い声が空間を漂い、重く暗い空気が、肩に、頭にのしかかる。余命宣告をされるときよりも、きっと、もっと、絶望するもの。

 「原因は反乱だ。研究中に被験者が暴走した。無謀な話だったしな。力を得たタイミングで暴れまわり、世界を壊してまわった。その結果がこれだ」

男は目線を上にした。ここはシェルター的存在だ。崩壊した世界は頭上にある。

 「そんなことが…。でも、じゃあ何で僕は生き残ってるんですか?」

 「さあ?そんなの知ったこっちゃない。たまたま運が良かっただけだな。それか能力者か」

男はお手上げと手を挙げた。

 「能力者って?」

 「文字通りだ。一つだけ超能力を手にした人のことだ。俺みたいな、な」

男は続ける。

 「要するに俺らは実験されてたんだ。人体を改造して覚醒させようっていう…。覚醒したら能力が使える」

 言葉がうまく出なかった。というより、あまりにも現実離れした話の処理を脳が拒んでいるようだ。

 「…なああんた、自分の名前とか故郷とか,覚えてるか?」

 「いえ…まったく思い出せなくて…」

 「だろうな。俺もそうだ。自分のことに関しての記憶が一切残ってない。逆を言えば、それ以外の記憶は残ってる。だからこうして同じ言語で会話できるし、あんたも薬品に浸ったガーゼを前に身構えられたってわけだ」

 「…バレてたんですね」

急にこっ恥ずかしくなって視線を逸らす。向こうもそれに気づいたのか、にやりと笑った。何とも性格の悪い人だ。

 「偶然じゃない、きっと何かがあるんだ。思い出せない理由が」

そこまで言うと、男は口を閉じ、うなだれた。

 「能力者って、おそらく何人もいますよね?思い出せないんですか?」

 「いや、実はかなりはっきりと思い出せる。でもあまり思い出したくはねえな」

男の声は明らかに低くなっていた。「俺自身の記憶はなくても、研究所にいた時の記憶は残ってっからさ」

 「なんか…すいません…」

 「何も謝るこたねえ」

そういいながらも、男はまだうなだれていた。

 「そういえば、ここに入った時から気になってたんですけど」

よく考えれば、この部屋は一人で使うには大きすぎる。食器棚らしきもののガラスは割れているし、重い荷物を運べるようなものも、痕跡もない。

 「あなたはここに住んでるんですか?」

男は黙っている。だがそれは、図星を突かれた時の人間の挙動だ。

 「…よくわかったな。俺はここに住んでない。あくまで一時的に使ってるだけだ」

 「何で定住しないんですか?世界が崩壊してるってことは、外の世界には脅威も多いし、無駄に動くと体力を消費するしであまり得策じゃない」

 「…二つ理由がある。一つ目は世界を崩壊したやつを見つけること。そいつを犠牲に元の世界が戻る、と文献に記されていた。二つ目は人探し。これは個人的な理由だな」

 「人ってもしかして、そこの写真の…?」

 「そうだ。あいつらとは崩壊前に別々に別れちまった。ただ生きてるはずだ。俺はまだあいつらになれない」

 死んだ人になれる。その能力は、ただの擬態だけではなく、生存確認にも使えるらしい。一見便利な能力だが、仲間の死を常にリアルタイムで確認できるというストレスも同時に抱えている。あまりにも代償が大きすぎる。

 「彼女たちとはどんな仲だったの?」

写真に写っている三人は、全員高校生くらいの女子だ。

 「普通にただの友達だ。だが、俺の友達はこいつらくらいしかいなかった。だから手放しちゃいけない奴らだったんだ…。悪い、忘れてくれ。」

 やってしまったという後悔が顔に映っている。

 「何だろうな。初対面なのにどこか落ち着く。心を許せる存在な気がするな」

男はそういってまたうなだれた。首の凝りが気になるほど曲がっていた。

 「あの…もしよければ、その旅に連れてってくれませんか?全ての元凶の討伐と、旧友との再会。全力でお供するので」

考えてみれば、僕は食糧ひとつすら持っていない。この先どう生きていくか、お先真っ暗な状態だ。この近辺で力尽き野たれ死ぬくらいなら、世界が変わる瞬間をこの目で見るのもいいかもしれない。僕は覚悟を決めた。

 「…そうか。いいだろう。今日からあんたは旅のお供だな」

 気づけば夜も深くなっていた。僕たちは軽く夕食を済ませ、すぐに床についた。どうやら明日移動らしい。

 「そういえば、あなたのこと何て呼べばいいですか?」

 「そうだな…俺は自分を『レイ』にしてる。まさかこんなところで使うことになるとはな」

短く呼びやすい呼び名だ。覚えやすい。

 「そうだ。かたっ苦しいから敬語はやめろ。‘‘アルル‘‘」

 「ア…何ですか?」

 「だから敬語をやめろよ。あんた、見た目がいかにもアルルだ」

何を言っているかはよくわからないが、僕は名前を思い出せていない。思い出すまでは、‘‘アルル‘‘としての人生も悪くない。

 「じゃあ…よろしく、レイ」

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