第3話 【後編】極楽往生

 休日の朝ご飯は少し贅沢なものにしている。

 パン屋さんで買った食パンと春が旬の桃、それと紅茶を淹れてテーブルに持っていく。


 トーストした食パンにバターを塗って食べる。噛んだ瞬間サクッと良い音がして、中はもっちり食感。バターの香りと塩味が美味しい。


「スンスン」


 旬の桃は甘い香りが広がり、五切れなんてあっという間に食べてしまった。まだ大量に残っている桃は、コンポートにしても、ジャムにしても良いだろう。


 親戚に福島で桃を作っている人から、大量に送られてきた。

 その人曰く、捨てるより食べられた方が桃も喜ぶらしい。


 極楽往生ごくらくおうじゅうを片手に紅茶を飲む。


 紅茶の香りは本を読む時に最適だ。

 その香りは頭の中をすっきりさせ、読書だけに集中させてくれる。


 本を開くと黄色いリボンの栞から、物語の続きは始まる。


 男性は学生時代に何度も来た丘で、彼女にこう言った。


「やりたいことがいっぱいあるんだ。でも、一人だとつまらないから、一緒に叶えてくれないか?」


「私でいいの?」


 不安そうに聞く彼女に優しく言った。


「君がいいんだ」


 それからノートに書かれた、死ぬまでにやりたいことを二人で叶え続けた。難しいことでも、屁理屈だの何だの言いながら、最後は気持ちの問題だと叶えたことにした。


 彼女は男性が諦めようとしても諦めず、叶えられないと思ったある三つを叶えてくれた。


 一つ目は登山。

 高い山は無理だったが、低い山を主治医の池谷さんと三人で登りきった。


 二つ目は有名な秋祭り。

 少し遠い秋祭りを時間の許す限り、浴衣を着て楽しみ尽くした。


 三つ目は袴を着る。

 彼女は振袖を着て、自分は袴を着て写真を撮った。痩せ細った自分を見て、残り少ないのだと自覚せざるおえなかった。


 少しずつ歩ける距離が短くなっていく。

 それを実感するたびに焦りと恐怖が増す。


 男性は少しくたびれたノートを撫でる。

 あと残り一ヶ月で、やらなければいけないことを叶えると痩せ細ったこぶしを握りしめた。


 紅茶を飲もうとした時、カップにもティーポットにも中身がないことに気づいた。


 五ページくらいで読むのをやめようと思っていたのに、夢中になって読み進めていたらしい。


「もうこんな時間」


 時計を見ると十一時を指している。ちょうどいい時間なので、昼食を食べに外に出かける準備をした。


 家から出て店を探しながら、空腹でお腹が鳴り始める。読書してただけなのに、お腹が空くなんて不思議だ。


 図書館の近くだけど、まだ行ったことのない喫茶店で昼食を取ることにした。


 おすすめはナポリタンと強調するようにポップが貼られていたので、ナポリタンを頼む。

 昔ながらのナポリタンだが、ケチャップの酸味と香辛料が食欲を誘い、あっという間に食べてしまった。


「あ〜、美味しい」


 白い紙ナプキンで口を拭くと、やっぱりオレンジ色に変わる。お手洗いに行き、色つきリップを塗った。


 会計して出ると十三時になっていた。

 喫茶店は図書館を少し過ぎた場所にあり、来た道を戻らなければいけない。


 桜の枝に蕾が出来始めていた。

 もうすぐ四月になる。




***




「あ」


 図書館に着き、いつもの席に行くと子供達が楽しそうに本を読んでいた。


 小さめのため息を吐き、別の席で読もうと空いている場所を探す。


 いつもより人が多く、なかなか空いている席が見つからず奥まで行くと一つ空いていた。


 近くに行くとその隣にあの男性が座っていた。


 話したのはたった2回で、顔見知りと言えるのかも分からない。挨拶をする関係性ではないと思うので、さらっと座ることにした。


 静かに座ると横から息を呑む音が聞こえた。

 驚いた気配を感じるが相手から声をかけられない以上、こちらから話すのも何となく気まずい。


 トートバッグから本を取り出し、少し隣が気になりつつも開いた。


 男性は一人ベットの中で、じっとノートを見つめる。


 最後の一つである、ウェディングドレスの文字に二重線が引かれていなかった。


 男性は心の中で思う、自分はもうすぐいなくなる。それなのに、この最後の一つを彼女と共に叶えていいのか悩んでいた、というより諦めていた。


 だから、全て叶ったことにしようとノートを閉じた。


 彼女が見舞いに来た時、すでに男性は一人で立つことが難しくなっていた。

 

 もう、君と会える日も残り少ない。


「ありがとう、全部叶ったよ。もうやり残したことはない」


 そう言って男性は笑ったが、彼女は俯くばかりで何も言わない。


「どうした?体調でも悪いのか?」


「うそつき」


 その一言と彼女の手にあるノートが目に入る。可愛らしい声には怒りが滲み、少し悲しげだ。


「なんで嘘つくの?やりたいこと、あと一つあったよね?」


 彼女の震える声に言い訳をしようにも、喉がギュッと閉まり言葉が出ない。


「それは、でも」


「もう、叶えられないんだよ?」


 顔を上げた彼女の瞳をきっと死んでからも忘れられないだろう。強い悲しみと怒りと隠しきれない寂しさ。


「でも、君に叶えてもらうなんて、そんなこと」


「叶えられないんだよ!死んじゃったら、叶えてあげられないでしょ!?」


 ボロボロと大粒の涙が次々と溢れて、それを雑に拭う袖に手を伸ばしたが届かない。


「でも、やっぱり叶えるのは」


 諦める、そう言おうとした。

 けれどその言葉は、彼女の叫びで叶わなかった。


「諦めないでよ!!叶えさせてよ!!約束したでしょ!?全部叶えるって!!」


 もう嘘はつけなかった。


「いいのか?本当に叶えても」


「いいよ、叶えさせてよ。お願いっ」


 男性は泣きながらこう思った。


 今、死んでもいい。


 不意に隣が動き、横を見ると男性がこちらに手を伸ばしたまま固まっていた。


「あの、どうかされました?」


「あ、いえ、その」


 伸ばした手を戻し、目線を下に向けた。

 それからごそっと体ごとこちらに向き、男性は口を開いた。


「あの、女の子に栞をもらったのを覚えてますか?」


「はい、覚えてますよ。お兄さんは紫の栞をもらってましたよね」


 そう答えると目をまんまるに見開き、パチパチと何回か瞬いた。


「え、お、覚えてるんですか?」


「はい、可愛い栞だったから」


 心底驚いたようにするものだから、思わず笑ってしまった。


「ふふ、そんなに驚きますか?」


「え、あ、えっと、はい、驚きました」


 そういえばと思い出し、紫の栞にある押し花はどんな花か聞いてみた。


「あの、お兄さんがもらった栞の押し花って何か分かりますか?」


「、、、押し花?花の種類ですか?えっとたぶんですけど」


 パンジー、ラベンダー、カスミソウと一緒にクマのシールが貼ってあった。


「かわいい」


「え?あ、クマのシール」


 少し恥ずかしそうに瞬きするお兄さんの方が可愛かった。


「ふふ、可愛くて私は好きですよ」


「あ、あ、ぼ、くもすきです」


 顔を真っ赤にして言う彼に、少しほっとしたのはなぜだろうか。


 ムムッと考えていると、真っ赤なまま聞いてきた。


「あの、いつも何を読んでいるんですか?」


「読むのは小説ですね。推理小説でも、恋愛小説も読みます」


 ふむふむと頷く彼は質問を重ねる。


「今は何を読まれているんですか?」


極楽往生ごくらくおうじょうという小説です」


—————


 男性はタキシードを着て車椅子で移動していた。


「まさか、アンタの晴れ着姿を見られるなんて」


「うん」


 母親は車椅子を押しながら、嬉しそうに言ってくれた。自分も嬉しくて、泣きそうだ。


 彼女はウェディングドレスに着替えている最中で、男性は撮影スタジオに向かっていた。


 自分の願いを叶えると言ってくれた彼女の行動力はすごかった。あっという間に予約を取り、全ての準備を驚いている間に終えていた。


 やる気満々の彼女に、ごちゃごちゃと考えているのがバカらしくなった。それから、どっちのタキシードがいいのか、どっちのウェディングドレスがいいか、楽しくて嬉しくて笑うのに必死だった。


「楽しみね、あの子のウェディング姿」


「うん、たのしみ」


 スタッフに連れられ、コツコツとヒールを鳴らして姿を現したのはウェディング姿の彼女。

 泣かずに済んだのは、母親の黄色い悲鳴が耳を突き刺してきたからだ。


「きゃー!綺麗よ!本当に!!」


「ありがとうございます!夢だったんです!」


 彼女の夢だったウェディングドレス。

 彼女の幸せを願う自分には、叶えられないと諦めていた。ノートに書いた時、痛む胸を押し殺した。


「待たせてごめんね!最後の一つ、叶えに行こう!」


「おう!行こう!」


 信じられないほど綺麗な彼女の手を握った。


 男性は最後の一つを叶えると、まるで後悔はないというように、一週間後に息を引き取った。


 光が降り注ぐ中、歩く男性は一度振り返る。

 最後に家族と彼女の顔を見た後、雲間から見える光の中へと消えていった。


—————


 お兄さんに極楽往生ごくらくおうじょうの物語を簡単に話すと、複雑そうに眉間に皺を寄せていた。


「とても素敵な小説ですね」


「はい、読んでいて感動しました」


 テーブルをじっと見つめる彼は、何を考えているのか。


 ただ一つ言えることは、素敵だとは思っていないということ。じゃないと眉間に皺を寄せながら栞を握らないはずだ。


「栞、曲がってますよ」


「え?あ!」


 曲がってしまった栞を必死で伸ばしている姿は、どこかアライグマに似ている。


「ふふ、可愛い」


 また彼を見かけたら、次は話しかけられる気がした。

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