多喜亮珠、呉萠妃――放課後④

「どうしました!?」


 さっきのクレさんという女子の声だった。

 そのやや低い声色が天の助けに思えた。


「AEDを持ってきてください! 早く!」

「AED! ……どこに」

「多目的トイレの正面!」


 大声でこたえると、すぐに「あ、はい!」という返事が帰ってきた。


 それから40回か50回ほど彼の胸を押し込んだ頃だろうか、AEDのパッケージを抱えた背の高いバレエシニヨンの女子が男子トイレに飛び込んできた。


 多喜が心臓マッサージを続ける横で、彼女はAEDのパッケージを開く。


「これを、どうしたら」

「とりあえず、シャツを、胸まで、めくってください。襟の、肌着は、ぼくが、破ります」


 胸部圧迫とAEDはボランティア活動の一環で講習を受けていた。人工呼吸だけは当時はみんな恥ずかしがって受けなかったが、この状況下になるとあの時受けておくべきだったと強く感じる。


 クレが上田のポロシャツを肋骨のあたりまでめくりあげると、言葉通り多喜が上田の薄手のティーシャツを全開にしたポロシャツのボタンの際までまで裂いた。そして再び心臓マッサージに戻る。


「まず、電源ボタン、押して、ください。音声で、指示が、流れる、んで、その、手順、通りに、パッド、貼って、ください」


 そう言われてクレは頷いて、AEDの本体の電源を入れた。


 すぐにノイズを含んだ男性の声のアナウンスが流れた。

 指示に従い、除細動パッドを出した。それを胸部圧迫を続ける多喜の向かいから、右胸と左脇腹に張る。


「解析が必要です。体から手を離してください」


 というアナウンスをうけて、多喜は過呼吸のように大きく息をしながら体を離した。


「電気ショックが必要です」というガイド音声が流れる。

 これをきいて、クレさんはボタンに指をかける。


「離れて、電気流します」

 そう言われて、多喜は狭いトイレでやや距離を取るように身を引いた。


 彼女が電気ショックのボタンを押す。びくん、と上田の体が一瞬痙攣する。


「胸部圧迫を再開してください」


 そのアナウンスを聞いて、再びのしかかるように多喜は猛然と上田の胸の上に手を重ねた。

 その向かいでクレは携帯を手にしている。


「救急、つながりませんか?」


 そう問われて、彼女は首を横に降った。


「ここ、電波がなくて……右の部室のトイレは通じるのに」

「窓辺の近くいってみてください。そこなら電波拾えるかも」


 言われた通り、立ち上がって窓辺に携帯電話をかざす彼女。


 そんなやりとりをしていると、再びトイレの扉が開いた。

 現れたのは城戸だった。


 城戸は、上半身むき出しで心臓マッサージを受ける上田と心臓マッサージを行う多喜、そして電波を探すクレを見て、落ち着いた声で言った。


「どういうことだ。説明しろ」

「自殺です。様子を、見に来たら、そこの、個室の枠で、首つってました。助けを、呼んでいたら、彼女が、駆けつけて、くれて」


「……あの、119番に」

「いや、それは私から掛けよう。君は……」


 そういって、城戸はトイレの天井灯を今更につけて、自分のボディカムを覗き込んだ。


「2年生のゴ・ホウヒさんだね」

くれです。くれ萠妃めぐみです。戦前に帰化したので」


「そうか、失礼した。ここはもう私達に任せてもらって構わない。君は帰りなさい。緊急時という状況は把握したから、君の明日の罰則はなしとしよう。日もくれてもう暗くなる。すぐに帰った方が良い」

「え、でも……」


 そう言い、天井灯がつくまでは表情も読み取れないほどに薄暗くなったトイレで、荒い息遣いで心臓マッサージを続ける、いま倒れている彼と同じ制服の少年の顔を覗き込んだ。


「大丈夫、まだ、やれる。先生も、来てくれた、し」

「そう……」


「大丈夫だ。後は我々が受け持つ。なにか心配なことや不安なことがあったら、保険医にカウンセリングを受けなさい。君はよくやってくれた。さあ」


 そういって、城戸はトイレのドアを開けた。

 そこまでされては出ていくしかない。呉萠妃と名乗った美しい2年生は、廊下に投げ出した自分の荷物を拾って暗い廊下を正面階段のほうへと歩き去った。


 彼女が去ったところで、

「心臓マッサージ、どれだけ続けている?」

「わかり、ません。いま、何分、ですか」


「6時51分だ」

「じゃあ、6分、以上です」


「そうか、やめていいぞ」

「まだです。それより、救急車、呼んで、ください」

「いいから、やめろと言っている。どっちにしろもう持たん」


 そういって、城戸は多喜の肩を掴んで上田の体から引き剥がした。


「救急車ではなく当局を呼ぶ」


「は?」


「これはテロだ。自殺に見せかけた校内での暴力行為だ」

「どういうことです。なにか知ってるんですか」


「本校の監視体制はより強固にする必要があるとかねてより思っていた。行き過ぎた個人自由主義は戦時下においては体制への過剰な反抗感情の火種となる可能性がある。私はそれを摘発するための努力をこれまで続けてきたが、それが口惜しくも、今日、このような形でその根拠となる事態が生じてしまったということだ」


「先生、言ってる意味がわかりません。上田は、いっちゃあなんですけど向いてないヤツでした。この自殺は向いてない作業を無理して続けたからだと思います! 先生も、こいつが警棒術の時に人を叩くのを嫌がってたのをご存知でしょう! この前の全生徒の背中を踏むのだって、アイツ後でクソ凹んでたんですよ!」


「だからこそだよ。我々は適性のない生徒であっても心理的ストレスが発生しない範囲で業務を遂行すべきだった。……しかし! この学校は! この学校固有の校風故に! それを阻害する要素が大きかったということだ!」


 多喜は、肩で息をつきながら、ようやく酸素の回ってきた頭で少し考えた。


「……先生、上田の自殺を利用する気ですか」

「言葉を慎みなさい。いずれにせよ、ここから先は大人が決めることだ」


 そう言い切る城戸の横で、無情なまでに落ち着いた声のAEDのアナウンスが改めて呼びかけた。


「胸部圧迫を続けてください。至急救急車を呼んでください」


 笑えないほどに滑稽だった。この場で唯一人間性のあることをいっているのが、AIですらない機械の声だけなのだから。

 多喜は唇を噛んで、歪む視界を払うように目をこすった。汗が目に入って痛みが走り、涙が出る。


「……救急車だけは、呼ばせてください。死因がなんであれ、最後くらいまともにしてやってください」


 そういって、尻ポケットの携帯電話を取り出した。


「いいだろう。上の階に出て電話をかけなさい。ここは窓を開けても電波の受信状況が限られる。通話には向かない」


 言われた通り、廊下に出て正面階段を登り、そこで緊急用ダイヤルの通話を開いた。


 ……再び男子トイレに戻ると、上田の遺体の状態はさっきまでとは若干姿勢が変わっていた。どこがどうかわったというのは言い表しにくいが、例えば首筋にみょうに赤い跡が増えたように見えた。そして、個室の枠にぶら下がっていたハーネスが取られている。


 そして救急車は10分ほどで到着した。

 その10分間、城戸先生は形だけの心臓マッサージを1人で続けた。その作業を救急隊員に引き継いだときには、上田の手足はすっかり冷たい床とおなじくらいに冷え切っていた。


 救急車に続いて警察と統合秩序推進局の車が来た。

 多喜は警察からの事情聴取とその場での指紋採取、DNAサンプルとしての唾液の採取のみをを求められて、すぐに帰された。


 それでも、学校の校門を出たのは8時近くになっていたし、職員室の先生たちも騒然としていた。日直の先生や教頭などはおろおろとした様子で、城戸先生はいつもより多少深刻そうな顔をして、警察や支部の人間と話を続けていた。


 それを背に、多喜は家路についた。


 いつもより、荷物が軽く感じた。ボディカムがないせいだろうか。緊急事態を伝えるために壁に投げつけたボディカムは現場の証拠となる映像記録が残っている可能性があるからと警察にそのまま引き取られた。代替品は統合治安推進局の支部から、明後日の朝には学校に届くという。

 緊急時の対応ということで、仮に破損していたとしても修理代は求められないとのことだった。


 帰りの夜道は、暗く長く感じた。本来ならば全て灯っているはずの街灯が一つおきに消されているせいだろうか。公園に入るとその街灯の消えている間隔は一層広く、深い闇が広がっているように感じられた。


 街灯の一部消灯は電力不足状況下での省エネ政策の一つだ。このためにいわゆる女性の性暴力被害も増えているという。


(呉さん、無事帰れたかな)

 そんなことをぼんやりと思ったが、腹の底から心配するほどの余力はなかった。


 両手に力が入らないのだ。上田に対して、自分の寿命の何ヶ月か分を注ぎ込んだようだった。それでも、命は繋ぎとめられなかった。


 その無力感に勝る疲労感で、頭の中が真っ白になるのを感じながら帰りの満員電車に揺られた。

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