呉萠妃――夜の地元で

 萠妃は、まっすぐ帰宅するわけではなかった。

 学校を出るとほとんど駆け足で駅へ向かい、そのまま客のまばらな上り方面の列車に乗った。


 髪だけは部室前のトイレでシニヨンに作り上げておいた。だが、そこに時間を割いたせいであんな大事に巻き込まれるとは思いもしなかった。

 3駅隣で降りると、その足で駅前のダンススタジオに入る。これからバレエのレッスンだ。


 レッスンは既にはじまっていた。挨拶だけしてすぐに更衣室に入り、着替えて荷物を置き、基本ポジションの練習に混ざる。


 序盤はいつもやることは同じだから、だいたいの要領はつかめている。本来ならばレッスン前に入念に行うストレッチも、今日は演劇部にまぜてもらったおかげでアップ済みである。


 いつもどおり、音楽学校受験を想定した実践練習だった。このクラスは14歳から18歳まで、全員西の歌劇団の音楽学校志望者である。3月の首都会場での1次試験合格者も、萠妃を含めて3人ほど居る。そしてその3人とも3月の首都ターミナル駅爆撃の影響で二次試験の来年3月への繰り越しの指示を受けている。


 間違いなく実技の入試難易度は例年より高まる。そう思って、全員が全員、全ての指導を吸収すべく自分への指導だけではない講師の全ての言葉に耳目を向けていた。


 そこでみっちり2時間踊り通した後、ようやく帰宅する。

 さらに上り電車に乗って私鉄と地下鉄の入り交じる大規模なターミナル駅から、私鉄の下りに乗り換える。


 この帰りの私鉄の電車が、今年度に入ってから少し憂鬱だった。

 毎度、バレエのレッスンの帰りに乗ると、同じ時間帯に他校の国防コースの男子高校生と遭遇するのだ。


 そして、いつもじろじろとこちらを見てくる。

 まるで自分が半島系のルーツをもつ人間だと知っているかのような蔑む眼差し。


 この下り列車で、問題の男子高校生と乗り合わせる時間は15分ほどだろうか。始発駅なので運が良ければ座りで最寄り駅の一つ前まで特急でいける。そこから各駅停車に乗り換えるため、ここで彼とは距離が取れる。


 そして駅に降りて、徒歩5分のところに自宅兼家業店舗『ホルモン焼肉金鐘』がある。


 地元の最寄り駅を降りてすぐのところに小さな商店街があるが、それを抜けると急に暗くなる。今は電力制限のせいで一層暗い。


 帰り道はいつも疲れ果てていた。かろうじて空腹だから眠らずにいられる、という感じである。

 それに加えて今日は心理的な負担も大きかった。


 例の、オーダー科生の心肺蘇生だ。あの子は本当に息を吹き返しただろうか。せめて心臓マッサージをしていた彼と連絡先だけでも交換できていたら、その後のことがわかるのに。


 帰りがけ、電車の中で検索したが、長時間心肺蘇生をしても息を吹き返さなかった場合、脳に障害が残る可能性があるという。なぜ心臓マッサージが必要な状況になったのか、よく考えたらそれすら聞いていない。


 明日になれば何かわかるだろうか。それとも、大山先生みーちゃんに聞いたほうが本当のことを教えてもらえるだろうか。


 いずれにせよ、あの時、せめて息を切らして心肺蘇生を続けていた彼に代わって、自分があの胸部圧迫なり人工呼吸をできれば多少は状況は代わったのではないだろうか。

 そういう知識を全く持たない世間知らずな自分が、無力に思えた。


 ふらふらとよろけながら暗い夜道を歩いていると、ふと背後に気配を感じた。


 嫌な予感がして、いつもは通らないカーブミラーのある角をわざと曲がった。曲面状のカーブミラーであれば、背後に追跡する人間がいればその姿が見えるはずだ。


 後ろからついてくる人影はたしかにあった。


 左、右、右、とさらにカーブミラーのある通りを大回りして、家から離れる道へと迂回する。街灯の光量の多い幹線道に出て、交番の前を通り、この辺では唯一深夜まで営業している街道沿いのドラッグストアに入った。


 店内のカゴをとり、品選びをしているふりをして、後をつけてきた人影を待った。


(もしかしたら、店の外で待たれているかもしれない)


 思い切って品出し中の店員に声をかけ、事情を話した。


 その店員さんは励ますような笑顔で頷いてから、毅然とした顔で店の陳列商品の具合でも見に行くような素振りで店の外に出た。

 しばらくして店員さんはもどってきた。


「いたけど、私がしばらくじっと見てたらいなくなったよ」

「どんな人でした?」


「グレーのポロシャツにグレーの短パンの子」


「靴は革靴、ボディハーネスっていうか、リュックサックの紐みたいな太幅のストラップつけてませんでしたか? あと背は、私と同じくらい?」


 それを聞いて、店員はうんうんと頷いた。


「よくわかるね。靴まではよく見てないけど、胸のあたりに変なバンドはつけてた。背丈もあなたぐらいで、髪型は黒いキャップでわからなかった」


 黒いキャップと聞いて完全に確定した。オーダー科生の夏服と同じ服だ。

 それはつまり……。


(いつも電車で一緒になる他校よその国防コースの子だ)


 萌妃は唇を噛んだ。

 真っ先に頭をよぎったのは、これがバレエの帰り道であるという点だった。


 長年通っている歌劇団受験に長けたバレエスクールだから、今更辞められない。事情を話して受講する時間を変えてもらうべきだろうか。だが、それでは先生が変わってしまう。今指導してもらっている先生がスクールで一番音楽学校の合格率の高い先生だというのに。


 しばらく迷ってから、対応してくれた店員に頭を下げた。

「ありがとうございました。今日は助かりました」


 そして萌妃は母親に電話をかけた。

 薬局に買い物に来たけど疲れて帰れないから迎えに来てほしいと頼み、しばらく店内を物色した。母と合流してからは、いつも買っているEAAとボディミルクの詰め替えを手に取り、レジを済ませた。


(学校とレッスンだけでも大変なのに、この上ストーカーか……)


 ため息をついて、母の運転する車の助手席の座り、自宅に帰った。久々の車だった。今はガソリンも戦前の倍近い値段になっている。普段の近所の買い物はほぼ自転車で回っている。


 家につくと、祖父が大げさなくらい心配そうな顔で出迎えてくれた。


 学校から電話があったという。明朝、都合がつく時間に警察が簡単な試料採取と聞き取り調査に来たいという話だったそうだ。


 父も、普段は滅多なことでは営業中の店から居住部分には戻ってこないが、この時はめずらしく様子を見に来た。


「大変だったな。じゃ、店戻るから」


 父はそれだけ言って1階の店に戻った。その表情は祖母が亡くなる前を思い出すほどに、心配そうだった。

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