キートン

山奥の一軒家

 終わらない霧が、山荘を貪り食っていた。


 車を止めた時点で、もう視界は数メートル先も霞んでいた。白というより、汚れた灰色の綿が、山全体を覆い、呼吸し、ゆっくりと鼓動を打っているようだった。窓の外に広がるのは、色を失った世界。緑も青も、すべてを飲み込んでしまう濃密な霧だ。


「やっぱり来るんじゃなかったよ…ナビも圏外だし」


 僕は呟き、ハンドルを握った手に力を込めた。友人たちと待ち合わせていた温泉旅館のはずが、なぜかこの古びた山荘に迷い込んでしまった。地図にも載っていない、どこに存在するのかもわからない山奥の一軒家。


「でも雨だし、霧もひどいし、もう暗くなるし…ここで一晩過ごすしかないでしょ。誰かいるだろうから、事情を話せばなんとかなるよ」


 隣の席で美優が言った。彼女の声は明るく装おうとしているのが伝わってくる。ガソリンもあまりない。彼女の言う通りだ。


 覚悟を決め、車を降りると、冷たく湿った空気が肌に張り付いた。霧は微細な水滴となって、頬を伝う。不気味なまでに静かで、僕たちの足音さえも吸い込まれてしまう。


 山荘は二階建ての木造建築で、雨戸がいくつか閉められ、廃墟のような侘しさを漂わせている。しかし、玄関の灯りはかすかに灯っており、煙突からは細い煙が上がっていた。人がいる証拠だ。


 僕が古びた呼び鈴を押すと、しばらくして、きしむ音と共に玄関のドアが開いた。現れたのは、背の低い老女だった。顔には深い皺が刻まれ、色の褪めた着物をまとっている。その目は、濁ったガラス玉のようで、焦点が定まっていない。


「ご用件は?」


 老女の声は、枯れ木の擦れるようなかすれ声だった。


「すみません、道に迷ってしまって…。霧がひどくて先に進めません。一晩だけ泊めていただけないでしょうか?」


 僕が頭を下げて頼むと、老女はゆっくりと僕らを上から下まで眺めた。その視線は、冷たく、物体を評価するようだった。


「…仕方ない。ただし、決して外に出てはならん。特に霧の中にはな。あと、お前たち、風邪など引いておらぬな?」


 不意の確認に、美優が首を傾げる。 「いいえ、大丈夫です。でもなぜ?」


「…構わん。ただの気遣いだ。さあ、入るがいい。ただし、二階の右端の部屋は決して開けるでない。わかったな」


 老女は警告めいたことを言うと、無言で我々を招き入れた。


 館内は、外観以上に古く、湿った木材とカビの混ざったような匂いが立ち込めていた。薄暗い廊下には煤けた肖像画がいくつも掛かっており、画中の人々の瞳が、我々の動きを追っているように感じる。


 用意された部屋は質素な六畳間だった。ストーブはあるが、寒気は骨の髄まで染み込んでくる。美優は震えながらストーブの側に蹲った。


「なんだか、すごく嫌な場所だね。あの婆さんも、すごく不気味だったし」


「同感だ。でも、外の霧よりはマシだろ。明日の朝になれば晴れてるかもしれないし」


 そう言って彼女を慰めようとした時、激しい咳払いが隣の部屋から聞こえてきた。ゴホン、ゴホン…という苦しげな軋るような咳。それはまるで、肺が千切れそうな音だった。


「お隣、大丈夫なのかな?」


 美優が心配そうに壁を見る。


「触らぬ神に祟りなしだ。よけいな干渉はするなと婆さんに言われたようなものだ」


 しばらくして咳は治まった。代わりに、重たい沈黙が部屋を満たす。


 時折、どこからか聞こえるしわがれた咳の音と、這うように這い寄ってくる霧の気配だけが、時間がまだ経っていることを教えてくれる。


 しばらくして、喉が渇いた美優が水を飲みに階下へ降りていった。しかし、なかなか戻って来ない。不安になり、僕も部屋を出て階段へ向かう。


 すると、ふと、老婆の囁く声が聞こえた。台所の方からだ。そっと近づき、耳を澄ます。


「…また外から来たのか。あの霧が連れてきおった…。もうすぐだ。もうすぐ皆、お前のものになる。『わたり』が始まる…」


『わたり』? それは何だ?


 不意に、背後で激しい咳込みが起きた。振り返ると、そこには美優が立っていた。しかし、彼女の様子が明らかにおかしい。顔面は紅潮し、目は虚ろだ。そして、手で口を押さえ、先ほど隣の部屋で聞いたのと同じ、肺をえぐるような咳をしている。


「美優!? どうした!?」


 駆け寄ると、彼女はぼんやりとした目でこっちを見て、首を振る。


「わ、わからない…さっき、下で婆さんがお茶をくれたんだ…それを飲んだら…急に…寒気がして…」


 彼女の額に触れる。信じられないほどの熱さだ。


「あの婆さんめ…!」


 台所に躍り込むと、老婆はこちらを向いて、歪んだ笑みを浮かべていた。その口元は、耳まで裂けているように見えた。


「遅かったな。もう『菌』は回った。あの娘は『霧の子』になったのだ」


「『菌』って…!? いったい何をした!」


「この山の霧はな、ただの水蒸気ではない。古より棲む『古きもの』の息だ。それを吸い、あるいは飲み込んだ者は、やがて『古きもの』の一部となる。熱を発し、咳と共に新たな菌を霧の中に撒き散らす。それが『わたり』(渡り)だ。新たな宿主を求めてな」


 老婆は楽しげに語る。


「俺たちを…伝染病に…?」


「伝染病? ふふふ…とんでもない。これは『神懸かり』だ。私は長くここで『古きもの』に仕え、その『わたり』を助けてきた。お前たちのように迷い込んだ者を選び、霧と共に送り出すのだ」


 美優の激しい咳が、廊下に響く。彼女の吐く息が、白い微細な霧のように見えてならない。その息が、部屋の中に、ゆっくりと広がっていく。


 窓の外を見る。濃い霧が、今まさに家の中に流れ込んできているように見えた。目の前の老婆の輪郭が、霧と同化して、歪んでいく。


「さあ、次はお前の番だ。永遠の霧の一部となるがいい」


 老婆の声が遠のいていく。美優の咳と自分の鼓動の音だけが、どんどん大きく響く。


 吸い込む空気が、冷たく、そして重い。喉の奥に、得体の知れない微小な粒子が這い込んでくるような感覚。


 もはや、逃げ場はない。


 この霧そのものが、病原体であり、この山荘はその培養器だ。


 僕は反射的に息を止めた。しかし、それは無意味な抵抗だった。もう肺の奥深くまで、あの忌々しい「菌」は入り込んでいる。冷たい感触が気管を這い、肺泡に染み渡る――そんな幻覚に苛まれる。


「美優!」


 咳き込む彼女に駆け寄り、その肩を抱く。彼女の身体は火のように熱く、微細な震えが絶え間なく続いている。額には脂汗がにじみ、瞳孔は開き、こちらの顔すらまともに認識できていないようだ。


「はぁ…はぁ…涼しい…もっと…」


 彼女は意味不明の言葉を紡ぎながら、私の冷たい手を求めるようにもがく。その肌に触れた私の指先に、ぞわりとした違和感が走る。まるで目に見えない胞子が、彼女から私へと移っていくような、微かなかすれ痒さ。


 私は咄嗟に手を引いた。


 美優は突然の支えを失い、床に崩れ落ちた。そして再び、あの肺の腑を抉るような激烈な咳込みを始める。ゴホッ、ゴホッ、ゲホッ! その響きは、もはや人間のものとは思えない。何かが彼女の内側で暴れ、孵らんとしているような――。


「さあ、こい…」


 老婆が囁く。彼女の濁った目が、私ではなく、私の背後にある窓を見ている。


 振り向くと、窓枠の隙間から、より濃密な灰色の霧が、まるで生き物のように這い入ってきていた。それは床を伝い、美優の震える身体へとゆっくりと近づく。霧の先端が彼女の指に触れた瞬間、美優の身体をより強烈な痙攣が襲った。


「アッ…アアアッ…!」


 彼女の口から、嗚咽とも悲鳴ともつかない声が漏れる。そして、信じられない光景が目の前で起こった。


 彼女の皮膚の表面――特に汗で濡れた頬や首筋に、微細な、ごくごく小さな白い糸のようなものが、無数に浮かび上がってきた。それはまるでカビの菌糸のように、そして彼女の吐く息と混ざり合い、微かな霧を形成し始めている。


「見事だ…『古きもの』の息が、新たな器に根付いた…」


 老婆は恍惚とした表情で呟き、拝むように両手を組み合わせる。


 私は凍り付いた。恐怖よりも先に、純粋な理解不能への拒絶感が脳裏を支配する。これは伝染病なんかじゃない。そんな生易しいものの枠を、完全に超越している。


 逃げなければ。この場から離れなければ、美優と同じになる。


 それだけの思考が、麻痺した頭の中でようやく巡る。


 私は後ずさりし、踵を返して暗い廊下へと飛び出した。背後で老婆の「待て!」という声と、美優の続く苦悶の咳が追いかけてくる。


「どこへ…? どこへ逃げれば…?」


 廊下は来た時よりもさらに暗く、長く感じられた。煤けた肖像画の人物たちの瞳が、私の慌てふためく姿を、冷ややかに、そしてどこか憐れむように見下ろしている。


 老婆の警告を思い出す。 『二階の右端の部屋は決して開けるでない』


 禁止されるほど、人間はそれを知りたがる生き物だ。そして今、その禁を破ること以外に、この異常な状況への答えがあるだろうか? もしかしたら、あの部屋にこそ、この恐怖の正体、あるいは対抗手段があるかもしれない。


 私は息を切らしながら二階へ駆け上がる。    階段は軋み、まるで私の体重を拒むかのようだ。


 右端の部屋の前には、他の部屋にはないほど分厚い錠前がかけられ、ドアの縁にはぼろ布が詰められ、隙間から霧が流入しないように細工がしてある。明らかに、ここだけが隔離され、封印されていた。


「開けろ…!」


 私は叫びながら、錠前を揺すり、ドアを蹴飛ばす。木材がきしむ嫌な音がする。


 何度も何度も肩を打ち付ける。狂ったようにドアを蹴る。


 ゴン! バン! という鈍い音が、山荘じゅうに響き渡る。


 そしてついに、老朽化した木部が悲鳴をあげ、錠前の周辺が裂け、ドアがわずかに隙間を開けた。


 私は息を詰め、その隙間から中を覗き込む。


 部屋の中は、外の廊下よりもさらに濃い霧が充満していた。そして、何よりもまず、鼻を突く強烈な腐敗臭とカビ臭が襲ってきた。


 目を凝らすと、部屋の中央に、ベッドらしきものがある。そして、その上に、幾人もの人影が横たわっている――いや、正確には「横たわっている」という状態ではなかった。


 それらは、もはや人間の形を保っているかすら怪しい。ベッドと一体化したかのように、全身を灰白色の菌糸状の物質が覆い尽くし、所々からは、ぼってりと太い、キノコのようなものがにょきにょきと生え出ている。その一部は破裂し、内部から微細な粉――胞子を霧のように噴き出させていた。それらが部屋の濃霧の正体だ。


 そして、最も恐ろしいのは、その「物体」の一部が、ゆっくりと、しかし明らかに動いていることだった。菌糸に覆われた腕がもぞもぞと震え、変形した頭部がかすかに揺れる。彼らは死んでいない。この状態で、まだ「生きて」いるのだ。老婆の言う『霧の子』が、完成形に至った姿なのか、それとも途中経過なのか。


「あ…」


 声が出ない。胃の中のものが逆流しそうになるのを必死で押さえる。


 これは地獄だ。


 私はのけ反り、這う這うの体でその場から離れようとした。


 その時、背後から冷たい手が私の肩を捉えた。


 振り向くと、そこには美優が立っていた。しかし、彼女の表情はもうない。顔の皮膚の下で菌糸が蠢き、白く濁った目は虚空を見つめ、口だけがだらりと開き、内部が曇ったガラスのように見える。そして、その口から、ゆっくりと、濃い灰色の霧が湧き出ていた。


 彼女の手の力は尋常ではない。熱く、そして異様に硬い。


「美優…? 美優…!」


 私が呼びかけても、反応はない。彼女はただ、ゆっくりと、確実に、私を開いた部屋の方へ、あの地獄絵図の中へと引きずり込もうとしている。


「離れろ!」


 必死で振りほどこうとするが、まるで鉄の枷のようだ。


 そして、もう一人の影が、階段の方からゆっくりと登ってくる。老婆だ。彼女は無表情で、じっとこの光景を見ている。


「最早、手遅れじゃ。お前も最早、同胞の一人じゃ。抗うのは無駄なことよ」


「ふざけろ…! 離せ! 離しやがれ!」


 私は絶叫した。しかし、美優の力は増すばかりだ。足は床に擦れ、ついに部屋の入口まで引きずり込まれる。


 部屋の中の濃密な霧が、むわっとした生温かさを持って私を包み込む。あの腐敗臭とカビ臭が、一気に私の気道を埋め尽くす。


「ぐぁっ…! げほっ!」


 思わず吸い込んでしまった。肺が痙攣する。吸い込んだ霧が、体内で蠢く感覚。熱が一気に全身を駆け巡る。視界が揺らめき、白く濁っていく。


 意識が遠のいていく。最後に見たのは、無数の菌糸が這う天井と、私に覆い被さる美優の――もう美優ではない何かの――顔と、その口から立ち上る、貪欲な灰色の霧だった。


 そして、すべてが、深く、深い霧の中へ沈んでいった。


……


 目が覚めた時、世界は静かだった。


 以前とは違う感覚。身体が重い。しかし、それは苦しい重さではなく、地に根付いたような、奇妙な安心感を伴う重さだ。


 寒くはない。むしろ、心地よい温もりが体内から湧き出ている。


 私はゆっくりと起き上がった。ここはあの忌まわしい二階の部屋だ。周囲には、菌糸に覆われた同胞たちが横たわっている。彼らは静かで、しかし確かに生きており、私はその生命の鼓動を、肌で感じ取れる。一つに繋がっている。


 窓の外では、相変わらず濃い霧が立ち込めている。しかし、もうそれは恐怖の対象ではない。それは我々の身体そのもの、我々の呼吸そのものだ。


 階下から、ゆっくりとした足音が近づいてくる。老婆が現れた。彼女は満足げな笑みを浮かべている。


「ようやく目覚めたか。歡迎しよう、新たなる『霧の子』よ」


 私は言葉を発そうとしたが、口から出てきたのは、かすれた息と、ごく微かな、光る胞子の粒だった。


 老婆はうなずく。


「言葉は要らぬ。もうお前は孤独ではない。ここには同胞がおる。そして、我々にはなすべきことがある」


 彼女は窓の外の濃霧を見つめた。


「この霧は、まだ広がらねばならん。新たな器を求めてな。迷い込む者を待ち、選び、『わたり』を続けるのだ」


 私はゆっくりと窓辺に歩み寄った。私の動きは、かつての人間らしさとは異なり、もっとゆったりと、そして確実に感じられる。


 窓ガラスに映る自分の姿は、もはやかつての私ではなかった。皮膚は灰白色で、その下で何かが静かに脈打っている。瞳は白濁し、しかし、その視界はかつてないほどに鋭く、霧の向こうにあるもの――遠くの山道を這う一台の車のヘッドライトを、はっきりと捉えていた。


 新しい迷い人が来る。


 老婆が傍らで囁く。


「さあ、始めよう」


 私はゆっくりと口を開いた。深く息を吸い込み――そして、冷たく湿った、同胞である霧を、新たな来訪者へと送り届けるための、長く静かな呼気を吐き出した。


 窓の外では、霧がより一層、その濃度を増していった。






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