第45話 裁判開廷まであと五秒
「ど、どうしよう……」
グラードは真っ青な顔のまま、いきなり馬車の走り去った方に駆け出そうとする。アイリスはその背中に慌てて声をかけた。
「待って。今から走って追いかけたって間に合わないよ」
「チクショウ。ブランがいたら、追いかけられるのに!」
足を止めたグラードはハッとしてアイリスの肩に載っているティファを見た。
「ティファ、今から飛んで馬車を追いかけるんだ!」
その言葉にアイリスは時間の計算をする。今から空を飛んで馬車を追いかけて、その馬車を止めて、許可証を手に入れて戻ってくる……。
「間に合わない」
アイリスが答える前に、ティファが答えた。肩に止まっているティファの足がかすかに震えていることに気づいて、アイリスはぱっとティファの横顔を見る。
「……ボクが、空間を飛ぶよ」
ティファはふわりとアイリスの肩から飛び上がり、アイリスの真正面に浮かぶ。
そのセリフは平然としていて、いつも通りに聞こえるけれど、アイリスはその顔がかすかに強張っていることに気づいた。
「そんなこと言ったって、ティファ、まだ体調が完璧じゃないんでしょ?」
とっさにティファの前足に触れて聞くと、ティファはふにゃりと目じりを下げて力なく笑う。
「うん、まだ完璧じゃない。けど……今飛ばなかったら、きっと一生飛べなくなる」
先ほどより少しだけ光のある目でアイリスを見つめた。
「ボクとアイリスで始めた挑戦だから、二人でやり遂げたいんだ」
まっすぐに見つめるティファの目を見つめ返した。まだかすかに前足は震えているけれど、ティファはブルッと体を震わせてから、大きく息を吸う。
「絶対に、成功させる。ボクたちならできる」
自分に言い聞かせるように声を上げるティファのことが心配でたまらない。もし失敗したら、ティファはどうなっちゃうんだろう。
……だけど、今アイリスにできることは……。
「……私、ティファを信じる。ティファならいつも通り落ち着いて飛べる。一瞬で馬車の座席に飛んで、許可証を咥えて、また一瞬で戻ってこれる。五秒数える間に、また私の肩に止まっている」
たとえティファが不安でも、アイリスだけはティファが成功すると確信している。その思いを込めてその前足を軽く指先で握ると、瞬間、ティファの震えが止まった。
「ありがとう。アイリスがそう言ってくれるならボクは飛べる」
強気な声でそう言うと、ティファは小さく笑った。
【じゃ、行ってくる】
最後に心話を残して、アイリスが前足から手を離した瞬間、その姿は消えた。
アイリスはティファの集中力を欠きたくなくて、こちらからは心話で話しかけられない。
ほんの一秒が何分にも感じる。
(ティファ……)
祈るようにティファの前足に触れていた両手を、ぎゅっと握った瞬間。
【やったよ、走っている馬車の中に直接飛べた!】
ティファの心話が、ぴょんぴょんと跳ねるみたいで、アイリスはじわっと目頭が熱くなる。
【ティファ、大丈夫?】
慌てて涙を指先で払いながら尋ねると、ティファから返事が返ってくる。
【……えっと、許可証がないんだけど……】
【え?】
ざっと背筋が寒くなる。爪が刺さるほど両手を強く握り締めた刹那。
アイリスの目の前に許可証を咥えたティファが出現していた。突き出された許可証を受け取る。
「ただいま!」
口から許可証がなくなったティファがいつものように元気な声を上げた。横でグラードが、顔を真っ赤にして両手を上げて跳ねている。相当にホッとしたらしい。
「すごい! 許可証もちゃんとあったんだ!」
アイリスがそう声をかけると、はぁはぁというティファの荒い息遣いが頬にあたる。アイリスは本当にティファが空間を飛んで戻ってこられたのだと実感して、胸が熱くなった。
「ね、時間がないんでしょ。すぐに行こう!」
「そうだね、急ごう」
懐中時計を確認したグラードはアイリスの手を引いて走り出す。よほど緊張していたのあろう、その手は汗でびっしょりだ。
「許可証を持ってきた!」
グラードが許可証を、門番の騎士に突き付けるようにすると、騎士はその書状を確認して重々しく頷いた。
「アイリス・アルフォルト。入場を許可する。開廷時間まであと数分しかないので急ぐように」
その言葉にアイリスは頷くと、後ろを振り向くことなく走り始める。肩に載っていたティファはふわりと浮かぶと、アイリスの先を先導して飛ぶ。
「急げ! 完全勝利してこい! それがフェルトルト家のしきたりだ!」
後ろからグラードの叫ぶような応援の声が飛ぶ。それに背中を押されるように強く足を蹴り出して、生まれて一番ぐらいの速度で走った。
「っていうけどさ。グラードが許可証を忘れなかったら、完璧だったのに……」
ぶつぶつ言いながらも飛ぶティファに、少しだけ力が抜ける。
でもグラードのミスのおかげでティファは再び空間を飛べるようになったのだ。
大丈夫、全部、上手くいっている。そう確信したアイリスの足は軽やかに前へ前へと伸びた。
「次の角、右に曲がったところの二つ目の扉!」
アイリスがそう言うとティファは即座に右に曲がる。アイリスが扉の前にたどり着くと、ティファはアイリスの肩に飛び乗る。
「これより貴族裁判を開廷します。お急ぎください」
扉の前にいた審問補佐官に声を掛けられて、アイリスはティファと顔を見合わせた。
間に合ったんだ、とほっとして膝から力が抜けそうになった。そのアイリスの手を取って、補佐官はにこりともせずに支えてくれた。
「……あと五秒で開廷です。この扉は施錠されます。早くご着席ください」
本当にギリギリ。ブワッと汗が噴き出す。
爆発しそうな鼓動を手のひらで胸に手を当てて抑え込み、大きく息を吸うと、目の前の扉をゆっくりと押した。
貴族裁判所の重厚な扉はひんやりと冷たい。体全体を使ってぐっと押して中に入ると、薄暗い廊下から一転して、煌々とあかりが灯された裁判所内はまばゆくて、思わず目を細めた。
それからティファを肩に載せたまま、アイリスは背筋を伸ばして、法廷内に足を踏み入れた。
だが彼女が現れた途端、人々の息を呑む音や、カタンと椅子を鳴らして立ち上がる音が聞こえてくる。
「あれ、ご覧になって……」
「まさか……あれは女王竜?」
「だとしたら、大変なことだぞ?」
アイリスが驚いて辺りを見回すと、観覧席にいる貴族たちが騒いでいることに気づいた。みんな肩に乗って大人しく翼を閉じているティファを凝視しているようだ。
周りから一斉に視線を向けられて、緊張にぐっと唾を飲む。
「アイリス、よかった……間に合って」
だが扉から入って左手の方から聞き覚えのある声が聞こえてぱっとそちらに視線を向けた。
こちらに向かって手を伸ばして、呼ぶように手のひらを自分の方に動かしているのは大公夫人クリスティーヌだ。隣にはほっとしたように眉を下げて笑みを浮かべ、両手を広げて待ってくれている大公オーランドがいる。
【間に合ってよかったね。うっかりボクまで飛び込んじゃったけど……大丈夫そう?】
今更そんなことを尋ねてくるティファがいつもの調子すぎて、思わず口角が上がる。
【もう扉は閉まっちゃったし】
一瞬振り向くと、扉は完全に閉じられ、扉の向こうから施錠された音がした。
「遅くなってすみません」
アイリスが大公夫妻に向かってぺこりと頭を下げると、二人は何も責めることなく、貴族たちの好奇の視線から、アイリスとティファをその体で隠してくれた。
「裁判が始まるわ。今日で……全部が決まる」
クリスティーヌの声と重なるように、審問官長が大きな木づちで机を叩く。ざわざわとしていた貴族たちの声が消え、潮が引くように辺りは静まり返った。
「それでは貴族裁判を再開する」
重々しい声が法廷内で響いた。
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