第二話

「被害者は童貞。で、着ていたのが『童貞を殺す服』。まるで駄洒落っすね」


 現場に到着するなり部下の銭形巡査が軽薄な口調で報告した。その不謹慎さに吉村勲は思わず眉間の皺を深くする。


 吉村は警視庁捜査一課で警部補を務める、この道二十年のベテランだ。粘り強い聞き込みと数多の捜査で培われた「刑事の勘」が彼の武器だった。だが、その勘もインターネットスラングの前では鈍ることがある。


「童貞を……何だって?」


 今年で四十二歳になる吉村には、その単語の組み合わせが何を意味するのか皆目見当がつかなかった。


「これっすよ」


 銭形は手にしたタブレットを慣れた手つきで操作し、一枚の画像を表示した。画面には肌の露出が極めて多い、挑発的なセーターを着たモデルの写真が映し出されている。


「この痴女みたいなセーターのことをネットじゃ『童貞を殺す服』って呼ぶんですよ。あまりに刺激が強すぎて耐性のない童貞はショック死する、みたいなジョークです」


 吉村は「はあ」と気の抜けた声を漏らし、改めて凄惨な現場へと視線を戻した。


 雑居ビルの一室。壁からは配管が剥き出しになり、床には埃が積もっている。その殺風景な空間の隅に置かれたキャスター付きの椅子に、被害者は腰掛けたまま息絶えていた。


 被害者は山本睦典、三十五歳。芸名は「むつのり」。銭形の報告によれば、「童貞キャラ」を売りに、最近人気が急上昇していた芸人だという。


 緑と白のよれたチェックシャツの上から、まるで悪趣味な儀式の衣装のように先ほど銭形が見せたグレーの「童貞を殺す服」が重ね着させられている。


 そして、その胸に開いた菱形の穴の心臓部を寸分違わず貫いて、ボウガンの矢が深々と突き刺さっていた。


「死因は心臓を矢で貫かれたことによる失血性ショック。ですが、解剖医の見立てでは分厚い脂肪がクッションになって即死ではなかった可能性が高い、と。また血液からは睡眠薬が検出されました」


「……悪趣味な犯行だ」


 吉村は顎をポリポリと掻きながら、部屋の隅々まで視線を走らせた。


「死亡推定時刻は昨夜の午後8~11時の間。第一発見者はマネージャーで、打ち合わせのため午前0時に訪れ発見。昨夜この事務所に出入りする予定だったのは被害者とマネージャーのみ。現在、関係者全員のアリバイを確認中です」


 銭形の淀みない報告に吉村は静かに頷いた。この規模の事務所なら関係者を洗い出すのはそう難しくない。だが、問題はそこではなかった。


「吉村さん、実は……少々不可解な点が」


 銭形が少し声を潜めた。


「第一発見時、この部屋のドアには内側からチェーンが掛かっていたんです。マネージャーは中に入れず、最終的に管理人にチェーンカッターを借りて切断したそうです」


「なに? 密室だったのか!?」


 吉村の目に鋭い光が宿った。


「ええ。ただ……その密室トリック自体は既に解明されています」


 銭形はドアの留め具を指差した。よく見ると、金属部分に白い霜のような跡と水滴が乾いた微かなシミが残っている。


「鑑識によれば、犯人はドアチェーンに氷の塊を引っ掛けた状態でドアを閉め、時間をかけて氷を溶かすことで密室を完成させたと。ドア前の床からもごく僅かな水分の痕跡が検出されました。古典的な方法です」


「なるほどな。では何が不可解なんだ」


「はい。まず一つ目。発見時、部屋は完全な暗闇だった。照明のスイッチは部屋の奥。ドアの隙間からでは絶対に手が届きません。犯人は暗闇の中、どうやって正確に被害者の心臓を撃ち抜いたのか」


「ふむ……」


「そして、もう一つ。致命的な問題です。遺体の位置です。ご覧の通り、部屋の左奥。ドアを十数センチ開けただけのあの隙間からでは、どう頑張っても射線が通りません。絶対に狙撃は不可能です」


 吉村はドアと遺体があった場所を交互に見比べ、その物理的な不可能性を頭の中で確認した。


「……普通に考えれば犯人が部屋に入って被害者を撃ち、その後で氷のトリックを仕掛けて外に出た、というだけの話じゃないのか?」


 銭形は「俺もそう思うんすけどね」と頭をかいた。


 しかし、吉村は笑わなかった。彼の脳裏で、ある些細な情報が警鐘を鳴らしていた。長年の勘がこの事件の底知れない異常性を見過ごすなと叫んでいる。


「……いや、違う。根本的に何かがおかしい」


 しばしの沈黙の後、吉村は絞り出すように呟いた。


「銭形、昨夜の東京の気温をもう一度確認してくれ」


 怪訝な顔をしながらも、銭形はすぐにタブレットを操作する。


「えーっと……昨夜は今シーズン一番の冷え込みで、深夜の最低気温はマイナス三度を記録しています」


「この部屋に暖房はついていたか?」


「いえ、エアコンは設置されていますが電源はオフでした。昨夜の室温は、おそらく氷点下に近かったかと」


 吉村は、凍てつくような部屋の空気を改めて深く吸い込んだ。そして、確信を持って言った。


「氷点下の室内で、ドアチェーンを固定できるほどの大きさの氷がたった数時間で溶けきると思うか?」


 銭形が息を呑むのが分かった。その通りだ。そんな大きな氷が溶けるには暖かい室内でも数時間はかかる。氷点下に近いこの部屋なら、十数時間経っても形を保っている可能性すらある。


 吉村はゆっくりとドアの方へ向き直り、今は切断されているチェーンの残骸に触れた。


「死亡推定時刻が昨夜の午後8~11時の間で、午前0時に氷が全て溶けてドアチェーンが掛っていたということは、密室が作られたのは被害者が死ぬ前だ。犯人は被害者を殺害する時、この部屋に入っていない。ならば、どうやって――」


 吉村は、再び現場の闇に目を向けた。


「――あのドアの隙間から、射線が通らないはずの被害者の心臓を暗闇の中で寸分違わず撃ち抜くことができたんだ?」

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