「童貞を殺す服」殺人事件

不悪院

第一話

 童貞。生まれてから一度も性交渉を経験したことのない男性を指す言葉である。現代においてそれは、ある者にはコンプレックスの象徴となり、またある者には純粋さの証として神格化される特異な価値を帯びていた。


 ぼたん雪が音もなくアスファルトを濡らす夜。相澤正はその「童貞」に会うため、西新宿のオフィスビル群の谷間を目指していた。


「うお、クソ寒い……なんで零細事務所のくせに、家賃の高い都心なんかに引っ越すかね……ったく」


 吐く息が白く濁り夜気に溶けていく。相澤は緩んだマフラーをきつく巻き直し、強張った指先をコートのポケットに押し込んだ。


 相澤の仕事は、芸能事務所「超笑舎」のマネージャー。マネージャーといえば聞こえはいいが、送迎、買い出し、スケジュール管理など、その実態は所属タレントの家来だ。


 今夜、彼が会うのピン芸人の「むつのり」。百センチを優に超える太鼓腹に、大阪のおばちゃんを彷彿とさせるパンチパーマ。愛嬌があると言えなくもないカバに似た顔。その男が、自身の「童貞」という一点を武器に若者から絶大な支持を得ていた。


 事の発端は、数ヶ月前の深夜番組だ。ひな壇の隅に座っていたむつのりが、ふとした流れで性交渉未経験であることを吐露した。その瞬間、スタジオが妙な熱気に包まれたのを相澤は今でも覚えている。そのあまりに「それっぽい」容姿と、堰を切ったように溢れ出す「童貞あるある」の引き出しの多さ。彼が一躍人気芸人の仲間入りを果たすのに時間はかからなかった。テレビ局からのオファーが殺到し、相澤の息つく暇もなくなった。


 そんなむつのりと、夜も更けたこんな時間に年越し特番の緊急打ち合わせ。むつのりは時間に厳しい。一分の遅刻が一時間の説教になることを相澤は知っている。


「もう……12時か。むつさんの打ち合わせと送迎で、今日も始発待ちコースか……」


 腕時計の針が午前0時きっかりを指している。相澤は憂鬱な溜息を白い塊に変えながら、古びたビルの階段を軋ませた。


 「超笑舎」がこの三階の一室に移転してきたのは、半月前のことだ。まだパソコンや電話機すら運び込まれていないガランとした空間に、椅子だけが墓石のように並べられている。そんな殺風景な部屋が今夜の打ち合わせ場所だった。


 三階の廊下の突き当たり。事務所のドアノブに手をかけ、鍵を差し込む。しかし、手応えがない。施錠されていないのか?


 まだ椅子しか運び込んでいないとはいえ、たとえ椅子一本でも盗まれれば、金に細かい社長に何を言われるか分からない。最悪の妄想を振り払い、相澤はドアノブを捻った。


 ガチャン、と硬い音が響き、ドアは十数センチ開いたところで止まった。内側からドアチェーンが掛かっている。ということは、むつのりは既に到着しているのか。他の社員で、こんな事務所で残業するような奇特な人間はいない。しかし、なぜチェーンを?


「むつさーん、こんばんはー。相澤です。開けてくださいよー」


 ドアの隙間から、できるだけ明るい声を張り上げる。だが、中から返事はない。シンと静まり返っている。寝ているのか? 相澤は眉をひそめ、隙間に片目を押し当てて中を覗き込んだ。漆黒の闇が広がっているだけだ。


 照明のスイッチは部屋の対角線上、一番奥の壁にあったはずだ。この隙間から手を伸ばしても到底届く距離ではない。仕方なくポケットからスマートフォンを取り出し、ライト機能をオンにした。


 白い光の筋が闇を切り裂く。そして、闇の中に浮かび上がった光景に相澤は息を呑んだ。


 部屋の左奥、キャスター付きの椅子に腰掛けたままぐったりと俯く人影。むつのりだ。最初は彼が眠っているだけだと思った。疲れて部屋を暗くし、椅子で仮眠を取っているのだと。


 だが、それは希望的観測に過ぎなかった。彼の胸から、明らかに「異常なモノ」が生えていた。それは、矢だ。クロスボウから放たれるような太く短い矢が、ライトの光を鈍く反射している。その先端は、むつのりの左胸に、根元まで深々と突き刺さっていた。


 矢の次に、相澤はもう一つの異常に気づいた。むつのりが着ている服。両肩と背中が大きく露出し、胸元に大きな穴が開いたグレーのセーター。インターネットで俗に「童貞を殺す服」と呼ばれる、あの扇情的なデザインのセーターをよれよれのチェックシャツの上から無理やり着せられていた。彼の太鼓腹がその洒落た服をはち切れんばかりに押し上げている様はあまりにもグロテスクだった。


「む、むつさん……? ……ドッキリ、とか、そういう……? その服も、新しいコントの衣装っすか……? 笑えないですよ……」


 喉が渇き、声が震える。思考が現実を拒絶し、目の前の惨状を理解しようとしない。しかし、むつのりはピクリとも動かない。ライトの光が、彼の口元から床に滴り落ちたどす黒い液体の染みを照らし出した。


「ひ、ひぃ……ひぁ……」


 腰が砕け、その場にへたり込む。声にならない悲鳴が漏れ、震える指で相澤はスマートフォンの画面をタップした。1・1・0。その三つの数字を、彼は生まれて初めて自らの意思で押した。

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