Episode.29 婚約の影 


謁見の間を支配していたのは、深い沈黙だった。

王国の王族、重臣、騎士団、工房から随伴した仲間たち――すべての視線が、玉座前に進み出た一人の青年に注がれている。


ヴァルドランの王子、ラグナ。

赤い外套を纏い、背筋を伸ばした姿は一見すれば王族らしい気品を纏っていた。

だが、その微笑には氷のような冷たさがあり、視線の奥に宿る光は狩人が獲物を見定めるそれに近い。


「……私がここへ来た理由――それは一つだ」

低く響く声は、天井の高い広間に反響し、玉座の間の空気をさらに張り詰めさせる。


息を飲む気配が周囲から伝わってきた。

ラグナはわずかに顎を上げ、青ざめた空気の中で宣言した。


「リュシェル殿下。あなたとの婚約を正式に望む」


その瞬間――広間にいた誰もが言葉を失った。

ステンドグラスから差し込む光さえも凍りついたかのように、場の空気は一変する。


兵士たちの間にどよめきが走り、数人が無意識に剣の柄へと手を伸ばす。

王妃セラフィーナが小さく口元を押さえ、信じられないとばかりに目を見開いた。


「なっ……婚約だと!?」

最初に声を上げたのは第一王子アルトリウスだった。

彼は玉座の脇から一歩踏み出し、剣を半ば抜きかけ、血走った瞳でラグナを睨み据える。

「この場を愚弄する気か! お前は――」


だがラグナは一瞥をくれるだけで、軽く扇で埃を払うかのように無関心を装った。

「落ち着け。これは愚弄ではない、現実の提案だ」


淡々とした声が逆に不気味な説得力を帯びる。


「だが、断るというなら――どうなるかは想像に難くないだろう」

ラグナはゆっくりと歩を進め、床に映る自らの影をリュシェルの足元へと重ねる。

「隣国ヴァルドランの軍が動けば、今の病に伏す王国が無事に済むはずがない」


その言葉は、柔らかい微笑と共に発せられた。

だが、その響きには明確な毒と刃が潜んでいた。


――脅迫。


広間にざわめきが走る。

兵士たちは互いに目を見交わし、議員の一部は顔を曇らせる。

国王アルヴェリオスでさえ、重苦しい沈黙の中で咳を抑えながら玉座の肘掛けを握りしめていた。


ネルフィは唇を固く結び、拳を握る。

(……これがラグナの狙い。リュシェルを道具にして、国ごと手中に収めるつもりなのね)


視線を向けられたリュシェルは、胸元のネックレスをぎゅっと握りしめていた。

その指先は小さく震えていたが、蒼い瞳は揺らがずラグナを見返している。


沈黙の中、リュシェルの唇が小さく震え――何かを告げようとした。


だがその前に、ラグナの笑みがさらに深まった。

「答えは急がない。だが覚えておけ。拒絶の先に待つのは――王国の滅びだ」


玉座の間を覆う緊張は、嵐の前触れのように息苦しく重くなっていった。




ラグナの脅迫めいた言葉が広間に響き渡った瞬間、ネルフィの胸に稲妻のような衝撃が走った。


(……そうか。リュシェルが何かを隠していた理由は、これ……!)


ずっと気づいていた。リュシェルの笑顔の裏に、ほんの一瞬よぎる影。

幼馴染だからこそ分かる、言葉にできない沈黙。

それは、誰にも言えぬ重圧を一人で抱え込んでいた証拠だった。


彼女は俯き、小さな手をぎゅっと握りしめていた。

その姿を見ただけで、ネルフィの胸は痛んだ。

――どうしてもっと早く気づいてやれなかったのか。

そう思った瞬間、声をかけようと一歩踏み出しかけた。


だが、その前にリュシェルが自ら顔を上げた。


「……私は」


その声はかすかに震えていた。

けれども、蒼い瞳には強い光が宿っていた。

広間にいる誰もが思わず息を呑む。


「あなたとの婚約に、その気はありません」


短い言葉。だが、その響きは玉座の間を揺るがすほどの力を持っていた。


「な……に?」

ラグナの瞳が揺れる。

冷たい笑みを崩さぬまま、それでも意識の奥底で想定外の拒絶に動揺していた。


リュシェルははっきりと言葉を重ねる。

「私はこの国を守るために生きる。誰かに強いられて結婚する気はない!」


声は澄みわたり、緊張で張り詰めた謁見の間に堂々と響いた。

王妃セラフィーナが静かに目を細め、国王アルヴェリオスも力を振り絞って娘の姿を見つめる。

第一王子アルトリウスでさえ、その凛とした立ち姿に一瞬、言葉を失った。


ネルフィは心の奥が震えるのを感じた。

幼馴染が背負わされた重荷に押し潰されることなく、真っ直ぐに立ち向かう姿。

その勇気が、誇らしくて、胸を締めつけるほど愛おしかった。


一方で、ラグナは数秒の沈黙の後、不気味な微笑を深めた。

「……なるほど。王女殿下は随分と勇敢だ」

その声音は、怒りを押し殺した静けさを帯びていた。


――嵐は去っていない。むしろ、これから始まるのだ。


ネルフィは直感でそう悟り、無意識にリュシェルの前に一歩踏み出していた。





しばしの沈黙が謁見の間を支配した。

誰もがラグナの返答を待っていた。

王族も、議員も、騎士たちも、次に放たれる言葉が王国の未来を揺るがすと悟っていた。


やがて――ヴァルドラン王子ラグナは、ゆっくりと目を細めた。

その瞳に宿る光は怒りでも悲嘆でもなく、冷ややかな愉悦。

口元に広がった笑みは、人を嘲るのでも勝ち誇るのでもない。

まるで毒蛇が音もなく舌を伸ばすような、不気味な微笑だった。


「……なるほど」

静かな声が広間に落ちる。

「誇り高き王女だ。拒絶の言葉を、ここまで堂々と口にするとはな」


その声音には称賛のような響きがあった。

だが、聞く者すべてが本能で悟る。

それは決して誉め言葉ではない。

底知れぬ毒を含み、拒絶した者への呪詛のような響きだった。


「だが――」


ラグナは一拍置き、リュシェルを見据えた。

その赤い瞳に射抜かれた彼女は、一瞬身を強ばらせたが、それでも視線を逸らさなかった。


「拒絶は代償を伴う。……その意味を、やがて知ることになるだろう」


謁見の間の空気が一瞬にして冷え込む。

兵士たちの背筋が凍り、議員たちがざわついた。

王妃セラフィーナが眉をひそめ、第一王子アルトリウスは怒声を上げかけた。

だが、その声を飲み込ませるほど、ラグナの言葉には確かな重みがあった。


彼は優雅に踵を返した。

赤い外套が翻り、大理石の床に靴音が規則正しく響く。

歩みは落ち着いているのに、その背中からは重苦しい圧力と暗雲のような気配が漂っていた。

――まるで、この場に置き去りにした者たちへ呪いを刻み付けるかのように。


誰もがその姿を黙って見送るしかなかった。

やがて大扉が閉じると同時に、広間は深い沈黙に包まれる。


ネルフィは無意識に拳を握りしめていた。

胸の奥で嫌な予感が形を成していく。


「……あれは、諦めてはいない」


唇を噛みながら呟いた声は、決して思い過ごしではなかった。

ラグナの去り際に漂っていた気配は、確実に何かを企んでいる者のものだった。

彼は必ず――次の一手を仕掛けてくる。


その隣で、リュシェルは小さく震える指先をネックレスの上に重ねていた。

拒絶の言葉を告げたことに後悔はない。

だが、ラグナが残していった「代償」という不穏な響きは、王女としてではなく、一人の少女として心を冷たく締めつけていた。


レオンは静かに剣の柄を握りしめる。

その視線は扉の向こうではなく、リュシェルの隣に立つネルフィの横顔に注がれていた。

「守る」という言葉を胸に刻んできた自分よりも、強くリュシェルの支えになっているネルフィ。

――その事実が、彼の心に新たな火を灯していた。


こうして王子ラグナは去った。

だが、彼が残していった影は謁見の間に色濃く沈殿し、誰もが胸の奥に消えぬ不安を抱え込むことになったのだった。




その夜。

アウルディーン=ネクサスの艦内会議室に、ネルフィは仲間を集めた。

重厚な魔導照明が低く点滅し、壁際に並ぶ管制パネルのインジケーターが規則正しく瞬いている。

外の街の光は見えない――ここは空を巡る拠点。だが、その微かな光の列が、地上に残した仲間や工房の存在を代わりに示しているように思えた。


ネルフィは深く息を吸い、皆の視線を受け止めてから言葉を紡いだ。

「……アイリス、オラクル。ヴァルドランのサーバーに潜って。ラグナと闇ギルドの繋がりを徹底的に洗い出して」


「了解。外部ノードに潜行開始」

端末に指を走らせるアイリスの瞳が赤く光り、天井に投影されたオラクルのホログラムが虹色に揺れる。

《コードリンク開始――解析ルート確立》

無機質な声が響き、複数の仮想回路が宙に組み上がっていく。


ネルフィは次に、壁際に寄りかかっていたゼルダンへ視線を送った。

「ゼルダン。あなたは裏ルートを通じて、ヴァルドランの動向を探って。表に出ない噂も全部だ」


ゼルダンはニヤリと唇を吊り上げる。

「任せとけ。汚れ仕事は得意分野だ。明日の朝までに何か掴んでみせる」

そう言い残し、外套を翻して出て行った。


再び静寂が訪れる。

ネルフィは強く拳を握りしめ、仲間を見回した。

「――リュシェルを再び脅させはしない。必ず、奴らの裏を暴いてみせる」


その声は揺るぎなかった。

社長としての責任、そして幼馴染を守り抜く決意――その両方が重なった強い響きだった。


窓際に立ち、ネクサス内部の淡い照明を見つめる。

それは遠くの仲間たちの命の灯火を象徴しているようで、ネルフィの心を支えていた。


月光に似た光が彼女の横顔を照らす。

その瞳には、親友を守り抜き、敵の陰謀を暴き出す新たな誓いが宿っていた。



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