第39話_風に揺れる札

 昼休みの風は、昇降口の〈役割札棚〉を一枚ずつ確かめるみたいに撫でていった。角丸の灰青、青、白。見慣れた紙が規則も不規則もない歩幅で揺れて、同じ太さの言葉が列をなす。

 ——「声の窓の見張り」

 ——「水物ふた閉め親善大使」

 ——「次の人のために手を残す」

 昨日より札は増え、棚の隙間は減っていた。風が抜けるたび、カサ、とかすかな合図が響く。それはもう、誰の命令でもなかった。

 放課後の校庭は、片づけを終えたばかりの晴れ顔で満ちていた。文化祭の「あと」をひと呼吸だけ延長するための小さなイベントが、体育館の脇で始まる。ステージ袖の札には「終業前・十分の劇」とある。企画:放送×演劇×有志。演目名は、卓哉の字で大きく書かれていた。

 ——「風に揺れる札」。

 「ようこそ、「同じ太さの国」へ!」

 卓哉が紺のパーカーで飛び出す。右手には巨大な角丸の札。左手にも札。背中にも札。胸元のプレートには《役割:おもしろ係(仮)》と書かれている。

 「この国では、札が風に揺れます。なぜか? 風が来るからです!」

 全員の肩が一度ふわっと解ける。演劇部の一年がアナウンス役で入る。

 「質問です。——『同じにする』と『同じ太さで並べる』、どっちが「倒れにくい」? 実験してみよう!」

 舞台上に三つの棚が並ぶ。

 A棚:同じ言葉がずらり。「静けさ」「静けさ」「静けさ」。

 B棚:高さを揃えただけで言葉はバラバラ。

 C棚:角丸・字の大きさ・厚みだけ揃えた「役割札」。

 卓哉は大扇風機のスイッチを入れる。風がAを直線に叩く。一瞬そろうが、端がめくれ、列の真ん中で二枚、床に落ちた。Bは不揃いの角に風が引っかかり、縦横無尽にばたばた踊る。Cは、揺れる。——でも落ちない。同じ丸みが風を逃がし、同じ厚みが端を支え、言葉の違いは「重さ」に干渉しない。

 「ほらね!」

 卓哉がウインクを飛ばす。「「同じにする」より、「同じ太さで並べる」。風が吹いても「倒れにくい」のはこっち!」

 観覧席の前列で誰かが笑い、その笑いは波紋みたいに広がっていく。演劇部の二人が入れ替わりに短い寸劇を差し挟む。

 ——「水物ふた閉め親善大使 vs. 片手スマホ族」

 ——「読み上げ可席のとなりで歌い出しそうな男子を、札で止める話」

 くどくない。刺さらない。けれど、ちゃんと刺さる角度で届く。

 舞台裏、由依は照明卓の端からその光景を眺めていた。隣で倉本先生が腕を組み、息だけで笑う。

 「「おもしろ係」は強いな」

 「面白がる、は「太さ」を揃える方法ですね」

 真ん中の通路。監査人が立っていた。昨日のアクリル札は胸元に下げたまま。彼女は扇風機の風に目を細め、棚の札が落ちないのを見とめると、ふっと肩を落とした。

 拍手の代わりに、目尻が一線だけ濡れる。

 「——ごめん。七年前、私、風を止めようとした」

 独り言みたいに落とされた言葉は、舞台の音に紛れて誰にも届かない。けれど由依は、その横顔の角度で「意味」を捉えた。

 ラスト一分。

 卓哉が客席へ向けて両手を広げる。「終わったら『片づけの札』を一枚ずつ持って帰ってね! 書けなかった人は、棚の前で「今日の一行」を!」

 客席から笑いと拍手。演目は十秒だけ延びて、でも誰も咎めない。十分の劇は、十秒の余白まで設計に入っていた。

 解散のアナウンスが流れ、校庭はまたいつもの「放課後」に戻っていく。昇降口の札棚には新しい札が差し込まれていた。

 ——「落書きの上書き、しない」

 ——「雨の日、傘の「貸し借り連番」を回す」

 ——「弱光席に観葉植物の水やり」

 どの言葉も、今さら説明はいらない。昨日から今日へ、今日から明日へ。紙の橋は、もう自走で伸びる。

 「…道具室、行く?」

 由依が小声で言う。

 大夢は一拍だけ置いて、うなずいた。二人は体育館脇の細い通路を抜け、旧校舎の修繕室へ向かう。扉の前で一呼吸。ノブは少し冷たく、指の腹に細い感触が残る。

 中は薄暗い。窓の格子から落ちる明かりが棚の金属を淡く照らす。昨日までの紙束は整えられ、台に置かれた工具は刃の向きが同じだ。

 「ここ、静か」

 「「静けさ」は命令じゃない——って、言ったの、あんたでしょ」

 由依の声は笑っていたけれど、目はまっすぐだった。

 大夢は工具箱の蓋を指で弾いて、金具の音をひとつ鳴らした。

 「文化祭、最高だった」

 「「いつも通り」に?」

 「うん。「いつも通り」の意味が、やっとわかった。——誰かの段取りの上で、誰かの余白が笑えるってことだ」

 言いながら、自分の心臓が忙しくなっていくのを自覚する。工具室の空気は薄い金の匂いがして、言葉が小さく跳ね返ってくる。

 由依は棚から二枚の無地の札を取り出し、ペンを渡した。「役割、書く?」

 「いま?」

 「いま」

 大夢は笑い、ペン先を落とす。

 ——〈役割札〉「失敗の先に橋をかける」

 由依は隣に書く。

 ——〈役割札〉「衝動のあとに耳を置く」

 二枚はよく似た角で、別々の言葉だった。

 「それ、隣に並べていい?」

 「——うん」

 紙が触れて、鳴る。

 大夢は息を吸う。息の奥に、言葉が一本だけ立った。

 「俺、由依が好きだ」

 出してしまえば、驚くほど静かだった。

 由依は目を細めて、それから笑うでも泣くでもない表情で頷いた。

 「知ってた。でも、今日聞けてよかった。——「修繕」じゃなくて、「宣言」として」

 「直さない、ってこと?」

 「うん。直す前に、受け止める」

 彼女はポケットから小さな角丸を取り出した。

 ——〈個札〉「いまの気持ちを、いまの言葉で持つ」

 「これ、私の「今」」

 大夢は笑ってうなずく。胸の奥の緊張が、紙に吸い込まれていくみたいに軽くなる。

 外から小さな歓声が上がった。卓哉の声だ。「落とし物——「おもしろ係(仮)」の札、拾った人ー!」

 二人は顔を見合わせ、同時に吹き出した。

 「「仮」が落ちるの、彼らしい」

 「「本採用」って書いた新札、こっそり作っとく?」

 「しよう」

 由依はペンをくるりと回して、笑う。「——「おもしろ係(本気)」」

 階段を降りると、夕暮れの風が昇降口を通り抜け、棚の札をまた一枚ずつ撫でていった。監査人が棚の前に立っていた。目は少し赤いけれど、涙は乾いている。

 「劇、よかった」

 「風、止めませんでしたね」由依が言う。

 「うん。——止めなくて、落ちなかった」

 彼女は自分の札の端を押さえ、空を見上げる。

 「七年前に戻れない代わりに、明日を「同じ太さ」にする。…それで、私はもう十分だと思えるかもしれない」

 「十分じゃなかったら?」大夢がたずねる。

 「札を一枚、増やす」

 監査人は微笑んだ。

 ——〈役割札〉「謝るの先に、説明を置く」

 新しい札が棚に入る。紙の音が、短くやさしく鳴る。

 昇降口を吹き抜けた風が、棚の最下段の一枚を浮かせた。

 ——〈役割札〉「明日の朝、早く来る」

 誰の名前もない。その札は、明日になれば別の札に移る。重さは残さず、習慣だけが橋渡しされる。

 空は浅い墨色に沈み、校舎の輪郭だけが濃く残った。電灯が順々に点き、窓の四角に、それぞれ違う明るさが宿る。

 「「いつも通り」って、案外むずかしいね」

 由依が言う。

 「だから、最高なんだと思う」

 大夢はうなずき、棚の前で立ち止まった。

 自分の札と、由依の札が並んでいる。その列のに「おもしろ係(本気)」が入り、に「監査人」が入り、に「早起き」が入る。

 風に揺れる札は落ちない。落ちる前に、次の札が支える。支える前に、風が角を撫でていく。角は丸い。太さは同じ。言葉は違う。——それでいい。

 「帰ろう」

 「うん。明日、早いし」

 二人は並んで歩き出す。背中のほうで、棚が小さく鳴いた。誰かが最後の一枚を差し込む音だった。

 放課後の色が濃くなりはじめたころ、昇降口の〈役割札棚〉の前に小さな人だかりができていた。卓哉が段ボールから何かを取り出す。厚さだけがやたら本気の角丸札——黒の縁取りに、白抜きの二文字。

 ——「本気」。

 「「おもしろ係(仮)」の人、これ付けてください」

 歓声と笑いが重なり、卓哉は自分の胸に「本気」を磁石で装着した。マントみたいに大げさに見せるジェスチャーで一礼すると、棚の最上段に新札が差し込まれた。

 ——〈役割札〉「おもしろ係(本気)」

 風がその端を撫で、札は一度だけ軽く揺れて静まる。揺れても落ちない——観客も、もうそれを知っている。

 片づけの列は自発的に出来、階段は「上り優先/下り優先」の青札で自然に分かれた。誰も大声を出さない。誰も止めない。ただ札が「同じ太さ」で並ぶ。

 監査人は棚の前に立ち、昨日から胸に下げ続けているアクリル札の角を指でなぞった。

 ——〈役割札〉「誰も抜け落ちないように見届ける」

 そこへ倉本先生が通りすがり、短く言う。「見届けるなら、笑いも一緒に」

 監査人はふっと笑って、頷いた。七年前の影はもう、角丸の中に収まっている。

 夕闇が落ちる前、修繕室に集合がかかった。机の上には今日の運用ログと、棚から回収された「今日だけの個札」が並んでいる。

 「最後、検収しよう」

 由依が黒いペンを取り、修繕帳の余白へ指を添える。黒い丸が二つ、滲む。

 ——検収:通過。

 ——観察:「役割札棚」運用により「指示の声量」を下げ、「合図の密度」で速さを確保。※落下札ゼロ/苦情ゼロ。

 赤い細字が添えられる。

 ——「命令を減らし、合図を増やせ。同じ太さの合図は、風で試され、風で強くなる」

 続けて、今日の数字が紙に起こされる。

 ・役割札差し込み:延べ214枚

 ・落下:0(扇風機実験含む)

 ・「声の窓」苦情:0

 ・返却箱:新規20

 ・「個札」掲出:23

 数字はどれも、無理のない大きさで並ぶ。過去最大でも、誇張のない字で。

 「掟、増やす?」

 咲子が黒板の隅を指す。

 「増やすなら「棚」のこと、一行だけ」

 大夢がチョークを受け取り、短く書き込む。

 ——ルール㊳「役割札棚」。

 1)名前でなく「役割」で差す。

 2)角丸・大きさ・厚みは同じ。言葉は自由。

 3)「今日だけの個札」は日没で外す。公開は任意。

 4)風は試験。落ちたら「次の札」が支える。

 「言い換えると、「誰の札も同じ太さ」」

 読み上げる声に、紙の端が音で頷いた。

 検収が終わり、部屋の空気が緩む。窓の外はすでに群青。遠くのグラウンドで、最後のほうきの音が一本だけ残っている。

 「…帰りにコンビニ寄って、団子買って帰らない?」

 卓哉が突拍子もなく言う。「「本気」は糖分を消費する」

 「経費で?」

 「出ないね」

 一同が笑って、工具室にひと呼吸のあたたかさが生まれる。

 由依が自分のポケットから小さな角丸を取り出した。

 ——〈個札〉「いまの気持ちを、いまの言葉で持つ」

 それを机の端に置き、隣にもう一枚、さっき書いた「役割札」を並べる。

 ——〈役割札〉「衝動のあとに耳を置く」

 迷ってから、由依は個札を掌で包み、役割札だけ棚に戻すと決めた。

 「公開するのは、「みんなの速さ」に関わる言葉だけでいい」

 大夢が頷く。彼の「失敗の先に橋をかける」も、同じ段に差し込まれた。

 帰り支度を始めたところで、監査人が扉をノックして顔を出した。

 「最後に——これを」

 差し出されたのは、薄い封筒と、灰青の角丸札。

 ——〈役割札〉「謝るの先に、説明を置く」

 「さっき棚に差したのと同じ?」

 「同じ。——でも、「あなたたちの棚」に差す前に、私の机にも一枚」

 由依は受け取り、深く礼をした。「ありがとう。棚は、もうあなたの場所でもあるよ」

 監査人は小さく笑って、「明日、総括の文を一枚書いて持ってくる」と言い残し、去っていった。

 昇降口へ向かう廊下は、昼間より少し長く感じた。壁の掲示に、今日の「十分快劇」の写真が貼られている。巨大な「本気」札と扇風機と、笑いで細くなる目。

 「…ねぇ」

 由依が歩きながら、小さな声を出す。「さっきの「宣言」、ほんとに公開でよかった?」

 「うん」

 大夢は歩みを緩めない。「「修繕」じゃなく「宣言」にしたから、余白が残った。——だから、明日も同じ太さで言える」

 「明日も?」

 「明日も」

 それで十分だった。彼女は頷き、前を向く。角丸の灯りが床に落ち、二人の影を丸くする。

 昇降口の棚に寄り、札を一枚ずつなぞってから外へ出る。風は弱い。けれど、札は習慣のように小さく揺れた。

 ——〈役割札〉「明日の朝、早く来る」

 ——〈役割札〉「落書きの上書き、しない」

 ——〈役割札〉「読む声の席、声の高さを一定に」

 どの札にも名前はない。けれど、どれも「誰か」の体温を持っている。

 コンビニの白い光の前で、大夢が足を止めた。

 「…団子、何味派?」

 「みたらし」

 「こしあん」

 二人は顔を見合わせ、笑う。悩むほどのことじゃない。どちらも買えばいい。札は並列だ——選べる。

 紙袋がさく、と鳴り、夜の湿度が甘くなる。

 「明日、七時半に棚の補充」

 「うん。「明日の朝、早く来る」」

 札みたいに交わされる約束は、紙よりも薄く、しかし紙と同じくらい強い。

 帰り道、校舎の窓が幾つも四角く光っているのが見えた。どの四角も違う明るさで、でも並ぶ太さは同じだ。

 大夢は胸の奥の一行を、心の中で書き直す。

 その一行は、紙には書かれない。ただ、歩幅と息の合間に置かれ、夜の街に吸い込まれていった。

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