第37話_雨上がりの校庭
文化祭の翌朝、校庭はまだ湿っていた。夜半に降った雨が砂に染み込み、草の根元には雫が残っている。テントの布地は重たげに垂れ下がり、看板の角はにじんで色が薄れかけていた。
由依は長靴を履き、校庭に足を踏み入れる。泥に沈む感触と同時に、昨日の喧騒がまだ耳の奥に残っているようで、胸が温かくなる。けれど、同時に心はざわついていた。
黒字は確かに達成された。返却カードも集まり、感謝も言葉として並んだ。けれど「最後の一枚」はまだ白紙のままだ。
そこへ、濡れたブルーシートをたたむ大夢の姿があった。彼の頬にも泥がついている。
「昨日の後始末、意外と残ってるな」
「数字だけなら綺麗に終わった。でも「片付け」は黒字に含まれないんだよな」
大夢が笑った。だが目元は考え込んでいた。
グラウンドの端では龍平がケーブルを巻いていた。彼は一度止まり、巻き癖のついた部分を指先でなぞり直す。小さな作業だが、その手つきに「自分の影を補修する」意識が見える。
「昨日の返却カード、もう三件返ってきてるよ」
奈緒子が走ってきて、名簿を掲げた。「延長ケーブルの寄贈、旗縫い講座の申込、そして…用務員さんへの工具棚点検ボランティア」
「早いな」
「「移動図」を見た人が動いたんだよ。数字じゃなく線を見たから」
咲子は片手に雑巾を持ちながら、掲示板の下を掃いていた。濡れた紙が一部はがれ落ちている。それを拾い、日向に並べて乾かす。彼女は声を上げた。
「ほら、「代替案」の欄、もう追加されてる。「返却箱は一年常設」と、「カードをデータ化」」
卓哉がほうきを担ぎながら笑う。「データ化したら便利すぎて、「余白」が消えるかもな」
由依は振り返る。「…そう。便利すぎると、弱さを見えなくする」
そのとき、風が校庭を抜けた。雨雲は流れ去り、陽が差し込む。濡れた砂の上に光が散り、子供のころ遊んだ水たまりのきらめきに似ていた。
大夢は胸ポケットから帳面を取り出した。最後の一枚は、まだ真っ白だ。
「昨日、由依が言ったよな。これは俺が書く一枚だって」
「うん。でも、「世界」には使わないんでしょ?」
彼は頷く。白紙を見つめ、言葉を紡ぐ。
「俺が書くなら、「未来の余白」にする。——使わない約束を、ここに書き残す」
彼はペンを走らせた。
A:「文化祭には使わない」
B:「個人の失敗や弱さを埋めるためにも使わない」
C:「理由:直すことは、均すことじゃない。余白を残すことだ」
由依はその文字を見て、頷いた。
「…これでいいと思う」
彼女は紙を閉じ、空を見上げる。雲の切れ間から差す光が、校庭全体を照らした。
午後には、生徒たちが集まって後片付けを再開した。笑い声と泥の感触が混じり、昨日の延長戦のように活気がある。
黒字はただの数字じゃなく、線として誰かに渡っていく。その確信が、雨上がりの空気を澄ませていた。
午前十時。後片づけの全体ミーティングに合わせて、校庭中央の立札が一枚増えた。灰青の角丸に、由依が三行だけを書いて貼る。
A:「返却箱、常設にします」
B:「「感謝/返却/代替案」のカードは、来週いっぱい受付」
C:「理由:黒字の「移動」を最後まで見える化するため」
拍手は起きない。けれど、箱の前に立つ足が自然と揃う。紙が「終わり方」を指すと、人は急がなくて済むのだ。
体育館脇の溝では、奈緒子がひざ当てを着けて泥を掻き出した。「昨日の紙タオルの繊維、流路に残るんだね。——「環境側だけ」の補修で次回の詰まりを抑えよう」
龍平はケーブルの「巻き癖」をほどきながら、「返却予定の延長、もう一本増えそうだ」と笑った。「一年が『うちにも余ってる』ってさ」
咲子は濡れた掲示を日向に広げ、その順序を元の通りに戻していく。卓哉はフェンスの結束バンドを切り、切り口が鋭くならない角度で廃材袋へ落とす。森本は台帳を膝に、カードの数字を「線の地図」へ写し替えていた。
「——準備、整った?」
由依の問いかけに、大夢は胸ポケットを叩いた。中には、昨日からの白い一枚がある。
「場所、どうする?」
「屋上がいい」
六人は階段を上がった。昨日の人波の名残が階段の踊り場に薄くあって、蓄光テープの端が光りを拾っている。錠を開け、空へ出る。濡れたコンクリートはまだ薄く湿っていたが、風は新しく、雲の切れ目には、秋の青が見えた。
手すりのそばで輪になり、誰からともなく深呼吸。大夢は修繕帳を開き、最後の一枚をやさしく切り離した。薄い紙が鳴らない音で空気を震わせる。
「——書くよ」
彼はペン先を紙に落とし、一行だけ、丁寧に、でも躊躇わずに書いた。
「俺は失敗して学ぶ」
文字は整いすぎない。ところどころに掠れがあり、その掠れが「余白」の形をした。
「貼る場所は?」
「俺に」
大夢は制服の胸——心臓の上に、文字を内側にしてその紙片を当てた。修繕帳のやり方に従うなら、対象に紙片を貼る。対象が人でも、やることは同じだ。ただし、効果がどうなるかを知っているわけではない。
由依が一歩、手を伸ばす。「待って」
「大丈夫。——「世界」には使わない。「俺」にしか触れない」
彼は小さく笑い、紙片を胸に置き、右手で押さえた。指の下で紙が温かくなる気がした——ただの体温だと頭は言うのに、胸の奥では別の何かが動いた。
次の瞬間、紙片の縁に黒い丸が二つ、にじむように現れた。
——検収:対象外。
——観察:「自己への適用」は「運用外」。※宣言の効力は「公開」によってのみ担保。
赤い細字が一行、添えられる。
——「「使わない使用」は、他者への効果を持たない。ゆえに『言葉と公開』を選べ」
風が強まって、紙片は胸から離れ、ひら、と空に舞いあがった。六人は目で追った。紙は手すりの外に出ると、渦を描き、また戻ってきた。空が紙を返してくれたように、屋上の中央に落ちる。
「発動——しなかった」
奈緒子が苦笑する。
「でも、見えた」由依は紙を拾い上げ、指で端を撫でた。「「使わない」って決めること自体は、この帳面のルールの外。でも、私たちのルールの中に入れれば、効力は持てる」
大夢は頷いた。
「だから、降りよう。——全校に「公開」して、『選んだ言葉』で運用する」
昼の全体連絡。体育館のステージに、小さなマイクが一本。青枠の「連絡」の札が立つだけで、余分な演出はない。
由依が前に立ち、紙の三段を掲げる。
A:「修繕帳の「最後の一枚」、使いません」
B:「「自分の弱さを消す」ためにも使いません」
C:「理由:失敗して学べる余白を、全員に残すため」
さざ波のようなざわめきが広がり、静まった。多くの生徒が、胸元の見えない何かを確かめるように手を置く。
大夢は一歩出て、短く言った。
「さっき、屋上で「自分」に貼ってみた。——発動しなかった。だから僕は「言葉で使う」ことにした。『俺は失敗して学ぶ』。これを、僕の今日の札にします」
彼は胸ポケットから、さっきの紙片を取り出し、青枠のカードにセロテープで仮止めした。角は丸い。文字は掠れている。
「「例外」は作らない。名前じゃなくて「役割」で。僕の役割は『失敗の先に橋をかける』。皆の役割は——自分で決めて、紙に書いて、掲げてください」
数秒の沈黙。一年の女子が手を上げて、手提げの内ポケットから白いカードを出した。
——〈役割札〉「片づけで『次の人』のために手を残す」
二年の男子が続く。
——〈役割札〉「声の窓の見張り」
別の三年生が笑って掲げた。
——〈役割札〉「水物ふた閉め親善大使」
青や灰青の角丸が、体育館のあちこちで小さな島になって浮かび上がる。
監査人は、最前列からその光景を見ていた。昨日の封筒はもう持っていない。代わりに、薄いカードを親指で撫でている。
「一枚を「使わない」で、ここまで広げるのね」
彼女は立ち上がると、由依の隣に並んだ。
「公開を前提にする以上、私の「全校一括修繕」も、角度を変える必要がある。——「同じにする」ではなく、「同じ太さで並べる」に」
由依は一瞬だけ目を見張り、うなずいた。今日の涙は、まだ落ちない。落ちるとすれば、それは明日——次の話だ。
午後。後片づけの速度は落ち着き、誰も急がない。体育館で、最後の「紙の総覧」更新が行われる。黒板に、掟の新しい一行が書き足された。
——ルール㊲「最後の一枚の扱い」
1)「世界」には使わない。
2)「自分の弱さを消すため」にも使わない。
3)『言葉と公開』で運用する。役割札にして掲げる。
4)違反は「検収対象外」。※差し戻しは行わない。
「言い換えると、「直さない勇気を札にする」」
咲子が読み上げ、卓哉はテンプレに小さな「余白」のアイコンを描く。奈緒子は「検収:対象外」の赤い書体をサンプルとして添え、龍平は「役割札」の棚を作る。森本は「役割札の公開ページ」に連番を振った。
修繕帳の余白に、黒い丸が二つ、にじむ。
——検収:対象外。
——観察:「使わない使用」は「公開」によってのみ効力を持つ。※「例外運用」はなし。
赤い細字が添えられる。
——「限定開封とは「隠す」ではなく、「明るみに置き直す」こと」
夕暮れ。校庭の水たまりはすっかり消え、砂は新しい足跡で満たされている。六人は屋上に戻り、フェンスにもたれて空を見た。
「書いたね」由依が笑う。
「うん。やっと、書けた」
「じゃあ——次のページへ、行こうか」
ページはもうない。だが、「次」はあった。紙の外に。彼らの胸ポケットに入った小さな役割札が、風に揺れ、カサ、と鳴った。
大夢は、今日の一行を心の中で繰り返し、声に出す。
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