第36話_予算黒字の裏側

 文化祭の朝、校庭は色とりどりの旗でにぎやかだった。開場の合図はチャイムではなく、青枠の「開場」札。矢印は細く、必要なところにだけ置かれ、露店の列は自然に曲がって混雑を逃がす。体育館のステージは「声の窓」を十分ごとに開閉し、出店ブースには「水物ふた閉め」と「火気・導線」の札が役割名で並ぶ。——「選べる基準」は風景になっていた。

 午前十時。由依が会計ブースに顔を出すと、会計票の端に小さなスタンプが押されていた。「累計収支・黒」。

 「え、もう黒字?」

 会計担当の三年が困った笑顔で首を傾げる。「例年より早すぎるの。売上が伸びてるってのもあるけど、支出が妙に少なくて…」

 奈緒子が横から覗き込み、明細を指で追った。「備品レンタル費が軽い。「友人価格」扱いの行が多いね」

 「でも、出ていくはずだった「時間」はどこへ?」由依は胸の奥がざわつくのを覚えた。紙では黒でも、現場では誰かの持ち出しが発生していないか——。

 校舎裏。焼きそばの鉄板を支える足場の下で、用務員の西谷さんが軍手の指を少し赤くした。

 「朝、ボルト、一本だけ足りなくてな。家から持ってきたんだ。ほら、このサイズ、学校の倉庫にはないから」

 「それ、精算できますか?」

 首が横に振られる。「領収、出ないやつだ。道具の「貸し」は経費にならん」

 由依はその場で三段を書いた。

 A:「本日の運営は「人の持ち出し」を含みます」

 B:「見えない持ち出しは『感謝/返却/代替案』の三択で回収します」

 C:「理由:黒字の裏側に、誰かの痛みを置かないため」

 札を「会計横の掲示板」に立てる。咲子がすぐ横に「返却の窓口」札を増設し、卓哉が「事実と感謝のカード」を作った。——謝礼でなく、「誰がどう助けてくれたか」を可視化するカードだ。

 昼前。ステージ裏。音響のケーブル束に、見覚えのある「影の補修」の手際が混ざっていた。

 「龍平、これ…」

 「朝いちで、「最短配線」にした。危険は逃がしてる。——ただ、レンタルの延長ケーブルを一本節約した」

 由依は黙って彼の手元を見た。安全は確保されている。でも、その「節約」は数字上の黒字を押し上げる。

 「やったこと、出そう」

 龍平は頷き、A-B-Cを口に出す。

 A:「配線の「影の補修」を行いました」

 B:「安全確認済/延長一本節約——『返却カード』へ」

 C:「理由:節約の「偶然」を、技術の「透明な選択」へ」

 カードに「影の補修:配線最短化/延長一本分」を記し、返却窓口へ差し出す。窓口の札は「感謝/返却/代替案」の三本。返却は「来週、同等品を学校へ寄贈(中古可)」、代替案は「次年度、延長の本数を事前に「見える化」」——数字で回収できない分は、手順で回収する。

 商店街ブースの飴玉屋台では、古道具屋の親父さんが笑っていた。「祭りの旗? 去年のを直して出したさ」

 「請求、ください」

 「いらねぇよ。祭りは持ちつ持たれつだろ」

 彼は笑ったが、旗の布地には指で縫った跡がびっしり残っている。大夢は胸のポケットからカードを抜いた。

 A:「旗の補修:古道具屋さん/労一時間」

 B:「来週、『旗の縫い方』講座を開催。技術を「返す」」

 C:「理由:金でなく、線で返せることがある」

 札は金額を求めない——ただ、時間と技術の線を戻す。

 午後一時。会計板は黒の数字を増やし続け、拍手と歓声の合間に「すごい、今年は潤うぞ」の声がこぼれる。そのそばで、白い封筒が落ちた。丸い書き癖。

 ——「黒字は『余剰』ではなく『移動』。移動先を紙に示せ」

 由依の背筋に、ひやりとした理解が走る。黒が生まれた場所と、黒を支えた手を結ぶ「移動図」が要る。

 その場で咲子がホワイトボードを奪取し、地図を描き始めた。

 ・節約:配線最短化(延長×1)→返却:寄贈(延長×1)

 ・無償:旗補修(1h)→返却:技術講座/「旗の縫い方」

 ・持出:工具貸与→返却:工具棚の点検・一覧化(次週)

 ・時間:用務員手当なし→返却:放課後ボランティア表を「役割名」で公開/感謝カード

 「「誰の」じゃなく「何がどう移ったか」」

 由依が太字で注記する。「名指しを避け、線で示す」

 その地図はあっという間に人だかりを生んだ。赤札が一枚、刺さる。「祭りの最中に水を差すな」。

 由依は迷わず返す。

 A:「賑わいを止めません」

 B:「『事実と感謝』だけを並べます。返却は「後日」でも可」

 C:「理由:祭りの後に残る「痛み」を減らすため」

 青札も届く。「来年は「返却箱」を常設に」——それは「代替案」へ昇格した。

 午後三時。ステージでクラス劇が終わると、観客の波が校庭へ流れる。黒字の数字は大きく、掲示の前には「寄付したい」「講座やりたい」の小さな声が増えた。カードの束は厚みを増し、「移動図」の矢印は混み合うのに、不思議と誰も苛立っていない。線が見えると、人は落ち着く——それを午後の風が証明した。

 その合間。旧校舎の屋上。日差しは傾き、光席の島のように校庭のブースを照らする。

 「…最後の一枚、出す?」

 由依が、風に髪を揺らしながら言った。

 大夢は胸ポケットの修繕帳を見た。最後の一枚は、まだ白い。

 「黒字の「余剰」を均すために、一枚で「最適化」する手もある。——でも、それをやったら、今日の「移動図」は消える」

 「そう。『便利さは、誰かの痛みを見えなくする』」由依は視線を校庭に落とす。「今日、見えた。黒の裏側に、手と時間があるって。だから最後の一枚は、多分——」

 言い切らず、彼女は大夢の手から帳面を取った。余白にペン先を置きかけて、止める。

 「…私が書くんじゃない。これは大夢の一枚だから」

 彼女は帳面を返し、代わりに小さな紙片を差し出した。灰青の札。角は丸く、言葉は短い。

 ——〈最後の一枚の扱い〉

 A:「「世界」には使わない」

 B:「必要なら「自分」に使う——でも「弱さを消すため」には使わない」

 C:「理由:「失敗して学ぶ」ための余白を、帳面の外にも残す」

 「これが、私の「直感」。「第三案」は、もう捨てたから」

 由依は笑った。柔らかい、でも逃げない笑いだった。

 風が一枚、掲示の角を鳴らした。下では「移動図」の前で、誰かが「旗の縫い方、教えて」と紙に書き足する。別の誰かは「延長ケーブル、家に余りが」と返却カードに提案を記す。黒は走り続ける——「余剰」ではなく「移動」として。

 夕刻。会計板は最終の数字をはじき、黒の印が確定した。

 ・売上:昨年比+18%

 ・支出:昨年比▲12%

 ・見えない持ち出し:カード登録31件→返却/代替案化

 ・事故:ゼロ

 検収の黒丸が二つ、修繕帳に滲む。

 ——検収:通過。

 ——観察:「黒字の移動図」運用妥当。※「返却箱」常設/講座の募集へ転換。

 赤い細字が添えられる。

 ——「金は『線』で記録せよ。感謝は『言葉』で返せ。最適化は、余白を奪う」

 屋上に戻ると、空は群青。最後の一枚は、まだ白い。

 大夢はその白さを見つめ、息を吐いた。

 彼は帳面を閉じた。文化祭の夜はまだ続く。だが、最後の一枚だけは、誰の祭りにも使わない——その決心だけが、固まっていた。

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