第35話_朝の採決と紙の配布

 夜が明ける少し前、修繕室には紙の擦れる音だけが漂っていた。印刷機の吐き出す熱気に、灰青のカードの束が積み重なる。大夢は汗を拭いながら、紙の角を整える。配布用の「基準総覧」はA4一枚両面。大きな数字と短い文だけで、例外なく誰もが読める構成に揃えられていた。

 「五時。——印刷、始める」

 奈緒子が秒針を掲げ、タイマーをセットする。卓哉が用紙を補充し、咲子が仕分けを担当する。龍平は運搬箱を肩に掛け、配布ルートを図に描く。森本はチェック欄に赤丸を付けて、役割ごとに束を振り分けた。由依は最後の目通しをして、一文字のズレも見逃さなかった。

 夜を徹さない——その決まりを守るために、四時には全員が横になり、三十分だけ目を閉じた。短い休息でも、意識を白紙にする時間があれば、判断は鈍らない。朝五時に再集合し、印刷が始まった。

 「配布六時三十分開始。校門側、昇降口側、体育館前。三路線同時」

 咲子が声を落として確認する。由依が頷き、大夢は運搬箱に「赤」「青」「光」「灰青」とラベルを貼る。

 「役割で呼ぶこと、忘れないで。——名前じゃなくて」

 全員が小さく頷き、それぞれの役割を口にする。「印刷」「仕分け」「運搬」「掲示」「窓」「計測」。名前より先に、役割で声を合わせることが、彼らのルールだった。

 校庭には、朝の湿った風がまだ残っていた。配布は始まる。昇降口では龍平が「基準総覧」の束を手渡し、受け取った生徒はその場でページを開いていく。紙の角に印刷されたQRコードをスマホで読み込む者もいる。体育館前では咲子が立札を掲げ、矢印を床に貼る。校門側では奈緒子が声の高さを抑えつつ、「こちらが『選べる基準』です」と一言だけ添える。

 六時五十分。配布はほぼ完了した。校舎の各所に、基準の紙が重ねられて並び、掲示板にも貼られている。誰が通っても一目でわかる配置。例外のない「選べる並列」が、実際の風景に変わりつつあった。

 八時。体育館に再び全校が集まった。議長が開会を告げ、最初の議題——「基準案の採決」に移る。

 「まず、監査人案」

 中央承認制と一括修繕を柱にした案が読み上げられる。

 「次に、修繕班案」

 「選べる基準」の紙が、各自の膝の上で光っている。由依が演台に立ち、言葉を重ねる必要はなかった。すでに全員が紙を持ち、その順序と短文を目で追っているからだ。

 「それでは、挙手による採決を行います。——監査人案に賛成の者」

 数百の手が一斉に上がる。体育館の空気が固まる。

 「次に、修繕班案に賛成の者」

 しかし確かに手が上がる。最初は前列から、次に後方、最後に観覧席の中段まで。静けさの中で、紙の擦れる音が連鎖する。

 集計の間、息を呑むような沈黙が体育館を覆った。時計の針が八時十分を指したところで、議長が数字を告げた。

 「監査人案、三百五十二票。修繕班案、三百五十九票」

 ざわめきが一斉に走る。わずか七票差。均一に寄せる案と、選べる基準を残す案が拮抗し、ほんの数票が明暗を分けた。

 「…成立しました。修繕班案を全校の基準とします」

 議長の声は淡々としていたが、その響きは体育館の隅々まで届いた。緊張の糸が切れ、ざわめきは拍手へと変わる。青枠の紙を掲げる者、QRコードを示し合う者、頷く者——反応はさまざまだったが、全員が「紙の基準」を手にしているのは同じだった。

 監査人は立ち上がり、修繕班の方へ歩み寄った。封筒を閉じて由依に渡す。

 「七票差。——だが、票は票だ。今日からはこれが「全校の基準」になる」

 その声には悔しさだけでなく、安堵の影も混ざっていた。

 由依は受け取り、深く一礼した。「「公開」が速さをつくることを、これから証明していきます」

 こうして、紙の基準は正式に採択された。文化祭本番を前にして、全校は「同じ太さの札」を手にしたのだった。

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