第32話_図書室の沈黙を測る

 昼下がりの図書室は、曇りガラスを透かした光で柔らかく満ちていた。普段なら紙をめくる音や鉛筆の走る音が響くはずなのに、その日は妙にざわついていた。

 「してって言ってるのに、全然伝わらない」

 司書補佐の三年生が机に額を伏せていた。周囲を見渡すと、一部の一年生が談笑し、二年生は机を寄せ合って問題集を解いている。確かに「沈黙」の線がどこにあるか分かりづらい。

 由依は棚の端に置かれていた掲示札を拾った。

 ——「ここは図書室です。」

 けれど、この一文は曖昧すぎる。大夢は紙片を三段に折り、黒マジックで書き込んだ。

 A:「沈黙=声を出さない」

 B:「低声=ひそひそ話は二分以内」

 C:「理由:集中と調べ学習の両立」

 「時間で線引きするのか」龍平が感心したように目を細めた。「二分以上は沈黙違反ってわけだな」

 「二分ってどう測る?」咲子が首をかしげる。

 そこで卓哉が砂時計を持ち出した。テスト用の十五分計を逆さにし、その中の一目盛りを指で示す。「この範囲がちょうど二分。談話するときは机に置いておけばいい」

 奈緒子が続ける。「でも「話す前に砂時計をひっくり返す」なんて、逆に目立つよね」

 「じゃあ、紙で補助だ」由依が新しいテンプレを貼る。

 ——〈図書室の沈黙運用〉

 1)基本=声を出さない。

 2)相談は二分以内。超えそうなら廊下へ。

 3)二分測定は「青札」を立てることで代替。青札=相談中。砂時計は司書机で補助的に。

 青い厚紙は加工され、短冊状に切られた。相談する生徒は机に青札を立てる。これなら遠目にもわかるし、沈黙違反かどうかも一目で判別できる。

 試しに二人組が数学の問題を話し合った。開始と同時に青札を立て、短い会話を交わす。ちょうど砂時計が一目盛り落ちるころ、札を下ろした。周囲の空気は以前より静けさを保ちながら、必要な会話だけを許した。

 「これなら「沈黙=禁止」じゃなくて、「沈黙=選択」になる」大夢が言った。

 「話す自由と話さない自由の両方を残せるね」由依が応じる。

 しかし、問題は浮上した。青札を立てながら談笑するグループが現れたのだ。笑い声は二分どころか五分も続き、札は単なる免罪符に変わってしまった。

 その場で検収会が開かれる。咲子が赤ペンで線を引いた。

 「——札の濫用をどう防ぐか」

 龍平は提案する。「青札は「司書机から借りる方式」にする。数を限れば、濫用は減る」

 奈緒子は「返却時に「使用時間」を記録する欄を設ける」と加える。使用者の名前ではなく、机番号と使用時間だけ。個人を責めないかわりに、全体で線を残す。

 翌日から、青札は図書室入口の小棚に並べられ、借用表と共に運用が始まった。午後三時、二年生が一枚借りて「2分30秒」で返却。四時には一年生が「1分40秒」で返却。その記録が一日ごとに貼り出されると、自然と平均時間が短くなっていった。

 沈黙は強制ではなく、数値で「見える化」された合意になった。

 夕方、由依が投書箱を開けると、一通の紙があった。

 ——「沈黙の線がわかったら、逆に安心しました。今まで注意されるのが怖くて、図書室に来られなかったけど、これなら来られる」

 その手紙を見た瞬間、青札の存在は単なるルールではなく、誰かを呼び戻す「扉」になったのだと全員が理解した。

 青札の運用が二日目に入るころ、「沈黙」は少しずつ輪郭を得はじめた。入室した生徒は入口の小棚で青札を一枚手に取り、机の番号と時刻を借用表に書く。司書机には砂時計が二つ——二分計と五分計。相談を始めるときに青札を立て、終わったら倒す。札の向こうで、言葉は細く切られ、要点だけが行き来する。

 けれど、輪郭が生まれると、その外側に「はみ出し」も生まれる。

 放課後、ディベート部の二年が十名で押し寄せた。「準備室が埋まってる。図書室で「資料の読み合わせ」だけでも」と代表が言う。声の訓練はしない、読み合わせだけ——そう言いつつ、彼らの「読み」は通常のひそひそより一段太い。周囲の空気が波打ちはじめ、青札の列が伸びていく。

 「ここの「沈黙」は、だれの沈黙ですか」

 司書補佐が困り顔でつぶやく。問いは正しい。図書室の沈黙は、個人の得点のためだけにあるわけじゃない。

 由依は黒板の端に、いつもの三段で起こした。

 A:「図書室は「沈黙」が基本です」

 B:「資料の相談は「二分」以内。五人以上の「読み合わせ」は「窓」で」

 C:「理由:集中と調べ学習の両立。多数の声は「窓」に集めると、全体が守れる」

 「「窓」?」

 「時間の窓。——『声の窓』を一日二枠だけ開ける。16:30–16:40と17:30–17:40。図書室の「相談席」を四卓だけ、読み合わせ許可にする。その代わり、そこだけは青札「二枚併用」が条件。札が二枚倒れたら、終わり」

 咲子が席の配置図に四角を描き、「相談席」の札を作る。司書机の上には小さな木のキッチンタイマー——金属音のしない静音型——が置かれる。「声の窓 10min」。窓という名の「枠」は、自由を削るためではなく、自由を「寄せる」ために置く。

 併せて、空間の「継ぎ目」を作る。

 ・沈黙席:入口から見て左の列

 ・相談席:窓側の四卓

 ・読み上げ可席:司書机に近い二卓

 「「読み上げ可席」は、音声で学ぶ人のために必ず残す」由依は強く言う。「『沈黙=ゼロ』だと、必要なひとの居場所が消える。——「沈黙=選び方」にする」

 目に見える線を増やすと、目に見えない線も整う。…と思った矢先、別の「はみ出し」が顔を出した。青札を立てずに、机を寄せて問題集を説明している一年がいる。注意すると、「札が借りられなかったんです」と返ってきた。借用棚は確かに空だ。濫用を防ぐために数を絞った副作用が出た。

 「「札がないから相談できない」は本末転倒だね」

 奈緒子が眉間を揉み、別の道具を取り出す。「じゃ、青札の「影」を作ろう。——『紙の秒針』」

 彼女が折り畳んだのは、幅1センチ、長さ12センチの細い目盛り紙。端を指で弾くと、しゅっと「二分」の間だけ戻ってくる。机の端に貼れば、力のいらない「紙のタイマー」だ。

 「青札がないときは、この「紙の秒針」で代替。返却不要。——でも、相談開始は司書へ目線をひとつ」

 由依は付記する。「「目線の合図」も「合図」。紙が足りないとき、体で補う」

 その日の「声の窓」は、驚くほど静かだった。ディベート部の代表は、札を二枚重ねて立て、読む声の高さを一定に保つ。隣の「沈黙席」では、二年の女子が「音読が聞こえる席がわかるの助かる」と微笑んだ。読み上げ可席に座る一年は、英単語帳を小さく口に出し、砂時計の砂が落ちきる前に口を閉じる。窓が閉じると同時に、札がぱた、と倒れる——音がしない、約束の音。

 ただ、「ざわつき」は完全には消えない。掲示で「」と書いても、空気が重なれば濁る。そこで倉本先生は、黒板の脇に小さな表を貼った。

 ——〈紙の音温計〉

 ・白=静けさ/誰かの咳払いが一分に一度

 ・薄青=低声の海/「ささやき」が三十秒に一度

 ・黄=ざわめき/笑いが一分に一度

 ・赤=騒音/連続三十秒

 司書が十五分ごとに、針の代わりに丸シールをひとつ貼る。数字でなく「色」で、部屋の「音の温度」を可視化する。

 「電子の騒音計じゃなくてもいい。——紙で『今』を見える化できれば、体は合わせられる」

 咲子が言い、卓哉はその日の終わりに「白が多かった時間帯」と「黄が多かった時間帯」を地図に落とした。窓側の二卓は夕方に黄が増える。なら、そこへ「読書の避難先」ポスターを追加し、窓際に一つだけ観葉植物を置く。環境側だけを、少し曲げる。

 夕方、投書箱に黄票が一つ。「青札の色、遠目に見づらい。もう少し「目が休む」色で」。

 由依は返答を起こす。

 A:「ご指摘ありがとう。青の彩度を下げます(灰青)」

 B:「机札の角を丸くし、卓上で紙の引っかかりを減らします」

 C:「理由:『静けさ』の道具が、視覚の負担にならないように」

 赤票も一つ。「「声の窓」が邪魔。窓はいらない」。

 返答は短く。

 A:「「窓」は十席中四席、十十分のみです」

 B:「『読み上げ可席』が必要な人がいます。窓はその居場所を守るための「細い橋」です」

 C:「理由:図書室は「静けさの避難先」であると同時に、「学びの交差点」でもあるため」

 そのやりとりの最中、白い封筒が辞書コーナーから滑ってきた。丸い書き癖。

 ——「「静けさ」は命令ではなく、合意で保て。合意は『枠』と『窓』で形になる」

 監査人の一行は、やはり角度だけを置いていく。

 夜の検収会。東雲は紙の音温計を見て、「色は情報の速さを整える」と評した。西田は「窓の数はこのまま。増やすと「基本」が薄まる」と釘を刺す。森本は青札の借用表を見て、「借用→返却の滞在時間を「平均化」して掲示」と提案した。倉本先生は最後に、「「読み上げ可席」の札は、誰かを「特別扱い」に見せない言葉を」と示す。

 候補——「声の練習席」「読む声の席」「声の勉強席」。

 刺さらず、でも包む言い方を探すのは、いつもここからだ。

 週報の末尾に項目が並ぶ。

 ・青札(灰青)運用:借用123件/平均1分58秒/最大4分10秒(警告1)

 ・紙の秒針:配布70本(返却不要)

 ・声の窓:2枠実施/読み合わせ3グループ/苦情0/感想「助かった」4

 ・読み上げ可席:利用延べ16名/砂時計誤差±10秒

 ・紙の音温計:白12/薄青8/黄4/赤0(15分刻み)

 ・投書:黄1(色味→反映)/赤1(窓反対→回答済)/白2(「まだ」)

 ・台帳公開:借用表

 東雲が検収印を置き、赤い細字が添えられる。

 ——「「静けさ」は『禁止』では育たない。『形のある選択』に支えられる」

 黒板の掟に一行が加わった。

 ——ルール㉞「図書室の沈黙」。

 1)基本は沈黙。相談は二分、青札(灰青)で可視化。

 2)「声の窓」は一日二枠・十席中四席。札二枚併用。

 3)「読み上げ可席」を常設。砂時計の「幅」で運用。

 4)青札不足時は「紙の秒針」+目線の合図。

 5)紙の音温計で「今」を色で共有。

 「言い換えると、「静けさは、枠と窓で合意する」」

 咲子が読み上げ、卓哉は灰青のテンプレを更新。奈緒子は秒針の型紙を印刷し、龍平は相談席の座面脚にフェルトを貼る(椅子音の吸音)。森本は借用表の「平均時間」をグラフにして、入口脇に貼った。

 最後に、大夢は修繕帳の余白へ指を置く。黒い丸が二つ、滲む。

 ——検収:通過。

 ——観察:「枠と窓」の併用妥当。※「読み上げ可席」の言い換えを試行。

 赤い細字が一行。

 ——「静けさは「隠す力」でなく、「選び方」。紙で選び、窓で許す」

 大夢は今日の一行を書く。

 閉館のチャイムは鳴らない。代わりに、青札が一枚、倒れた。静けさは合図で保たれ、その合図は誰にも刺さらない角を持っていた。

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