第31話_消えた時計と帳尻合わせ

 朝の点呼が終わった直後、校舎の西棟から妙な声があがった。二年の誰かが「時計が消えた」と叫んだのだ。教室の壁に掛けてあった丸時計が、釘とヒモだけを残して無くなっている。針の動きを頼りに授業の開始や終了を計っていたはずの場所に、ぽっかりと空白があった。

 「盗まれたんじゃ…」と怯える声が広がる。

 だが、大夢は少し首を傾げた。「盗む意味があるか?」と呟き、由依は修繕帳を取り出した。

 ——「西棟二年教室、壁掛け時計消失。原因未詳。推測:①物理的持ち去り、②落下→移動、③貸出不明」。

 そう記すと、横に「公開範囲:全学年」と赤い括弧で強調する。

 奈緒子は教室内の床を調べ、机の下にうっすらと円形の埃跡を見つけた。そこには時計が落ちたらしい形跡が残っている。しかし時計そのものは見当たらない。

 「…移動した?」

 「隠された?」

 意見が割れる。

 咲子は「誰が持っていても、時間は全員で使うものだから」と紙札を作り、黒板に貼った。

 ——「時計は共用品。所在不明のまま使用不可の扱いとする」。

 これで混乱は一旦止まる。しかし、授業の区切りはどうするか。龍平は「今はチャイムだけじゃ足りない」と指摘した。廊下の音が教室まで届かない場合があるからだ。

 そこで卓哉が「だったら全員で同じ「帳尻合わせ」を決めればいい」と提案する。校庭のサイレンの時刻を基準にして、そこから十五分刻みで区切りを設ける。時計がなくても、全員が「音」を軸に進められる仕組みだ。

 「サイレンは一日二回しか鳴らないけど」一年が心配そうに言う。

 「鳴らない間は、紙の砂時計を作る。二リットルのペットボトルを逆さに繋いで、水を落とすだけでもいい」

 由依が手を打つと、奈緒子が理科室から漏斗を持ってきて実験を始めた。紙片に「十五分=水位が目盛り3まで」と記す。

 午後には二つの臨時「時計」が設置された。一つは校庭のサイレン基準の掲示板、もう一つは水落ち砂時計。どちらも「数字でなく「区切り」を示す」役割を持つ。

 夕刻、外回りの巡回をしていた森本が、体育倉庫裏で濡れた布にくるまれた時計を発見した。誰かが隠したのか、あるいは突風で落ちたのかは不明だった。ただ、針は止まっており、ガラスも割れていた。

 由依は修繕帳に追記する。

 ——「発見:西棟丸時計、倉庫裏にて。破損=針停止、ガラス割れ。原因:未確定」

 横に「代替措置:水時計+サイレン基準」を残し、森本は「破損品はそのまま「痕跡」として展示するべき」と進言した。

 「時間は消えない。物が壊れても、区切りは人で作れる」

 成瀬先生がまとめるように言った。

 この日の検収会で増えたルールは一つ。

 ——ルール㉞「時間の帳尻合わせ」。

 1)共用品の時計は所在不明なら「不可」扱い。

 2)代替は音や水位などの「全員が共有できるもの」。

 3)壊れた痕跡は展示し、同じ過ちを繰り返さない証とする。

 咲子は壊れた時計を透明な袋に入れ、「共用品の記憶」と書いた札を下げた。大夢はその光景を見ながら、「時間さえ、紙で守れるんだな」。

 壊れた丸時計は、透明袋に入れられてもなお「時刻を示そう」とするかのように、止まった針をきゅっと結んでいた。体育倉庫裏の雨だれを拭き、森本が台帳に「発見」を記す横で、由依は掲示用の紙を三段で起こす。

 A:「二年西棟の壁掛け時計は「使用不可」です」

 B:「当面、サイレン基準+水位砂時計で区切りを合わせます」

 C:「理由:共用品の「所在不明」は公平性を欠くため。代替の区切りで、授業と準備の帳尻をそろえます」

 紙が黒板に並んだ途端、教室に溜まっていたざわつきが半歩だけ落ち着いた。数字の代わりに「区切り」が示されると、体は意外とすばやく馴れる。チャイムの代わりに廊下の遠い足音や校庭の風音までが、合図の候補に見えてくる。

 「でもさ」

 机に頬杖をついていた男子が、刺のある声を出した。「これ、誰かがわざと隠したんなら、そいつが謝らないと意味なくない?」

 空気が固くなる。由依は、「犯人探し」に折れるのを紙で止めた。

 ——〈事実/感情の分離〉

 ・事実:時計は使用不可。区切りは代替で運用

 ・感情:不安/怒り/不公平感——掲示板の「気持ちの札」に

 ・責任:意図の有無にかかわらず「共用品の扱い」の問題。手順を先に

 「気持ちの札」は数分で埋まった。

 青(不安)——「テストの時間配分、狂わない?」

 黄(質問)——「水位砂時計、誤差どのくらい?」

 赤(怒り)——「わざとなら許せない」

 白(沈黙)——二枚。「まだ」の気配が、紙の端にふわりと漂う。

 奈緒子が砂時計の目盛りを指先で示した。「誤差は±一分以内。二リットルの水位、三目盛りで十五分。気温差で変動が出るから、目盛りの「幅」を持たせてある」

 「テストは?」

 「区切りを「二重化」する。——サイレンの合図と、監督の『紙の合図』」

 咲子がテンプレを掲げる。

 A:「開始・終了の「紙の合図」を見えるところに掲示します」

 B:「水位砂時計は監督机に置き、残り五分で札を一枚追加します」

 C:「理由:音だけに依存せず、誰の耳にも届く「見える区切り」にするため」

 赤札の列は消えない。教室の後ろで腕を組んでいた女子が、目を逸らしたまま呟いた。「…テスト、延びると思った。時計がなければ、先生も困るから」

 由依は目を伏せる。誰も「犯人」を特定しない。紙は、名指しをしない代わりに、線で包む。

 「延びねぇよ」龍平が苦笑した。「延ばしたら「公平」じゃなくなる。だから「帳尻合わせ」って言ってる」

 「そっちのほうが怖いよ」女子は唇を噛む。「自分のためにやったことが、全員の手順で「無効」にされるの」

 「「無効」じゃない」大夢が言った。「「無害化」。痛みは残る。けど、それを個人に刺さないために、紙に逃がす」

 昼前、学年掲示に新しいフライヤーが加わった。

 《時間の帳尻合わせ・試行》

 ・サイレン基準から十五分刻みの区切り表

 ・教室用「紙の合図」セット

 ・水位砂時計の目盛り表(±1分の幅)

 ・テスト時の監督手順(紙→口頭→紙)

 署名は「公開担当(図書室/学年)」、停止権者は役割名だけ。QRは週報の該当段へ。

 午後一番。二年の数学小テストは、紙の合図で始まった。黒板の隅に「開始」が貼られ、次に「残り五分」が掲げられる。水が目盛り三の少し下を通ると同時に、最後の「終了」が貼られた。チャイムは鳴らない。ただ、紙が鳴る。紙鳴りの静かな音。——誰の耳も選ばない音。

 採点中、担任が漏らした。「…これ、三者面談でも使えるかもな」

 「面談の区切り」由依が顔を上げる。「親御さんは「時間オーバー」になりがち。——「紙の合図」なら感情を刺さずに済む」

 咲子はすでに面談フローを開いている。

 1)面談開始時に「開始」札を卓上に。

 2)残り五分で「あと五分」。

 3)終了時に「一旦ここまで」。

 4)「続き予約」のQRを同じ紙に。

 5)面談者の「気持ちの札」を受付で配布(青/黄/白)。

 その瞬間、投書箱から白い封筒が滑り出た。丸い書き癖。

 ——「時間は「公平」ではない。だから「可視」で補う」

 監査人の一行が通ると、紙の合図は掟へ緩やかに昇格する。

 放課後、修繕室。透明袋の中の壊れ時計が、展示用のフレームに入れ替えられた。札には「共用品の記憶/二年西棟」とだけ記され、「犯人」という単語はどこにもない。

 「直さないの?」一年が問う。

 「直せるけど、「直さない」を残す」大夢が答える。「壊れた痕跡が「次の線」を太くするから」

 「でも、誰かが謝りたいときは?」

 「紙で受ける」

 由依は小箱を取り出す。

 ——〈匿名の謝罪箱〉

 ・「行為」に対する謝罪を受け付けます

 ・個人名は不要。「次の手順」の提案を一行

 ・週報で「提案」のみ公開。「名前探し」はしない

 小箱は、翌朝、白い紙片をひとつ受け取った。

 ——「ごめんなさい。テストがこわくて、時計を隠しました。次は「開始の紙」を自分が持ちます」

 たったそれだけの言葉を、由依は「提案」の欄に清書して貼った。

 A:「面談・テストの「開始の紙」を当番制に」

 B:「「残り五分」は学級委が持つ」

 C:「理由:区切りの役割を「誰か」から「みんな」へ」

 夕方の検収会。東雲は壊れ時計の展示札を見て、「「誰かの過ち」を「全員の手順」で回収する——良い」と短く言った。

 西田は「水位砂時計の「幅」を明記」と追記し、森本は「当番札は連番で台帳管理」と線を引く。

 成瀬先生は「面談の『一旦ここまで』は、言い換えに余地がある」と示唆した。

 ——候補:「続きは次の枠へ」「今日はここで折ります」「次のページで」

 刺さらず、しかし止まる言葉を探す——それは「帳尻合わせ」の核心だった。

 掟が一行、増える。

 ——ルール㉟「時間の帳尻合わせ」。

 1)共用品の時計は所在不明→「不可」。代替は「見える区切り」。

 2)サイレン基準+紙の合図+水位砂時計の「三段」。

 3)テスト・面談は「紙→口頭→紙」で合意。

 4)壊れた痕跡は展示。「犯人探し」はしない。提案だけ公開。

 5)当番札は連番管理。役割名で記録。

 「言い換えると、「時間は治さず、扱いを設計する」」

 咲子が読み上げ、卓哉が「開始/五分/終了」の小札をテンプレ化する。奈緒子は水位の温度補正表を添え、龍平は面談ブースの卓上スタンドを作る。森本は当番連番の出納表を更新した。

 その夜。修繕帳の余白に黒い丸が二つ、ふっと現れた。

 ——検収:通過。

 ——観察:「区切りの三段化」妥当。※面談での「言い換え候補」運用を継続。

 赤い細字が添えられる。

 ——「「公平」は存在しない。だから「可視」を並べる。揃えるのは「速度」ではなく「合図」」

 最後に大夢は、今日の一行を書く。

 展示棚の中で、壊れた丸時計は止まったまま——だが、教室の空気は進む。サイレンの鳴らない午後でも、紙が鳴る。目に見える区切りが、目に見えない焦りを薄めていく。時間の「帳尻」は、今日も紙で合う。

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