第30話_雨音と紙の防波堤
放課後、校舎の屋根を強い雨が叩きつけていた。窓ガラスに斜めに流れる水筋が、教室の照明を乱反射させる。ガラスの向こうにもうひとつの世界が揺れているみたいだった。
「…これ、やばいな」
卓哉が窓辺に立ち、外の運動場を見下ろす。地面にはすでに大きな水たまりがいくつもでき、渡り廊下の下は小さな川のように水が流れていた。
「文化祭展示、資材の段ボールが全部濡れる…」
咲子が眉をひそめる。彼女の手には明日の飾り付けに使うポスター用紙の束。湿気を吸って、すでに端が波打ち始めていた。
奈緒子が黒板横の掲示板に貼ってあるチェックリストを外す。
「雨対策、まだ仮運用だよね。『防波堤ルール』を試すしかない」
彼女が取り出したのは、折りたたみ式の厚紙パネル。黒縁に青いマーカーで《雨対策》と書かれた文字が浮いている。
「対象:資材搬入口/南渡り廊下下段/体育館裏」
「期間:大雨警報の間」
「権限:物品担当・副会長・会計」
項目を読み上げると、由依がうなずき、指で机を叩いた。
「じゃあ、発動するよ。——《雨対策モード》開始」
六人は手分けして走り出す。
体育館裏の出入口では、大夢がすでにブルーシートを広げていた。龍平がロープを結びながら、声を抑えて指示する。
「水の流れは南西から。シートは二重にして、下に紙パネルを挟め!」
床に広げた段ボールは水を吸い始めていたが、間に防水スプレーを噴いた紙パネルを差し込むことで、一時的な防波堤になる。
「これ、ほんとに効くの?」一年の手伝いが不安げに尋ねる。
「効かせるんだよ。線を切らなきゃ、水は勝手に流れる」
大夢の言葉に、少年は黙って段ボールを運び込んだ。
渡り廊下下段では、咲子と卓哉が「静けさ避難先」の札を別の用途に使っていた。緑枠のポスターを逆さにして、そこに青マーカーで「雨水避けルート」と書く。蓄光テープで矢印をつけ、通学路の生徒を安全な側へ誘導する。
「夜じゃなくても、線は見えるんだね」
咲子が汗を拭いながらつぶやく。卓哉は肩をすくめた。
「線の意味は昼夜で変わらない。ただ、見せたい先を間違えなければ」
校舎内。奈緒子と由依は教室前の資材置き場を巡回する。濡れかけた紙類を上段へ移動させ、床近くにはプラスチックケースを並べる。
「『上で演出、下で安全』の応用ね」
奈緒子が笑う。
由依は濡れたポスターの端をなぞり、声を低くした。
「紙が波打っても、人の気持ちが折れなきゃ展示はできる。——でも、波を小さくするのが私たちの仕事」
作業の最中、倉本先生が長靴姿で駆け込んできた。
「職員室から通達だ。大雨警報、あと二時間は続く見込みだって」
「了解。防波堤モードを継続します」
由依が即答する。先生は少し目を細めて頷いた。
十分後。体育館裏の簡易防波堤は、雨水をしっかり受け止めていた。紙パネルはじわじわと膨らみ始めていたが、二重にしたおかげで水は中に入らない。
「十五分は持つ。交換用を準備してローテーションだ」
龍平が手帳に時刻を書き込む。森本は横で、台帳に赤字で記録した。
——《雨対策モード》
・開始 16:42
・場所:体育館裏、南渡り廊下下段、資材置き場
・方法:紙パネル防波堤、迂回ルート表示、資材移動
・担当:役割ごとに記録
その記録は、後日公開される履歴の一部になる。
「見せるのは名前じゃなく、線の通り方」
由依がそうつぶやくと、大夢は濡れた前髪をかき上げて笑った。
「線を切らなければ、水も人も渡れる。今日の雨は、その証明だな」
雨脚は衰えない。倉庫前のアスファルトは水鏡になり、降り落ちる粒の一つひとつが波紋を刻んでは消す。体育館裏の簡易防波堤は一巡目の十五分を過ぎ、紙パネルの表層がふやけて色を濃くした。
「交換、いくよ——三、二、一」
龍平のカウントに合わせて、大夢と一年二人が濡れたパネルを引き抜き、乾いた予備を差し込む。差し替えの瞬間だけ水が牙を見せるが、二重構造の「内側」が受けてくれる。ロープの結び目を指で締め直すと、流れはまたやんわりと向きを変えた。
「ローテ、記録っと」
森本が台帳に赤字で書く。——交換1回目 16:57、2回目 17:13。連番はGY-RN-001〜。
南渡り廊下の下段では、咲子と卓哉が蓄光矢印の外側に「水位ゲージ」を増設した。透明ファイルを切って縦に貼り、そこに防水マーカーで1cm間隔の目盛りを引く。
「数値で見えれば、怖さは減る」
由依は頷き、ゲージの上部に小さな注釈を足した。
——「10cmで長靴ライン。15cmで通行打ち切り・迂回へ」
数値は誰の肩書きにも寄りかからない。ただ「理由」の形をして並ぶ。それだけで、立ち止まる足の迷いが半歩だけ整う。
「——詰まってる」
奈緒子が側溝の目皿を持ち上げ、泥と葉の塊を見せた。雨水がここに集まり、渦を巻いている。軍手をした手で掻き出し、網の目を開けると、勢いよく吸い込まれた水が音を低く変える。
「帳面は「環境側だけ」」
彼女は修繕帳に短く置く。
紙片を側溝の「外側」に貼ると、さっきまで暴れていた流れが「撫でる」ように変わった。人が作った段差に人が手を入れ、自然の力は自然の速さへ戻る。
そのとき、資材置き場のほうから声が上がった。「やばい、敷居、越えそう!」
駆け込むと、教室前の敷居に沿って水が筋をつくり、あと2cmで室内へ侵入しようとする。濡らせない紙箱が壁際に山と積まれ、波打つ端がこちらを見ているように見えた。
「紙土嚢、いく!」
大夢が叫ぶより先に、卓哉がゴミ袋に裁断済みの紙を詰め、空気を抜いて口を縛った。二重にして、袋の「腹」を板で撫で、敷居の外に沿わせる。
「渡し札——「仮土嚢(紙)/雨対策モード限定」」
由依が書き、咲子が立会欄に「公開担当/物品担当」と役割で署名する。
「押さえは角を三角に。流れを「逃がす」角度で」
龍平が位置を調整。紙土嚢は軽い。しかし、敷居の縁と袋の柔らかさが意外なほどよく噛み合い、流れの「舌」はそこから外へ舵を切った。
「——ギリ、止まった」
一年の肩から力が抜ける。
同時に、青票が一枚、投書箱に落ちていた。
——「廊下の「雨水避けルート」の掲示、デザインがバラバラで見づらい」
返答はA-B-Cで短く返す。
A:「ご指摘ありがとう。雨対策中の掲示は「青枠+矢印形状B」に統一します」
B:「デザインテンプレを週報に公開、印刷用PDFも置きます」
C:「理由:避難中は「統一の形」が理解を早くします」
「統一テンプレ、いま作る」
卓哉がノートPCを開き、青枠テンプレを起こす。角丸半径、太さ、矢印の角度。「見せる先」だけを太くする。
赤票も一枚——「体育館裏の「紙の防波堤」、見栄えが悪い。来客の印象が落ちる」。
由依は返答のペンを止めずに動かす。
A:「外見のご懸念は理解します」
B:「代替として『上』に演出を移します。雨がやんだら、天井から「雨だれモビール」を吊るし、『下』は安全のみを保ちます」
C:「理由:安全の「見栄え化」は見世物になる恐れがあり、学校の方針に反します」
「上で演出、下で安全」——合言葉は、雨の日の理屈にも馴染む。
十分ごとの交換、排水の見回り、資材の位置替え。時計はじわじわ進む。雨音は相変わらずだが、耳が勝手に「線」を選び始める。水位ゲージは最大で12cmまで上がってそこで踏みとどまり、10cmに戻った。
「ピーク、越えた」
奈緒子が気圧計を見て頷く。倉本先生が職員室の窓から手を振り、掲示板に「雨対策モード 継続→解除準備」に札を返した。
解除の段取りも、紙に落ちている。
——〈雨対策モード・解除フロー〉
1)水位ゲージ10cm未満を15分維持。
2)紙土嚢は「濡れ度合いA/B/C」で仕分け。A=再利用不可→回収袋へ。B=乾燥台に。C=再利用棚へ。
3)防波堤パネルは表裏をチェックし、連番で乾燥ラックへ。
4)「雨対策テンプレ」と実績を週報で公開。
5)掲示の青枠テンプレは常設へ格上げ。
「——4)で「型紙」も出そう」
咲子が指を折る。「紙土嚢の作り方、折り方、封の仕方をA4一枚に」
解除直前、白い封筒が水たまりの縁に滑ってきた。拾い上げると、丸い書き癖。
——「水は『理由を選ばない』。だから人は『理由を見せる』」
由依は封筒をポケットにしまい、黒板に書く言葉を決めた顔になった。
日暮れ。雨は糸になり、霧に変わる。六人は最後の交換を終えて、濡れた紙土嚢をBとCに分け、パネルをラックに立てかけた。体育館裏で大夢がロープの結びを解くと、ロープの跡に淡い線が残った。
「「跡」は、消さない?」
一年がたずねる。
「消さない。——雨の日の「痕跡」は、次のための地図になる」
大夢は笑った。「でも、汚れは落とす。残すのは線、落とすのは泥」
夜の検収会。机の上には濡れた紙と乾いた紙が交互に並び、台帳には赤い数字が等間隔で並ぶ。
・紙防波堤交換:4回(各15分間隔)
・紙土嚢制作:A 8袋/B 6袋/C 4袋
・水位最大:12cm(長靴ライン未満)
・浸水:ゼロ
・青票1/赤票1
・黄票1(型紙公開→実施)
・緊急モード:未発動
東雲は一枚ずつ捲り、「数字が「怖さ」を薄める」と短く評した。西田は「廃材の行き先を明記」と付け加え、森本は「乾燥棚に「風の通り道」を」とチェックを走らせる。成瀬先生は最後に一言、「水は礼儀知らず。だからこちらが礼儀を整える」。
掟が一行、増える。
——ルール㉝「雨対策」。
1)紙の防波堤は二重+ローテ。交換時刻は台帳で管理。
2)水位は「見える化」。閾値と措置を同じ紙に。
3)封鎖+迂回は青枠テンプレで統一。
4)「上で演出/下で安全」。危険の見栄え化はしない。
5)紙土嚢はA/B/Cで仕分け、乾燥棚と再資源化を明記。
紙で選び方を見せる」」
咲子が読み上げ、卓哉がテンプレに「雨」アイコンを小さく加える。奈緒子は水位ゲージの写真を週報に貼り、龍平はロープの結びの手順をイラストに起こす。森本は「乾燥棚」の札を新たに作り、連番を振った。
最後に、由依は修繕帳の余白に指を触れ、今日の終わりを呼ぶ。黒い丸が二つ、滲む。
——検収:通過。
——観察:「雨対策」テンプレ実装。※「型紙公開」と「乾燥棚運用」を継続。
赤い細字が添えられる。
——「守るとは「流れを太くしない」こと。細い橋を連ねよ」
大夢はペンを取り、今日の一行を記す。
扉を開けると、雨はもう音を持っていなかった。校舎の外に出た空気は、紙の匂いが少し乾いた匂いに変わっている。足元の水たまりに、蓄光矢印の残光が一瞬だけ映って消えた。線は夜の底へ沈み、明日また必要な形で浮かび上がるだろう。
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