第29話_停電訓練と光の矢印
週末の昼下がり、校舎の一角に集まった六人は、机の上に新しく届いた工具箱を並べた。大夢の父から託されたその箱は、金属の冷たい質感と、長年使い込まれた痕跡を併せ持っている。蓋を開ければ、整然と収められたラチェットやドライバー、蛍光テープや絶縁手袋までが光を反射した。
「今日は「停電訓練」だね」
龍平が工具を取り出しながら笑う。
「ただの消灯じゃない。「止める勇気」を実際に形にしてみようってやつだ」
机の上には、停電シナリオを記した紙も置かれていた。
1)分電盤を一時的に切り、旧体育館の半分を停電状態にする。
2)避難経路の確認。
3)蓄光矢印・封鎖帯・渡し札の使用確認。
4)記録方法の点検。
5)終了後、停電時の「説明不足」を洗い出す。
「じゃあ、体育館から始めようか」
由依が帳面を抱え直し、皆を先導した。
旧体育館の中は、まだ昼間の光が射し込んでいた。窓からの光を頼りに、観覧席と舞台が淡い影を落とする。西谷さんが分電盤の鍵を渡し、工具を使って大夢と龍平が作業を進める。金属のカチリという音とともに、片側の照明が落ちた。
「…おお、雰囲気が一気に変わるな」
卓哉が息を呑んだ。
残った光は窓際から差す細い筋だけ。体育館の奥は闇に沈み、昼間でも不安を覚えるほどだった。
「はい、これ」
咲子が蛍光テープを床に貼り、矢印の形を作っていく。暗がりの中でと光る緑色の矢印が、避難口の方へ導いている。
「夜間想定だと、蓄光の線が命綱になる」
奈緒子が頷き、帳面に記録を書き込んだ。
「封鎖帯も夜間仕様に替えてみよう」
龍平が封鎖テープを張り替える。黒と黄の縞模様に蓄光素材を縫い込み、停電の暗闇でも境界が浮き上がるよう工夫してあった。
「「ここから先は行けない」って、光で伝えるんだね」由依が呟く。
大夢は胸ポケットから黒縁の渡し札を取り出した。そこには『GY-02 停電中』と赤字で記されている。
「札も、停電用を作った。これを回して状況を共有する」
由依に札を渡すと、彼女は無言でうなずき、封鎖の前に立った。
訓練は順調に進んでいくように思われた。だが、舞台裏の階段を確認していた奈緒子が声を上げた。
「ここ、矢印が途中で途切れてる!」
皆が駆け寄ると、確かに階段の途中で光の線が切れ、闇がぽっかりと口を開けていた。
「…これは危ないな」
卓哉が眉をひそめる。
「「説明の外」が入り込む隙を与えちゃう」
咲子は即座に裁断器でテープを切り足し、矢印を補完した。光の川が再び繋がり、闇の口は閉ざされる。
「「抜け落ちた線」を埋めるのも、停電時の仕事だね」
奈緒子が深呼吸し、汗を拭った。
訓練を終えた六人は修繕室に戻り、反省点を黒板に書き出した。
・矢印は途切れなく貼る
・封鎖帯の蓄光効果は有効
・渡し札の「停電中」表示が機能
・舞台裏の階段で途切れが発生→改善必要
・記録者は「抜け落ち」の有無を必ず確認
由依は最後に太字で一行を書き加えた。
その言葉に、皆がうなずいた。光は闇を消し去るためではなく、渡るために必要なのだと。
「抜け落ちた線」の補修を終え、体育館の半面停電は予定どおり三十分で解除された。蛍光灯がひと呼吸おいて順番に明るさを取り戻す。点灯の波が天井を走るのを見届けてから、西谷さんが親指を立てた。
「記録、ここまで良好。——で、次は屋内の動線チェックだね」
由依が黒縁の渡し札を束ね直した瞬間、空が低く鳴った。遠雷。窓際の薄光が一段沈んだかと思うと、校舎全体がふっと息を止める。
「…あれ?」
蛍光灯がすべて落ちた。停電訓練ではなく、本物の停電。体育館の奥で自動扉のモーターが悲鳴をあげかけ、そこで固まる。廊下の向こうから、ざわめきがひと波やってくる。文化祭準備の部員たちの声だ。
「緊急モード——発動」
由依の声は、小さいのに、まっすぐだった。
咲子が赤枠の紙を引き出して、太字で三行を書き、入口に貼る。
・対象:旧体育館/南渡り廊下/視聴覚前
・期間:復電まで(目安30分)
・権限:停止権者+公開担当
赤枠が蓄光して縁どられる。貼り終えるのと同時に、六人は散った。
大夢と龍平は体育館フロアへ。蓄光矢印は強く、川のように流れている。だが舞台袖へ続く階段で、さっき補ったテープの端が湿気に浮きかけていた。
「環境側だけ」
奈緒子から受け取った裁断済みの短冊を、大夢は端部に重ね貼りする。粘着の縁を指腹でなじませ、段差に沿わせる。矢印の線が「切れ目なし」に戻った。
「フロア中央、集合!」
龍平は声を張る代わりに、手振りの「集合」を高く掲げた。訓練どおり、通訳役の一年が両脇で同じ合図を繰り返す。声は闇で散る。動きは闇で届く。
「出入口、二つに分ける! 静けさが欲しい人は「静けさの避難先」へ!」
矢印は二股に分かれ、片方は緑のポスターを抜ける。「静けさ」の札が淡い輪郭で光り、そこに吸い込まれる数人の影があった。
渡り廊下は、問題が出やすい場所だ。封鎖帯の手前で、二年が三人うろうろする。
「ここ、通れません——南へ迂回!」
卓哉がA-B-Cで短く出す。
A:「ここは停電時「危険展示」。通行禁止です」
B:「南渡り廊下が開いてます。矢印へ」
C:「足下の安全を優先するためです」
言葉の先に、蓄光の点描が続く。彼らは迷わず動いた。禁止は短く、代案は具体、理由は目的語で——体がもう覚えている。
視聴覚室前。黒縁の札は夜間仕様のままで、ここだけ昼夜をまたぐ運用になっている。扉の前でスマホを掲げていた一年が、大夢の腕を引いた。「配信、どうすれば…」
「今のは「止めるほう」。——代わりに「昼ツアー」の特別枠を増やす。停電ルートの裏側、撮っていい」
少年はうなずき、スマホを下ろした。紙が「見せる方向」を準備できていると、止める言葉は刺さらずに届く。
十分後。体育館のフロア中央で、由依が「人の川」を見渡す。矢印は流れ、封鎖は立ち、手振りは空へ。誰の耳にも届く必要はない。届いてほしい相手へだけ、届けばいい。
「——落ち着いた」
倉本先生が横で息を整える。
「渡し札、回ってる?」
森本が台帳ペンで連番を追っていた。「GY-02 停電中:001〜018 配布。返却は後で一括。——緊急モード履歴、公開の準備も」
「履歴に「誰かの名前」はいらない。役割だけ」由依が確認する。矢印の線と同じ太さで、責任の線を引く。
そのとき、フロア隅で小さな悲鳴。一年がコードに足を取られかけ、膝が折れる。床に散らばった延長ケーブルの輪。
「危ない!」
大夢は反射的に飛び出した。だが手を伸ばすより先に、蓄光矢印の「細い川」が一年の足を「外」に向けていた。矢印に乗った足は、ほんの半歩、救われる側へ滑る。
「大丈夫?」
由依が肩を支え、卓哉がケーブルの輪を巻き取る。
「ケーブル、上へ」
奈緒子が指差す。舞台上の手すりに仮留めのフックを作って、ケーブルの「道」を空へ逃がす。「上で演出、下で安全」——合言葉を、また一つ、体で実装した。
分電盤の向こうで小さな音。復電の波が戻ってきた。ひとつ、またひとつ、蛍光灯が白を取り戻す。ざわめきが拍手に変わる前に、由依は赤枠の札に斜線を一本引いた。
——《緊急モード(停電)解除》。
赤い縁が薄まり、黒縁の通常札が戻る。人の川はほどけ、またそれぞれの作業の川になる。
修繕室。冷えた水を回し飲みしながら、反省と記録が始まった。黒板に並ぶ箇条。
・復電まで13分。動線分割は「静けさの避難先」の活用で混乱なし
・矢印の端部——湿度で浮き。端処理の標準化が要
・ケーブル管理——「上へ逃がす」ルールを徹底。仮留め器具の数を増やす
・緊急モード履歴——権限者(役割)/開始終了時刻/理由を即日公開
・「夜の札」の昼運用——視聴覚前で有効
咲子が最後に太字で書く。
「掟、増やそう」
由依がチョークを握る。
1)「緊急モード」の宣言は赤枠で。対象・期間・権限を同じ太さで掲示。
2)蓄光の矢印は「切れ目なし」。端部の標準処理を徹底。
3)「上で演出、下で安全」。床の障害は上へ逃がす。
4)静けさの避難先を必ず併設。
5)履歴は役割名で即日公開。
「言い換えると、「暗いほど、線は太く——でも増やしすぎない」」
咲子が読み上げ、卓哉が矢印の端部形状の図を清書する。龍平は仮留め用のフックの個数を在庫表で確認し、森本は履歴ページのテンプレを刻む。奈緒子は湿度変動のグラフをプリントして、端部の浮きやすい気象条件を赤で囲った。
そこへ、工具箱の影に白い封筒がひらりと落ちた。拾い上げると、丸い書き癖の一行。
監査人の温度は、今日も角度だけを置いていく。
「検収、呼ぶね」
由依が帳面の余白を指でなぞると、黒い丸が二つ、滲むように現れた。
赤い細字が添えられる。
夕方。体育館の片隅で、光の矢印はもう目立たない。昼の明るさのなかでは、線は背景に溶け、必要なときだけ浮かび上がる。
「父さんの言った「止めるための工具」、効いたね」
大夢が言う。
「うん。直すのは物だけじゃない。——迷いも、欲も、焦りも」
由依が笑い、矢印の端をつま先で踏む。線は鳴らない。ただ、方向だけを指す。
最後に六人は週報をアップし、緊急モード履歴の空欄に今日の一行を埋めた。役割名だけが並び、名前は出ない。矢印と同じ太さで。
大夢は帳面に今日の一行を書く。
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