第28話_消灯後の校舎

 夜の帳が校舎を覆うと、昼間のざわめきはすっかり姿を消す。窓の外からは街灯の淡い光が差し込み、廊下の床に斜めの線を描いていた。蛍光灯はすでに落とされ、残るのは非常灯の緑色の光だけだ。

 「…夜の校舎は落ち着かない」

 咲子が声を潜めて言った。彼女の靴音は、がらんどうの廊下に響き渡り、自分の声に驚いて足を止める。

 由依が懐中電灯を掲げた。光の輪が壁を照らし、貼られた掲示物の文字が浮かび上がる。そこには「夜間の立入は記録対象」と太い字で記されていた。監査人が書き残した新しい掟の一つだ。

 大夢は背負ったリュックを揺らしながら、廊下の突き当たりを指さす。「視聴覚室の封鎖は済んだ。でも、今日の見回りはもう一か所だよな」

 「理科準備室」

 卓哉が答える。その声は冷静だったが、いつもより硬い。

 理科準備室は、校内でも特に「夜の噂」が多い場所だった。薬品棚の影に誰かが立っている、模型の骸骨が勝手に動く、顕微鏡のレンズに知らない目が映る…。どれも根拠のない怪談のはずだったが、ここ数日、夜間に「異音」が報告されていた。

 奈緒子が鍵束を握り、前に出る。「札は準備してる。必要なら貼れるように」

 龍平は壁に寄りかかり、わざと軽口を叩いた。「もし中から手が伸びてきたら、握手してやるさ」

 「冗談はいいけど、本気で触られたらどうするのよ」

 咲子が眉をひそめると、龍平は肩をすくめて笑った。

 彼らは理科準備室の前に立った。扉の向こうからは何の音もしない。ただ、空気が冷えているように感じられた。

 奈緒子が息を整え、と鍵を回す。金属の擦れる音が、廊下全体に響き渡る。扉が開いた瞬間、薬品の匂いと埃っぽい空気が一斉に流れ出した。

 「…嫌な感じがする」

 由依の言葉に、大夢も同意するようにうなずいた。

 室内に足を踏み入れると、実験器具の影が懐中電灯の光で長く伸びる。壁際のガラス棚の中で、試験管が揺れているように見えた。誰も触れていないのに。

 咲子が小さな声で呟いた。「聞こえた?」

 全員が耳を澄ます。確かに、棚の奥から「コトン」と小さな音が響いた。続いて、で液体が滴るような「ポタリ」という音。

 「風のせいじゃない」

 奈緒子が断言する。彼女の直感は、今まで何度も皆を救ってきた。

 大夢がリュックから札を取り出す。「書くぞ。三段で」

 卓哉がペンを走らせる。

 A:「夜間の実験器具の使用は禁止されています」

 B:「代わりに、昼間の授業や公開実験に参加してください」

 C:「理由は、夜に器具が「反応」しやすく、不意の事故につながるためです」

 札を扉と薬品棚に貼り付けると、不思議なことに「ポタリ」という音は止まった。試験管の揺れも静まる。

 「効いてる…?」

 咲子が安堵の笑みを見せる。

 だがその瞬間、部屋の奥、模型の骸骨の口が「カタリ」と音を立てて開いた。空気が一気に冷え込み、由依の懐中電灯が一瞬だけ揺らぐ。

 龍平が冗談を言いかけたが、その言葉は喉で凍った。骸骨の口から、紙片が吐き出されるように落ちたのだ。白い封筒。丸い癖字。監査人の印。

 由依が拾い上げ、封を切る。中には短い一行。

 全員が息を呑んだ。

 卓哉が低く言った。「…ここも「封鎖」対象に加えるべきだな」

 「同意」奈緒子が頷き、次のフローを書き込む。

 1)夜間立入は記録対象、原則禁止。

 2)器具使用は日中のみ。公開授業または担当教員立会。

 3)異音・現象は台帳へ記録し、札で封鎖。

 4)反対意見があれば掲示板で公開。

 由依は最後に札を骸骨の胸に貼り付けた。

 扉を閉めると、再び静けさが戻る。廊下に出た彼らは、互いに顔を見合わせ、誰も冗談を言わなかった。

 「次は…どこだろうな」

 大夢の呟きに、誰も答えられなかった。

 理科準備室の扉を閉めると、非常灯の緑だけが廊下に残った。壁の掲示は昼間より薄く見え、床の点描は闇に溶けている。息を吸うと、夜の校舎特有の匂い——木と薬品と古い紙——が、胸の奥にまで入り込んだ。

 「…ここから先は「巡回」じゃなく「確認」に切り替えよう」

 由依の声は抑えられているが、方向がある。「夜の校舎で、何が「見える」で、何が「見えない」か。紙を昼に戻すために、今夜のうちに測っておく」

 六人は修繕室へ戻った。黒板の灯だけを点け、机に地図を広げる。大夢がチョークを取り、廊下・階段・渡り廊下・視聴覚室・旧体育館を線で結んだ。そこに、今日までに敷いた床ラインや吊りモビール、封鎖帯の位置が重なっていく。

 「「夜に決めない」。まずそれを書こう」

 咲子が指で板を叩く。

 「夜は「説明の外」が歩く。——さっきの札、そのままルールに昇格させよう」

 龍平がうなずき、短く言葉を足した。「「決める」じゃなく「止める」。朝に戻して、地上で説明」

 由依が太字で書く。

 1)夜は封鎖と保全。新規の運用決定は原則しない。

 2)「止める」と「迂回」だけを実施。

 3)記録は役割名で残し、翌朝の会議で説明。

 4)夜の投書は閉箱。意見は「朝一番の掲示」で開封。

 5)緊急モード(人命・火災等)のみ例外。発動時は赤枠で宣言。

 「巡回の手順も合わせて起こす」

 奈緒子がペンを走らせる。

 ・二人一組(公開担当+所管)

 ・巡回順:視聴覚→理科準備→渡り廊下→旧体育館→史料室

 ・合図:手振り三種+点滅灯

 ・記録:「見えない/見える」の区別を必ず記す(推測なし)

 ・渡し札:夜間版

 ・終了後、鍵束は会計経由で台帳に返却

 「「見えない/見える」の区別を入れるの、いいね」卓哉が笑う。「幽霊情報は「見えない」で記録、ってことだ」

 「幽霊じゃなくて「説明の外」」由依が軽く睨む。「書き方の角度が大事」

 地図に沿って、実地の「確認」に出る。最初は視聴覚室。扉の札は夜間版に差し替えた——『夜の再生は行いません』。補助注釈に『聞こえない=残響を遮断するため』。札の角が非常灯を拾い、淡く光る。「字、読める?」と由依が囁くと、巡回の相方に任命された奈緒子が頷いた。「読める。角度も刺さらない」

 理科準備室は施錠の再確認。骸骨の胸の札は、夜間版の黒縁に。扉のすぐ横に「閉箱」の小箱を置く。夜に投書を集めないための「箱の封筒」だ。

 A:夜の投書は受け付けません。

 B:朝一番に掲示板の「開箱コーナー」で受け付けます。

 C:夜は「説明の外」が動く時間のため、意見の扱いは日中に行います。

 「否定は短く、代案は具体。——昼に戻す」咲子が低く復唱し、鍵のカバーを閉じた。

 渡り廊下(GY-03)。封鎖帯はしっかり張られている。温度は安定、白い息は消えた。封鎖帯の外側に小さな立て札を増やした。「危険展示/夜間照度低下中」。代替導線の矢印は夜間用に輪郭が太く、触れると光る——蓄光紙のテスト版だ。

 「夜のほうが「線の太さ」が効く」

 龍平が言う。「昼は情報が多いから、太さは競合する。夜は情報が少ないから、太さが頼りになる」

 「…名言」卓哉が感心して、しかしメモにはしない。「朝の会議で言って」

 旧体育館。観覧席(GY-02)の封鎖は端部まで届いている。吊りモビールは停止フックで固定され、鈴は鳴らない。「静けさの避難先」の案内札が緑の光の中で読みやすい高さにある。

 「足下灯、少し間隔が広い」奈緒子が指差す。

 「帳面は「環境側」だけ」由依が頷く。

 薄紙が階段の「外側」に貼られた瞬間、点が一本の細い川になった。

 史料室。投書箱の口金は静かだ。「夜は閉箱」の札が差し込まれ、透明ポケットに白紙が一枚だけ——「まだ書けないひとのために」置いてある。

 「これ、夜に白紙を置くの賛否ありそう」

 森本が眉をひそめる。

 「白紙は「意見」じゃない。「姿勢」の置き場」由依が答える。「——でも「朝に移す」動線を隣に必ず置く」

 小さな矢印が「開箱コーナー」の地図へ伸びる。「夜は置ける。朝に動かす」。手順で「まだ」を潰さない。

 巡回を一周して修繕室に戻る頃には、日付が変わる少し手前だった。黒板の前で全員が水を飲み、足をさすった。夜は、声を小さくする。小さい声でしか言えないことが増える。だから紙が要る。

 「週報、夜間版を一本分けよう」

 咲子がキーボードを叩く。

 ・夜間運用・総則(試行):施行

 ・夜間巡回プロトコル:施行

 ・閉箱:視聴覚/理科準備/史料室——朝の「開箱コーナー」へ誘導

 ・GY-02/GY-03:封鎖確認/足下灯間隔調整/蓄光矢印試験

 ・残響・異音:再現なし(推測なしで記録)

 ・緊急モード:未発動(履歴公開)

 印刷を待つ間、窓の外に目をやる。中庭の桜の黒い枝が、非常灯の緑に薄く縁取られている。

 「…ねえ、夜の校舎、嫌いじゃない」

 由依が言った。

 「こわいけど、やることがはっきりするから」

 大夢は頷く。「そうだね。昼は「足す勇気」。夜は「止める勇気」」

 そのとき、修繕室の扉が軽くノックされた。用務員の西谷さんかと思って開けると、そこに立っていたのは大夢の父だった。作業着の胸ポケットに小さなライト。片手には金属の箱。

 「夜分に悪いな。西谷さんから聞いた。分電盤、見に来たついでだ」

 「父さん…」

 驚く間もなく、父は箱を机に置いた。古びているが、丁寧に油が回っている工具箱。

 「余ってるの、持って来た。貸すんじゃない、預ける。——「直すのは物だけじゃない」って、昔言ったよな」

 大夢は息を呑む。手の上に載せた箱が、想像より重い。重さの中に、昼と夜の両方が入っている。

 「ありがとう」

 短くそれしか言えなかった。けれど、由依が横でうなずくのが見えた。「「止める」ための工具も入ってる?」

 父は笑って蓋を開けた。中には、ラチェットやドライバーと並んで、絶縁手袋、簡易の停電タグ、蛍光テープ、紙を切るための小さな裁断器。

 「ある。——「動かす」だけが仕事じゃない」

 父が去ったあと、修繕室の空気が暖かくなった。夜の冷たさに、金属の熱が混ざる。

 「明日、これで「停電訓練」やろう」

 龍平が工具箱を覗き込み、にやりとした。「予行演習。広報に「昼ツアー」のネタも渡せる」

 「「危険は上へ、道は下へ」。——停電でも同じ」卓哉が図面を起こす。

 由依は黒板の端に小さな丸を二つ描き、赤い細字の場所を空けた。「今日も「検収」を呼ぼう」

 印刷機が止まる音とほぼ同時に、修繕帳の余白に二つの黒丸が浮かんだ。

 赤い細字が一行、添えられる。

 黒板の掟に、新しい一行が増えた。

 「言い換えると、「夜は守り、朝に決める」」

 咲子が読み上げると、六人の肩が同じ速度で上下した。眠気と達成感が、同じ太さで。

 帰り支度を整えて廊下に出ると、非常灯の緑が薄れはじめていた。東の窓が灰色に明るんでいく。夜が、朝に手渡される。

 大夢は工具箱の持ち手を握り直し、帳面に今日の一行を書き足した。

 扉を閉める最後の音は、やはり短くやさしかった。非常灯が一つ、ふっと消え、廊下に朝の輪郭が差し込んでくる。六人は黙って階段を降りた。黙るのは、もうこわくない。黙り方を、紙が教えてくれるから。

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